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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 玄関のドアを開けると、見慣れたはずのいつもの部屋が、心なしかいつもよりどんよりとしているように感じた。部屋の明かりをつけてもそれは変わらない。先ほどよりも強くなった雨が窓を打ちつける音が沈鬱に鳴っている。あの花柄のエプロンでさえ、そんな空気に飲み込まれたように、どこか寂しげに隙間風に揺れていた。まるで遠い昔にいなくなった人の遺品のように。

 香澄ちゃんを浴室まで案内すると、彼女はかすかに頷き、無言のままに脱衣場の向こうへと消えていった。少しだけ彼女が服を脱ぐシーンを想像し、こんなときにそんなことを考える自分を心のうちでありったけ罵倒してから、生乾きの臭いがしないバスタオルを用意するのに骨を折った。タンスの中身をひっくり返し、比較的綺麗なジャージをバスタオルと一緒に脱衣所に持って行く。そこでも、香澄ちゃんが驚かないようにドアをそっと開けるのに神経を使ったし、シャワーの音とシャンプーのいい匂いが漂う中に、彼女の姿を想像しないようにするのにもかなりの自制心を必要とした。

 これだけの大仕事をやってのけたのち、僕はテーブルを前にしてどっと倒れるようにして座り込み、飲みかけの冷めたコーヒーを一口すすって煙草に火をつけた。時計を見ると、僕がここを飛び出してからまだ一時間も経っていない。随分長く感じられた時間だった。いろんなことが起こりすぎた。記憶を整理するように、今まで起こったことを思い出す。

 電話口の消え入りそうな声。泥をはねながら走った道。ずぶ濡れのワンピース。壊れかけた表情。慟哭。抱きしめた感触。

 どれも今までの僕からすれば現実味のない話だ。せいぜいテレビドラマの中で見かけるくらいの出来事。なんて陳腐でありきたりなストーリーだろうとせせら嗤い、チャンネルを変えることになるわけだが、実際で体験してみると退屈なんかしていられない。冷静さを保ってなどいられるわけがない。他人事であるということは恐ろしいことだと心の底から思った。しかしそんなことを考えてしまうあたり、どうやら少しは心の余裕を取り戻すことができたのだろう。そのことに少しだけほっとした。

 汚れたヤカンを火にかけ、彼女を待った。彼女が濡れた髪も乾かさないまま僕のジャージを着て戻ってくる頃には、お湯がコトコトと軽快な音を立て始めていた。僕らは無言で、暖かいコーヒーをすすった。重苦しい空気の中に、雨の音だけが流れていた。

 ちらりと彼女の方を確認すると、ぶかぶかのジャージに手を埋もれさせながら、そろそろとコーヒーに口をつけている。男物の青いジャージは、わかってはいたけれど、小柄な彼女には大きすぎた。腕のところは小さな指がかろうじてはみ出しているくらいで、体のラインもまったくわからない。なんだか子どものようだと思ったが、しかしいつもの彼女が浮かべる無邪気な笑顔は今はそこにはない。目をふせ、コーヒーの黒に自分の顔を映している以外は、じっと動かず静かに息をしているだけだった。そんな香澄ちゃんの姿を、ずっと眺めていたいとは思えなかった。痛々しい印象がどうしても残っていた。

 ーーーあのね。

 あのとき香澄ちゃんが言いかけたことがどうしても気にかかった。しかしどう口を開けばいいのかわからない。何と声をかけるべきか非常に迷う。

 今の彼女は、まるでガラスでできた人形のようだ。透明ゆえ、どこにヒビが入っているかもわからない。不用意に触ってしまったならば、それは容易く割れて粉々になってしまうだろう。そのことに躊躇いを感じずにはいられない。胸につっかえたようなもやもやとした気持ちを追い出そうと大きく息を吐いた。そのときだった。

 きゅうーっという、風船を絞り出したような、比較的大きな音が僕らの間に響いた。

 香澄ちゃんが、伏せられた目をこちらに向けた。いつかに見せたような、きょとんとしたような視線。僕は慌ててその視線を逸らした。顔が真っ赤に紅潮する。耳の先までじわじわと熱っぽくなっていく。

