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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 六月に入ると、梅雨はすぐにやってきた。

 天気予報を見ると、一週間すべて雨のマーク。ジメジメして鬱陶しいし、洗濯物は乾かない。おまけに蒸し暑い雨の夜は窓を開けて眠ることもできなくなるので、エアコンのお世話になるだけで電気代はうなぎ上り、身体もだるくなってきて食欲も湧かない。梅雨の時期なんていいところのひとつもないように思える。

 しかし、梅雨でよかったと思える出来事もあった。ひとつの傘にふたりで入って帰るとき。路傍に咲く紫陽花を、しゃがみこんで眺めている香澄ちゃんの姿を見ているとき。時折、僕の方を振り返って「綺麗だね」って笑ってくれるものだから、その笑顔にノックアウトされないように足を踏ん張らなくてはならなかった。

 暑くなると素麺で夕食を済ませることも多くなる。手間もかからないし、すぐできるし、何よりうまい。これぞ万能の食材。しかしそれじゃすぐ夏バテしてしまうからといって、香澄ちゃんは毎晩のように、温かいご飯を作りに来てくれた。彼女の料理のレパートリーは本当に多くて、同じ料理を作ることはほとんどなかった。時々僕がリクエストして、美味しかったものをもう一度作ってもらうこともあるが(ちなみに一番多いリクエストは肉じゃがだった)、基本的に毎回違う献立を考えてきてくれるのが嬉しくて、何も言わずに任せるのがほとんどだった。

 香澄ちゃんと過ごす時間は増えたものの、あの後彼氏とどうなったのかは聞いていない。

 僕から聞いてしまうのはなんだか失礼な気がした。というのはただの言い訳で、単純にそれを聞かされるのが恐ろしかった。もしかしたら関係はとっくに修復されて、また幸せな日々に戻っているかもしれない。僕が入り込む余地など初めからなくて、彼女はただ、乱れに乱れまくった僕の食生活を心配してくれているだけかもしれない。このまま恋愛感情を抱き続けていてもいいものかと、日に日にもやもやとした気持ちを募らせていた。

 その日も一日中雨が降り続けていたので、休みにもかかわらず僕はどこにも出かけないでいた。もやもやした気持ちを抱えたまま、昼間からビールを飲み、煙草をふかしてベッドに寝転がっていた。いつもの休日。まるで死体のようだと自虐的に嗤った。ジメジメとした棺桶の中で、息を忘れてもなお、香澄ちゃんの笑顔だけは忘れられないままでいた。

 そろそろ、香澄ちゃんがバイトを終える時間だな。

 ふと時計を見て、そんなことを考える。今では何を考えていても、最終的には彼女のことを考えてしまう。今何をしているかな。今日はどんな服を着ているだろう。次に来てくれる日はいつだろう。そんなことを思っては、最後には壁にかけられた花柄のエプロンを眺めるのだった。それはさながら仏前に供えられた花のように、自分が誰かに思われていたという事実を確認させてくれる唯一のものだった。

 窓の外に目を向ける。水滴が窓を叩いては滴り落ちていく。次第に暗くなっていくこの雨空の下を、彼氏と一緒に帰る香澄ちゃんの姿を想像するたび、形容しがたいほどの惨めな気分が心を打ちのめした。湿った布団を頭からかぶり、何度目かの深いため息をついた。

 そのとき、携帯電話が鳴った。普段ほとんど鳴ることがないので少しびっくりしながらも、のろのろと布団から這い出した。どうせ後輩からの飲みの誘いだろう。そう思って画面を見た瞬間、今まで止まっていた心臓が大きく波打った。鳴り続ける着信音、表示されている香澄ちゃんの名前。

「…もしもし?」

 恐る恐る電話を取る。寝起きのがらがら声が伝わらないかと気が気ではなかった。

「………」

 電話の向こうは無言だった。雨の降る音がかすかに聞こえるが、香澄ちゃんの声はいくら待てども聞こえてこなかった。彼女は何も言わない。

 間違い電話だろうか? なにかの拍子に発信ボタンを押してしまったのかもしれない。通話口越しに呼びかけたら、もしかしたら気付くだろうと、柄にもなく大きい声を出そうと息を吸い込んだ瞬間だった。

