2
色を識別できる動物はどれくらいいるのだろうか。
犬や猫は、色がほとんど認識できないと言われている。昆虫や鳥類などは、紫外線を認識できるほど高度な識別能力を持っているらしい。彼らには世界はどのように見えているのだろう。
色とりどりに咲き乱れる花畑を見て、美しいと感じるのだろうか。より鮮やかな、魅力的な個体を素敵だと認識できるのだろうか。
でもそれはきっと、本能とは違うレベルの感慨であって、動物たちは「美しい」という感動よりも「生きたい」という衝動に対して積極的だろうから、もともとそんな知性は必要でないのかもしれない。
決して人間以外の生物を蔑んでいるわけじゃない。むしろそんなシンプルな思考のみ研ぎ澄まされた生物たちを羨ましくさえ思っている。つまり、シンプル・イズ・ザ・ベスト。
別に僕はここで、生物学や心理学に関する考察を述べたいわけではないし、自分の座右の銘をひけらかしたいわけでもない。目の前に起こっている、あまりにも奇跡的で、ある意味で奇怪的な出来事について理解を求めていたら、いつの間にかそんな思考迷路に突っ込んでしまったのだ。僕はいつもこういうところで脇道にそれる。
殺風景な部屋。小さなテレビと、一人の食事が侘しく感じない程度に小さいテーブル。ところどころ布が破れた汚い座椅子。インターネットを見るためだけに使う、そんなに性能の良くないパソコン。キャベツとベーコンとマヨネーズと缶ビールが六本入っているだけの冷蔵庫。寝返りをうつたびに軋むベッド。せめてもの贅沢、低反発枕。
ぬいぐるみや観葉植物など、部屋を彩るアイテムなどない。テレビの録画機能や、携帯電話のスピーカーで十分事足りるので、コンポやCD、漫画やDVDなども一切ない。バイト先で唯一仲のいい後輩からは、「部屋というより刑務所みたいですね」と揶揄されてしまったことすらある。シンプルだとむしろよくない場合もある。この場合がまさにそうだ。
「わあー」
部屋に案内した(というより僕よりも先に押し入った)香澄ちゃんが、まず第一に発したのは感嘆の声だった。それは純粋に、「男の一人暮らし」という未知の領域に初めて踏み込んだことに対しての好奇心の充足を意味していた。そして部屋をぐるりと見渡して、
「地味!」
と、的確極まりない評価を僕に叩きつけた。僕が香澄ちゃんに惹かれた要因のひとつに、その素直な性格があるのだけれど、そこまであけすけに断言されるとぐうの音も出ない。反論の余地もないままうなだれていると、香澄ちゃんははっとしたような表情を浮かべ、ベランダに向かって一直線に突進した。
「洗濯物、干しっぱなしだよ!」
そう言いながら、なんの遠慮もなくがらりと戸を開けた。慌てた僕が駆けつけるのも待たず、洗濯物を次から次へと部屋のなかに放り込んでいく。
シャツやジーンズ、バスタオル、枕カバー、更には肌着やパンツに至るまで、なんの躊躇もなく鷲掴みにしていく。その勇ましい姿に呆然としていると、突然その勢いがぴたりと止んだ。どうしたんだろうと様子を伺っていると、しばらくの沈黙ののちに、香澄ちゃんが今にも泣きそうな顔でこちらに振り返った。
「届かない…」
下着が吊るされているハンガーを手に、うっすら埃のたまったカーテンレールを見上げている。どうやらあそこに吊り下げたいが、背が低いせいで届かないらしい。慌てて彼女の手から洗濯ハンガーを取り戻し、僕が代わりにカーテンレールに引っ掛けた。
そうすると、なんだか急に笑いがこみ上げてきた。こらえきれず、僕は声をあげて笑った。
「あ、ひどい! どうせチビですよ! 悪かったですね!」
香澄ちゃんが声を荒げる様もおかしかった。僕はしばらく声をあげて笑い続け、彼女はむくれながらこちらを睨んでいた。
こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。それは記憶を遡っても、思い出せないほど遠い昔のことのように思えた。