 …そういえば、昼から何も食べていない。

 我ながら絶望した。自分の上腹部をぎっと睨みつけた。何もこのタイミングで鳴らなくてもいいだろう。恥ずかしさのあまり、今すぐにここから逃げ出してしまいたいと思ったとき、ふふっ、というかすかな声が聞こえた。

 顔をあげると、いつもと同じ笑顔がそこにあった。もちろん、完全に元の通りではなかったが、それでも、彼女が笑ってくれた事実に変わりはない。それは僕が今もっとも欲しかったものだ。少しだけ照れ臭くて情けなかったが、香澄ちゃんが笑顔になってくれるなら、ちょっとくらい格好悪くなってもいいかと思えた。

「ごめんね、急に呼び出して。お腹空いてるんでしょ?」

 僕は首を横に振った。それでも、何か作るよ、といって立ち上がろうとする香澄ちゃんを僕は制した。

 「いいよ、僕は平気だから」

 彼女はしぶしぶと座椅子に腰を下ろしながら、「ごめんね」と呟くように言った。それとは反対に、僕が彼女に問う口調ははっきりしたものだった。

 「何があったの?」

 ここにきて、ようやく訊きにくかったことが訊けた。香澄ちゃんの表情はまた少し暗くなった。うつむいて、しばらく無言になる。僕が彼女からの返答を待っていると、彼女は顔を上げ、笑顔を作った。明らかに作られたとわかる類の、ぎこちない笑みだった。

「大丈夫。何でもないの。ちょっと取り乱しちゃったけど、大したことないから」

 そういって、はぐらかすように笑う彼女を見て、僕は何も言えなくなってしまった。言葉を失う他に、僕にできることは何もなかった。

 彼女の笑顔をじっと見た。それは今にも壊れてしまいそうなもののように思えた。そっと触れただけでも容易く崩れてしまうだろう。そんなものをつけてでも、彼女は自分の心を守ろうとしている。明らかに、先ほどあった出来事を思い出すことを恐れていた。

 しかし、僕はそんな想いにこそ、寄り添ってあげられればと思った。自分でも傲慢だと思わざるをえない。触れられたくないことに対して、僕にできることは、彼女を黙って一人にさせてあげることだと頭ではわかっている。でも。

 エゴイズムと謗られるのは覚悟の上だ。でも、僕は目の前の、悲しみに暮れている彼女の心を、少しでも癒してあげたかった。僕がそばにいることで、彼女が少しでも安らぐことができるのなら。そんな一抹の希望を抱かずにはいられなかった。

 香澄ちゃんの笑顔はすぐに消えた。また再び、悲しげな色が瞳を曇らせる。そんな様子を見ているのは耐え難い。何よりも耐え難いことだった。

 時間だけがのろのろと過ぎていった。沈黙が徐々に重さを増して、僕らの肩にのしかかった。一緒にいたい、ただそれだけを彼女に伝えたかった。言葉を選べば選ぶほど、どう伝えるべきかわからなくなる。僕は何も言えず、彼女も何も言わない。そうしているうちに、彼女がまた静かに立ち上がった。

 「ごめんね、休みの日だったのに。まだ服が濡れてるから、このジャージ着て帰ってもいい? また洗って返すから」

 そう言いながらも、僕の返答も待たずに、足早に玄関の方まで歩きだした。その後ろ姿はどこか、いつもの自分を見失っているように思えた。いなくなってしまった誰かを探しにいくかのような。

