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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 雨粒が窓を忙しなく打つ音で目を覚ました。

 寝癖を整え、簡単な朝食を済まし、着替えてからコーヒーを飲み、煙草に火をつけた。そしてぼんやりと、彼女に何を言おうか考えた。しかしすぐにやめた。あらかじめ考えたところで、そのときその通りに言えるとは限らない。もしかしたら全然別の言葉が口から出ることもある。僕は今から舞台に立つわけではない。台本通りに、筋書きを演じるわけじゃない。現実を生きるのだ。そのときにしか言えない言葉で未来を繋ぎにいく。

 煙をふかしながら、ぼんやりと部屋の中を見渡していると、カーテンレールの隅に引っかかっている何かを見つけた。樒ちゃんが一生懸命作ったてるてる坊主がひとつぶら下がっていた。

 必死そうに祈る顔。僕はそれを手にとってしばらく眺めてから、ジャケットのポケットに忍ばせた。

「祈ってくれないか」

 誰に言うでもなく、一人で呟いた。

「僕らのために祈ってくれないか」

 もう二度と、彼女に会えないかもしれない。どこへ行っても、何をしても、もう彼女に会うことは未来永劫ないかもしれない。そう思うと、深い悲しみに襲われた。そんな感情を振り払うのに、強い意志の力を必要とした。ポケットの中のてるてる坊主をぎゅっと握りしめ、ひっそりと、雨の季節に起こった出来事を思い返した。それは、まるで誰かを弔うかのような密やかさを伴っていた。

 神様は僕にたくさんの奇跡をもたらしてくれた。香澄ちゃんに恋をしてからすべては始まった。辛い恋を経て、樒ちゃんと出会い、人生で最も幸せな時間を過ごすことができた。おそらく、僕はこの夏起こった出来事のすべてを、今後忘れることはないだろう。時の流れは思い出を風化させてしまうだろうが、この感情だけは、いつまでも僕の中に留まり続けるだろう。

 だから、神様。最後にもう一度だけ、奇跡を起こしてくれないでしょうか。

 そう祈ってから、さめざめと降る雨の中に出て行った。


 石段を一段、また一段とゆっくり登っていく。バイトに遅刻しそうなときはいつも一気に駆け上がるけれど、今日はその感触を確かめるように踏みしめた。その一段一段に、座り込む女の子の影を確かめながら。

 一番上まで上がりきったところで、僕は振り返った。眼下に街の景色が一望できた。森も、山も、家々も、遠くに広がる海さえも見渡すことができた。雨のせいで、ずっと遠くの方はぼやけて見えるけれど、それでも一面に広がる景色は美しかった。この街で過ごした日々のことが、自然に思い起こされる。

「最初はさ」

 意識しなくとも、口が勝手に動いた。僕は思い出を声に出して話した。

「最初は本当に味気ない、単調な日々だった。バイトに行って、帰って、ビールを飲んで寝るだけ。楽しいも悲しいも何もない、空っぽの毎日。どうせ僕のことなんか誰も気にも留めていないし、僕自身も、誰のことも気にかけてはいなかった」

 ただ空に向かって言葉を投げた。

「でも、一人の女の子に出会ってから、人生ってこんなに楽しいのかって初めて思った。こんな僕でも、人を好きになっていいんだって思えた。それはとても新鮮な感情で、その気持ちはどんどん僕を変えていった。だんだん強くなれた気がした。そんな感覚も初めてのことだった」

 思い出をひとつひとつ紡ぐ。

「その子と別れることになったときは本当に悲しくて、辛かった。いっそこのまま死んでしまおうかと思うほど。そんな大きな悲しみを感じることも今までなかったけど、こんなに辛いなら、もう恋なんてしたくないとさえ思った。そんな僕を救ってくれたのは君だよ」

 一筋、かすかな風が吹いた。木々が揺れる音が聞こえた。

「最初は、本当に暗い子だなって思った。傘もささないでずっと石段に座ってるから。そんな女の子を、いきなり遊園地に誘ったりして、自分でもよくわからないことをしたと思ったよ。たぶんこっぴどく振られたせいで、自棄になってたんだと思う」