きっとまだ純粋さを残し、誰からも愛されていると思っていた子どもの頃。まだ見ぬ未来に自信と希望を持っていた時代。
いつの頃からか、自信も希望も、夢も未来も失ってしまった。そんな僕に、この小さな女の子が、そのときの記憶を思い出させてくれた。それはとても大きな力のように感じた。
「ねえ、お腹空かない?」
ようやく機嫌も直してくれた香澄ちゃんが、次に冷蔵庫の方へと進んで行く。ぎくりとして、背筋が冷たくなるのを感じた。
先にも述べたが冷蔵庫のなかには、お世辞にも人に見せたくなるようなものが収められているわけじゃない。栄養失調に明確な形を与えたような庫内状況が、あろうことか一番知られたくない相手によって暴かれようとしている。危機感に全神経が震えた。
「開けてもいい?」
どうやら客人としてのマナーは心得ているようだ。先程のように、いきなりがばっと開けられるのではないかと肝を冷やした。もちろんこの機を逃すつもりはない。僕は果敢に制止を試みた。
「…開けないで。見ないで」
弱々しいノーではあったけれど、香澄ちゃんは渋々ながらも素直に従ってくれた。安堵するとともに、少しだけ拍子抜けしてしまう。
すると香澄ちゃんは突然「わかった!」と叫んで掌をぱんと叩き、びしっ! という効果音でも聞こえて来そうなほど鋭く僕を指差した。
「どうせレタスとチーズとケチャップとビールしか入ってないんでしょ!」
ほぼ正解です。彼女には透視能力でもあるのだろうか。またも反論の余地なくうなだれていると、香澄ちゃんはいそいそと玄関のほうへ向かい、まだ水滴がついたままの傘を取り出した。振り返って、僕にもう一度微笑みかける。
「ちょっと買い物してくる。今日は私のおごりでいいよ」
そう言い残して、彼女は豪雨のなかへ走っていった。その背中をただ呆然と見送った。
まるで嵐のような子だ、という印象を受けた。この短い時間の中で、随分とイメージを覆してくれたものだ。もっとおしとやかな女の子とばかり思っていたので驚きを隠せない。
しかし悪い気はしなかった。むしろ今まで知らない一面を知ることができて、より彼女を理解することができて嬉しかった。もっと彼女のことが知りたい。そのためには、多少の驚きも必要なのだろう。
ただし僕自身の反省として、もう少し生活感を整えておく必要はありそうだ。
「ふうー、やっぱりすごい雨だね」
傘についた水滴を払いながら、香澄ちゃんが帰ってきた。よく見ると肩や背中の辺りも濡れてしまっている。なんだか申し訳ない気持ちになった。
「おかえり」
自然と口をついて出た言葉なのだが、どこか微妙に不自然さを感じた。
僕自身、今まで家族以外の人間から「おかえり」などと声をかけてもらったことなどない。それは他の挨拶とは少し違う、より親密な者同士の挨拶であるような気がした。
香澄ちゃんは今日初めてうちに寄ったばかりなのに、馴れ馴れしくそんなことを言われても、戸惑わせてしまうのではないか。しかし香澄ちゃんはにっこりと微笑んだ。その笑顔は、ごちゃごちゃと考え込むことには意味がない、というような気にさせる。要するに毒気を抜かれるということか。
「ありがとう」
少し照れくさかったが、今度は自然にではなく、面と向かって、意識して彼女にそう言った。「いいよ」といって彼女はまた笑った。
「あ、そうだ」
香澄ちゃんは靴を脱ぎながら、ビニール袋の中をごそごそしだした。そして、ピンク色の布のようなものを一枚取り出すと、「じゃーん!」と言って、僕の目の前におもむろに広げて見せた。
「かわいいでしょ。スーパーでたまたま見つけたの。この格好のままご飯作るのも不格好だし、ちょうどよくない?」
薄いピンクの生地に、可愛らしい花がプリントされているエプロン。殺風景な部屋にはあまりにも不釣合いな色合いだが、その花に負けないくらいの笑顔で彼女は言った。本当に、神様はどれほどの奇跡を僕に起こしてくれるのだろう。