 その後ろ姿が、初めて彼女が家に来てくれた日の情景と重なってデジャヴを覚えた。雨の中、買い物に出ようとしてくれた彼女の後ろ姿。

 あのとき、僕は引き止めなかった。

 しかし、今日はーーーー。

 僕は立ち上がって、彼女の腕を取った。香澄ちゃんはびっくりしたように、一瞬肩を震わせた。立ち止まった。しかしこちらを振り返ろうとはしなかった。

 「………………」

 少しの沈黙。

 「あのさ」

 少しだけ、弱気な自分が顔を覗かせた。

 一人になりたいだろうに、このまま行かせてやればいいじゃないか。

 どうせ僕など、頼りないと思われてるかもしれない。

 けど、

 けれども、僕は、

 「今日は、一緒にいよう」

 香澄ちゃんは振り返らなかった。

 しかし、その身体の震えが、掴んだ手から伝わってきた。

 崩れ落ちるように、彼女はその場に座り込んだ。

 そして、僕が掴んだ手を振りほどくようにして、そのまま両手で顔を隠した。

 すすり泣きが徐々に大きくなる。部屋に彼女の泣く声が沈痛に響いた。

 そして、嗚咽にまじって聞こえた言葉に、僕の心はこれまでにはないほどの強さで締めつけられた。

 「大好きだったのに」 

 ひとつひとつ語られた、断片的な言葉の数々。それらが繋ぎ合わされていく。容易に想像させる。


 真っ暗な夜道。

 雨の音と、蛙の鳴き声。

 無性に寂しくなって、電話を手に取る。

 少しだけ、甘えてみたかった。

 忙しいのはわかってる。

 それでも、今日くらいいいんじゃないか。

 一握の希望を心に灯して、手探りをするように番号を呼び出す。

 コール音が一回、二回、三回。

 八回めで、ようやく彼は電話に出た。

 いつもと同じ、気怠い挨拶。

 この中から、いつも心を探り出すのだ。

 もしもし?今何してる?

 お決まりのセリフ、お決まりの返答。

 今からちょっと会えない?

 答えは同じ。いつもと同じ。

 でも今日は、どうしても君に甘えたかったんだ。

 暗い夜道が心細くて。

 普段は決して言わない一言。

 反応を期待していたわけじゃない。

 優しい言葉をかけてくれる望みなど薄いことはわかってる。

 けれども。

 そんな希望を無残に打ち砕くという表現では足りないくらいの、

 冷たくて、残忍な言葉はさすがに予想の範疇を超えていた。


 「もう、いい」

 そう言って、泣き続ける彼女を後ろから抱きしめた。香澄ちゃんはその腕を掴んで、そこに顔を埋めた。袖口がじわりと暖かくなるのを感じた。涙の温度。そのぬくもりが胸に沁みた。

 僕の心は、自分でも驚くほど冷え切っていた。今まで経験したことのない、乾いた憎しみが胸を焼く。そして同時に、かすかな罪悪感を覚えた。

 辛い事実を口に出させてしまったことへの懺悔と悔恨。香澄ちゃんの彼氏だったという、見たこともない男へ向けられていた憎悪は、いつしかその矛先を自分自身へと向けていた。

 何もできない自分。無力な自分。大きく息を吸ったが、息苦しさはどうしても拭えない。香澄ちゃんを抱きしめている間に、口は乾き、眼球の奥が熱くなり、心は焼け焦げた熱で絶え間なく悲鳴をあげていた。


 香澄ちゃんは僕から身を引いた。うつむきがちに微笑んだ。

「なんか、ごめんね」

 やめろ。やめてくれ。無理に笑顔を作らないでくれ。

「気を使わせちゃって、迷惑かけて…」

 そんなことはないんだ。だから謝らないでくれ。

「本当にごめん。一緒にいてくれて、嬉しかった」

 これ以上、

 自分のことを嫌いにさせないでくれ。

 もう一度、今度は正面から香澄ちゃんを抱きしめた。強く力を込めた。それだけで、彼女の背中が折れてしまうのではないかと思った。華奢な身体から震えが伝わってくるが、先ほどまでの震えとは違う。規則的に脈打つ心臓の鼓動。それは次第に大きくなり、また早くなっていった。彼女の鼓動の震えを感じながら、僕の気持ちは不思議なほどに落ち着いていた。きっと、憎しみの炎にあらかた焼き尽くされてしまったのだろう。灰になって、あとには何も残っていない。情けない僕はもうそこにはいない。

 最初に香澄ちゃんと帰った日のことが、頭の中に駆け巡った。きっとこの先、二度と訪れることはないくらいの奇跡。神様がもしいるとしたら、こんな時間をくれたことに感謝してもしたりない。

 だからこそ、彼女の涙はもう、二度と見たくないと思った。

 香澄ちゃんと過ごす時間を重ねるたび、自然と僕の中で、何かが消え、新しい何かが生まれていく。僕が僕でなくなっていくような感覚。情けない自分に呆れるままにしていた今までとは明らかに違う、輝きに満ちた数日間。

 

 君が変えてくれたのなら、

 せめてそれは、君のために使いたい。

 

「好きなんだ」

 僕の二十数年の、人生の中での一大事。

 初めて女性に告白した。

 目を一瞬もそらさずに、ただ一人の君だけを見つめて。

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