終
彼はペンを置き、椅子に深くもたれた。ずっと忘れられていた煙草が灰になり、漂っていた匂いもやがて消えた。すっかり冷めたコーヒーを一口すすり、先ほどまでしたためていた内容をざっと読み返した。
懐かしい夏の思い出。それを文字に起こそうと思いついたのは数ヶ月前のことだった。
最初はすぐに済むだろうと高を括っていたのだが、いざ書き出せば、思い出すことがあまりにも多すぎて、結局まとめるのに長い時間を必要とすることになった。しかし、彼はようやく書きあがったことに対して満足したし、大切な思い出を、記憶の中でもう一度たどる旅を楽しむこともできた。
窓の外にふと、視線を送る。春先を過ぎた空気は少し湿り気を帯び、じきに来る雨の季節のことを容易に予感させる。それもまた、彼にノスタルジーを感じさせるひとつの要因かもしれない。
思い出の街を離れ、違う生活に身を置くようになっても、雨の日にはいつも思い出さずにはいられなかった。彼にとって初めて恋をした季節、今までの人生でもっとも複雑で、もっとも幸福だった時間。分厚い原稿用紙の束を持ち上げた。その重みが、今の自分を形作っている。そう思うと少し嬉しくなった。
ふと思い立って、彼は時計を見、それから外出用の服に袖を通した。なんの予定もない日曜日の昼下がり。退屈であるはずの休日は、しかし突発的な行動を起こすには向いている。冷めたコーヒーを一息に飲み干して、ほとんど荷物も持たずに外へ出た。先週買い換えたばかりの新しい携帯電話のアプリで確かめると、あの街は今日、雨の予報だった。なんとも間のいいことだと彼は思った。
長期の休暇などを利用して、年に数回は、あの街へ帰っている。
そのたびに、優しい老夫婦は手料理と年代物の洋酒を振舞ってくれたし、年下の旧友と安居酒屋で酒を酌み交わした。そこにはいつも、彼らの笑顔が溢れていた。時はめぐり、環境は変わっても、笑顔だけはいつまでも変わらずにそこにあり、彼を一瞬だけあの頃に帰してくれた。
しかし同時に、切なさも感じずにはいられなかった。一番そこにあって欲しいはずの笑顔。それをいつだって、心のどこかで求めていた。
新幹線から降り、彼は郷愁を含んだ空気をたっぷりと吸い込んだ。かすかな雨の匂いまであの頃のままだ。小雨が駅の屋根を打つ音を聞いて、持って来た傘を忘れないように注意した。
駅前から住宅街の方へぶらぶらと歩きながら、その景色ひとつひとつに思い出を重ねた。先ほどまで紡いでいたストーリーをたどるように。
以前勤めていたレストランの前を通りかかるとき、その思い出がなお鮮明に蘇った。見知らぬ女性スタッフが数人談笑している奥に、店長夫妻の懐かしい顔が見えた。歳月を経ても、その優しげな雰囲気は変わらない。挨拶でもしていこうかとも思ったがやめた。今日は一人で思い出に浸っていよう。彼がそう思って踵を返すと、次第に強まる雨の雫が、軒先を叩いて大きな音を立てた。
そう、すべてはここから始まったのだ。
胸ポケットから煙草を取り出し、雨の降る空に向かって深く煙をはいた。雨に溶けた煙草の匂い。少しもの悲しげな雨の音。
「あれ、まだいたの?」
あの一言が聞こえてきそうだ。あの奇跡から、すべては動き出した。
そのまま傘を差し、あの道を辿った。森の中の道は今でも少し薄暗い。雨が葉を打ち、風が梢を震わせる音が聞こえる。路傍に紫陽花が咲き、そこにしゃがんで眺める背中を思い出した。なにも変わらない景色のなかに、変わった彼だけがゆっくりと歩を進めてゆく。記憶の中を泳いでいるような気になった。夢の中にいるような錯覚を感じた。
分かれ道を通り過ぎ、石段の上に立った。雲間から射し込む陽光が神秘的で、心が現実の世界をすこしの間だけ離れようとする。眼下に広がる景色を眺めた。あの子と初めて会った場所。あの子とさよならをした場所。
ちょうど、その石段の隅に座っていたのだ。傘をたたみ、その場所に腰掛けた。そして、すこしの間だけ、あの夢に浸っていようと思った。何度も何度も、あの頃の記憶を辿る。一番最初に、あの子に差し出した傘の色まで鮮明に思い出し、そして最後は同じフレーズで終わる。
「ずっと一緒に」
雨粒が、彼の髪から滴り落ちた。頰を流れて落ちるのは、空を知っている雨なのか。
うなだれ、すでに諦めかけた願いを想わずにはいられない。もう一度、あの子に会いたい。あの子が笑ってくれたらどんなに救われるだろう。自分は一体何から救われるべきなのだろう…。
「あの」
不意に声がした。降っていた雨がやんだような気がした。
「風邪ひきますよ、こんなところにいたら」
強烈に記憶が蘇った。彼は驚いて顔を上げた。彼を見下ろす表情は、とても幸福そうな笑顔を浮かべていた。漆黒のように黒い髪、コントラストに映える白い肌、しかしその頬に赤みがさし、やがて笑いながら涙を流したとき、彼はその中に命の輝きを見た。それは今まで探し求め、求めて、求め続けたものだった。
雨が降ると思い出す。
特にこんな冷たい雨だと。
その雨に、歌うように紡いだ思い出も、いまだ醒めやらぬ恋のぬくもりも、すべてはいまだ鮮明な光を放ち、彼の目の前に在り続ける。
一夏だけの幸福な夢。彼らは今もあのときのまま、壮大な奇跡の只中にいた。