…と、ここでこの章の冒頭で論じた思考迷路に突っ込むことになったわけである。とにかく、目の前でエプロンをまとい、キッチンに立つ香澄ちゃんの姿は、僕が今まで見たどんな光景よりも輝いて見えた。無彩色の地味なキッチンに、ピンクのエプロンが踊っている。人間に生まれて来てよかった、そうしみじみと思った。
てきぱきと料理をこなしていく香澄ちゃんを視界の端で気にしながら、出来上がるのをただ待った。
バイト先の喫茶店では主にホール担当の彼女だが、料理の腕はキッチン担当の僕よりも明らかに上だ。その動きは機敏だったが、しかし決して雑になることなく作業を進めていく。そこに時折、僕に対する気遣いさえも垣間見えた。ことあるごとに味付けに関して好みを聞いてきてくれるのは、女性らしさのなせる業というべきか。
「パセリ嫌いじゃない?入れても大丈夫?」
「卵の焼き方は固めがいい?ふわふわがいい?」
僕は首肯することしかしなかったので、大体彼女の思う通りに出来上がってしまったわけだけど、そうして出来上がったオムライスは本当に美味しそうだった。そうでなくても人が自分のために作ってくれた料理は、とても暖かくて、素晴らしく美味しく感じるものだ。特に、好きな女の子が作ってくれた料理となれば、もう言うことはない。
今まで食事は、ただひらすら退屈な時間でしかなかった。バラエティ番組やドラマなんかを垂れ流しながら、無言のままに食べ物を喉に押し込むだけ。ビールを飲んで、気づけば風呂に入る間もなく眠って終わる一日。それしかなかったはずの空間に、今はエプロンの花柄と、香澄ちゃんの笑顔が揺れていた。
テレビを見ているよりも、彼女とのとりとめのない話のほうがずっと楽しかった。もっぱら香澄ちゃんが喋り、僕が聞きながら相槌をうつばかりだったけれど。
職場の話。休みの日の話。好きなスポーツや、最近買ったCDの評価。思わず泣いてしまった映画の話や、最近近所にできた遊園地の話。彼女の友だちの話や、僕の友だちの話。
そして、恋の話。
「別れちゃいそうなんだよねえ、彼氏と」
食事が終わって、ふたりでビールを飲んでいたときに、何気ない感じで彼女は言った。何気ない感じとはあくまで「感じ」だけで、口調からは悲しげなものが滲んでいた。缶のプルタブを開ける僕の手が一瞬凍りついた。思ったより大きな音を立てて開いたビールから、勢い良く泡が溢れ出した。
彼氏がいるということを僕は知らなかった。予想はしていたし、身構えていたはずだけれど、いざ聞かされるとショックは大きかった。胃袋に鉛の塊が、どすんと音を立てて落下したような感じがした。
「どうして?」
冷静さを装うのに全神経を使いながら、僕は尋ねた。そのとき香澄ちゃんが僕に向けた笑顔には、これまでにはなかった、どこか切ないものが混ざっていた。彼女もまた、平静を装うのに必死なのだろう。
「年上の彼氏なんだけどね。大学のときの先輩。卒業してもずっと付き合ってたけど、もう一緒にいることに慣れちゃったのかな。休みを合わせて遊びにいくこととか、バイト終わってから会うこととかもなくなっちゃって」
彼女はビールを少しすすった。僕の手は酒を口に運ぶこともしないまま、結露でじっとりと湿っていた。
「私が晩ご飯を作っても、何も言わないで、笑わないで食べるの。ずっとテレビの方ばっかり見てるの。私が何か言っても、ふうんとか、へえとか、もう会話じゃないの。ただの音、みたいな。お風呂に入って、泊まっていって、一緒に寝て、決まったことしか起こらなくて、ルーチンワーク? そんな感じがしてさ、そんなことがずっと続くから、私のこと嫌いになったんじゃないかなって、思ったりもするんだ」
どことなく、声が震えているような気がした。帰り道でも、彼女は震えていた。それは僕に容易に想像させた。暗い夜道を、一人きりで帰る彼女の姿を。食事の用意を買って帰る。こんなひどい雨のなかでも。
今日は笑ってくれるかな。普段より味付けを少し変えてみたんだ。そこから会話が広がっていけば、きっと付き合い始めた頃のように楽しい夜になるはず。きっと。
暗い帰り道を、迎えにさえ来ない男のために。