「……くん」

 吸った息を無理やり飲み込んだ。今にも消え入りそうな声。ほとんど何を言っているのか聞き取れなかったが、確かに僕の名を呼んだことはわかった。いつもの元気良さは最早跡形もないが、それは明らかに香澄ちゃんの声だった。雨の音が聞こえる。そして沈黙の痛い音も。

 彼女が泣いているとわかったとき、僕の心臓は一瞬動きを止めた。

「今どこにいる?」

 反射的に言葉が声になっていた。しかし彼女はすすり泣くばかりで答えてくれない。通話口から嗚咽が漏れるたび、冷たい血液が身体中を駆け巡る感覚を覚えた。

 大切な女の子が悲しむ様子を、通話口の向こうから聞いていることしかできない。どうしていいのかわからない。焦燥がちりちりと踊り、冷静な判断力を失わせようとする。しかし何とか冷静さを保ちながら、僕は電話を握り締め、聴こえて来る些細な物音も聞き逃すまいと耳をそばだてた。早く彼女がいる場所を突き止めなければ。

 雨の音が聞こえる。その遥か向こうの方で、木々が風に揺れる音がかすかに聴こえた。時折強い風が吹くと、一斉に梢が激しく擦れ合う。僕はその音をよく知っていた。いつもの帰り道。香澄ちゃんとふたりで帰った、あの森の中の薄暗い道。

 雨の中で彼女が泣いている。その姿が脳裏に映像として浮かんだとき、僕の中で何かが急速に縮んだ。脳が痺れて熱を帯びた。それがオーバーヒート寸前まで熱せられると、ついに僕は冷静な思考を失った。いつもの僕は、どこか虚空の彼方へ消し去られてしまう。それは端的にパニックといってもよかった。僕は恐慌に見舞われ、目の前が真っ暗になった。

 しかしそれと同時に、僕の中でまったく別の人格が立ち上がるのを感じた。いつもの自分とは違う、まったく別の自分。さながら予備電源に切り替わったかのように、僕の知らない誰かが、代わりに僕の体を突き動かした。至ってシンプルな絶対的命令を伴って。

 ーーー香澄ちゃんのところへ。

 布団を蹴飛ばしてベッドから飛び降り、よれよれの寝間着をむしり取った。余計な思考をほとんどなくすと、一連の動作は自分でも驚くほど早かった。素早く着替えをすませると、寝癖も満足に直さないままに、傘を引っ掴んで外に飛び出した。

 雨の道を走った。風を受けて思うように走れないので、途中で傘を閉じた。生ぬるい雨粒が顔に当たるが気にならなかった。それよりも早く彼女のところに行きたかった。

 ぬかるみに足を取られても、水たまりに飛沫をあげながら僕は走った。長い石段を全力で駆け上がる。普段しない激しい運動に、心臓と肺が悲鳴をあげた。禁煙しとけばよかったと他人事のように思ったが、辛かろうと足を止めるわけにはいかない。

 石段を駆け上がって、すぐに行き当たる分かれ道。香澄ちゃんの姿をそこに認めたとき、僕は立ち止まり、絶句した。そこに普段の彼女の姿はどこにもなかった。

 すっかり雨に濡れてしまっている。短い髪の先からは水滴が滴り落ち、淡いピンクのワンピースが肌に張り付いている。しかしそんなことを彼女は気にもしていないようだった。俯いた顔は、暗がりでもわかるほどに青白く、ぼんやりとした瞳からは生気がまったく感じ取れなかった。微動だにせず、ただ雨にうたれ続けるその姿は、僕が想像していた以上に痛々しかった。彼女は残酷なまでに壊れかけていた。