僕のなかで何かか燃えた。それは、この小さな女の子の彼氏とされる男への怒りと、嫉妬と、彼女に対する憐れみと恋慕だった。
それらの感情が「愛」と呼べるのかはわからない。自ら彼女に対して感じるそれを「愛情」というのには気が引けた。香澄ちゃんは、手に持った缶をぼんやりと眺めていた。その虚ろな視線を見るのは辛かった。
彼女を愛していると言えなかった。この感情が愛なのかはわからなかった。
けれど、なんとか彼女を救いたいと思った。その気持ちだけが、僕の中で確かなものだった。何をしてあげられるのかわからないし、結果彼女に辛い思いをさせてしまうだけかもしれない。
けれど、もしさっきのように、刑務所みたいな部屋に招待しただけで、彼女の料理を美味しいと言った言葉だけで、彼女が笑ってくれるのだとしたら。
「ねぇ」
僕は呼びかけた。ほとんど反射的に。言葉というにはあまりにも短く淡白なものだ。香澄ちゃんの言葉を借りるなら、ただの音とでもいうべきか。
「なに?」
その小さな頭をわずかに傾けて、彼女は僕からの続きを待った。それに言い淀んだ。続きの言葉が出てこない。続く言葉が見つからない。
ならばと僕は、いっそ思考を止め、ただ事実だけを反芻した。彼女のことが好きで、今日のことがとても楽しくて、幸せだった。それを端的に表現すべきではないか。このパラグラフの冒頭で自分で語っていたではないか。
つまり、シンプル・イズ・ザ・ベスト。
「また、オムライス作ってくれる?」
気恥ずかしさを覚えた。自分でもわかるくらい、みるみるうちに顔面が紅潮していく。これではあまりにもシンプルすぎる。もうちょっと気の効いた一言は言えなかったものか。これではまるで母親に好物をねだる子どもじゃないか。
なんとか取り繕おうと次の言葉を探しているうちに、きょとんとしていた香澄ちゃんの瞳が、少しだけ輝いて見えた。先ほどまであった瞳の虚構から、生気が引き上げられたかのように。
「うん、もちろん!」
そう言って、香澄ちゃんはぐっと、僕の方に身を乗り出してきた。言葉を探していた僕は、その行動に驚いて背中を仰け反らせた。
「オムライスでいいの? 私、他にも結構得意な料理多いんだよ。炒飯とか、ハンバーグとか、ちょっと手間かけてもいいなら、肉じゃがとかサバの味噌煮とかも作るよ」
彼女が肉じゃがを作っているところを想像した。口の中に唾がたまり、心臓がドキドキする。
「…肉じゃががいいな、次は」
そんなことをぼそりと言うことしかできなかったが、香澄ちゃんはまたにっこりと笑ってくれた。
「じゃあ、あのエプロン置いていくね。ちょっと地味な部屋だから、インテリア代わりにでも眺めておいてください」
ちょっと失礼なことを言い残して、ビールの残りを飲み干すと、香澄ちゃんはそのまま立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
玄関まで彼女を送った。
本当はアパートの下まで送って行きたかったけれど、雨が降っているからと彼女に止められてしまった。靴を履く香澄ちゃんを目の前にして、最後に何か言いたくなった。しかし酔いのせいか、僕の頭はまだぼんやりしていた。
このまま香澄ちゃんは、彼氏の元へ戻ってしまうのではないか。そう思うと、なんだか落ち着かない気持ちになった。そんな僕を見透かしたように、香澄ちゃんは最後に僕の方へ向き直って言った。
「ありがとう。とっても楽しかった」
そして、少しだけ間を置いて、すこし照れたように、
「…また来るから」と言った。
そのときの彼女の表情が、これまで見たなかでも特に印象的だったのを覚えている。僕が頷くと、彼女はまた素敵な笑顔を残して、ドアの向こうに姿を消した。
僕はしばらく玄関口で、すっかりぬるくなった缶ビールを手にぶら下げたまま、あのとき言った自分の言葉を思い出していた。
「また、オムライス作ってくれる?」
思えば、彼女はあの言葉を待っていたのかもしれない。
自意識過剰も甚だしい。今日の僕はどれほど自惚れれば気がすむのだろう。