 彼女の名を呼んで、傘を差し出した。香澄ちゃんがゆっくりと顔をあげた。その表情は驚くほど虚ろだった。どこか遠くに住んでいる人のようだった。

 ほとんど反射的に体が動いた。水たまりになった地面に膝をつき、ずぶ濡れの彼女の身体を強く抱き寄せた。小さな体が、一瞬驚いたように震えた。しかしそんなことに構うことなく、ずぶ濡れの彼女を強く抱きしめた。

 香澄ちゃんは僕の腕の中で、しばらく身動き一つしなかった。寒さに耐えるように、かすかに身体が震えている。その震えが徐々に大きくなった。やがて、忘れ物のように垂れ下げられていた両腕が、探るようにゆっくりと、僕の背中に触れた。そしてシャツをぎゅっと強く握りしめると、大きな声をあげて、子どものように泣き出した。僕はその声を聞きながら、彼女の背中をさすった。母が泣きじゃくる子どもをなだめるように。

 

 思い切り泣けるということは大切なことだ。僕はそう思う。

 泣くということは、自分だけで処理できないほどの大きな悲嘆を、受け止め理解してくれる誰かに放出する行為だと思う。子どもが母の胸で泣くのは、そこに確かな温もりと安心を感じるからで、つまりその悲しみを理解し受け止めてくれると信じているからだ。

 しかし大人になるにつれて、抱える悲しみの大きさも増してゆく。それこそ他人の手に余るほどに。だから大人は、思い切り声をあげて泣くということをあまりしない。人は大人になると慟哭しない。そしてそのうち、泣くという行動それ自体も忘れ去られてしまう。人はそれを成長と呼ぶのだろうか。

 しかし、蓄積された悲しみは、消えることなく着実に膨れ上がり、いずれ爆発することになるだろう。それはときに、生命を脅かすほどのダメージになりかねない。

 だから人は、慟哭をぶつけるべき相手を探し続けるのだ。おそらく生涯をかけて。おそらく生きるということを維持するために。

 だから彼女にとって、慟哭をぶつける相手となりえたことを僕は誇りに思えたし、同時にそんな彼女を愛おしく思った。

 自分の弱い部分をさらけ出してくれた彼女。僕らは長い時間、雨にうたれることも気にしないまま、ずっとそうしていた。どれほどの間かはわからないけれど、だいぶ長い間そうしていたように感じた。

 

 しばらくして、香澄ちゃんは僕の腕の中から見上げるようにして顔を出し、まだ涙に濡れている瞳で笑った。ちょっとずついつもの香澄ちゃんが戻ってくる。しかしその笑顔はまだ歪だった。

 「…ありがと」

 小さな声で彼女は言った。ようやく僕は我に返った。香澄ちゃんから腕を話すと、顔を真っ赤にして頷いた。なんと声をかけていいかわからなかったが、香澄ちゃんがなぜこんなことになってしまったのか、僕は彼女に訊かなければならない。

 「あのね」

 彼女が口を開こうとしたとき、僕はその言葉を遮った。

「待って。このままじゃ風邪ひいちゃうよ」

 彼女の手を取った。冷静な思考は取り戻しつつあるが、同時に別の人格もまた僕の中に混在していた。奇妙な感覚に自分でも戸惑ってしまったが、目の前で壊れそうになっている女の子を救うには、このまま別人格に身を委ねていた方がいいだろう。

 香澄ちゃんは僕の目を見ていた。僕も彼女の瞳を見つめていた。真剣な眼差しが交錯して、掴んだ腕からかすかな体温を感じた。雨に打たれて随分冷えてしまっているが、それでもまだ、彼女の温もりは消えていない。

 僕らは傘を分け合って歩き出した。何も言わないまま。言葉をかわさないまま歩きながら、つないだ手から温もりも分け合った。

 ふと見ると、長い石段の途中に、先ほどの香澄ちゃんと同じように、傘もささずにずぶ濡れのまま座っている女の子がいた。少し気にはなったけれど、通り過ぎると同時に、その子のことはすっかり忘れてしまった。僕に救えるのは隣にいる香澄ちゃんただ一人だと、そのときは本気で信じていた。

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