 木々はずっと歌い続けていた。

「でも、一緒に遊びに行ってよかった。初めて笑ってくれたときはすごく嬉しかった。君がもうこの世にいない人だって知らされたときも、その笑顔を思い出したらどうでもよくなった。そんなことが瑣末に思えるくらい、僕は初めての君とのデートが楽しかったんだ。本当だよ」

 記憶がまるで、あの遊園地で見たパレードの行進のように通り過ぎていった。

「いろんなところへ遊びに行くたびに、君のことがどんどん好きになった。同時にすごく怖かった。このときが、いつか終わってしまうんじゃないかって思うと不安だった。そんなことなら、いっそ僕の方が君のいる世界に行こうと思った。君とずっと一緒にいたかった。でも、それは全部自分のエゴだと思ったよ。僕は自分のことばかり気にして、君や、僕の周囲の人たちがどんな思いをするかを全然考えていなかった」

 ごめんね、そう言って僕はわずかに視線を落とした。うなだれた。

「もう君に会えないなら、これだけは伝えたいんだ。君が僕にかけがえのないものをくれた。それこそ死ぬほど、人を好きになる気持ちを気づかせてくれた。だから僕は、これからもずっと生きていく。君がくれたこの気持ちを、ずっと忘れたくないから」

 また風が通り過ぎていった。樒ちゃんの姿はどこにもなかった。僕は肩を落として、元来た道を帰ろうと足を踏み出した。

 そのとき、背中に何かが触れた。その感触が寄りかかるようにぐっと重たくなった。腰の辺りに華奢な手が触れた。その手はそのまま僕の体をぎゅっと強く抱いた。暖かい手だった。それから、聞き慣れた声が耳をくすぐった。

「振り向かないで」

 樒ちゃんの声だった。

「私今泣いてるから」

 僕はかすかに頷いて、腰に回された手に触れた。

「本当に幸せだったよ」

 うん、と言おうとしたが、うまく声にならなかった。

「なんで私は死んじゃってるんだろうって、すごく後悔した。もっと早くあなたに出会っていればよかった。そうしたら、お父さんもお母さんも、誰も悲しむことなんてなかったのに。生きていれば、本当にずっと一緒にいて、一緒に歳をとって、笑って最期を迎えられたのに。自分はなんてことをしたんだろうって、後悔するのが辛かったよ」

 抱きしめる力が強くなった。苦しいくらいに。その強さに息が詰まった。涙が出そうになった。

「あなたとずっと一緒にいたかった。でも、あなたが苦しむなら、そんな幸せなんていらない。生きてるって本当に幸せなことだもん。生きてたらまたたくさん幸せなことがある。あなたまでその未来を捨てることはない」

 僕はさっと振り返った。樒ちゃんに向き直った。その顔を見るのは久しぶりなように感じた。その綺麗な顔が、涙でくしゃくしゃになっているのがわかった。しかしそれをよく見ることもせずに、そのまま体を強く抱き寄せた。強すぎて折れてしまうんじゃないかと思ったが、込めた力を緩めることはしなかった。

 言いたいことがあった。しかしうまく言葉にすることができなかった。ただ無言で、抱きしめる腕に力を込め続けた。そのうちに、耳元で嗚咽が聞こえた。それは次第に大きな泣き声に変わっていった。肩に涙のぬくもりが感じられた。僕らはそのまま抱き合っていた。いつまでも、いつまでも抱きしめあっていた。

「ねえ」

「ん?」

「もし生まれ変われたらーーー」

「うん」

彼女の言葉はそこで切れた。

「…そしたら、また一緒にいよう」

 気がつくと、彼女は消えていた。そのぬくもりと、涙の響きだけをかすかに残したまま。それも次第に消えてしまって、あとには何も残らない。

 しかし心の中には、確かに残るものがあった。それは思い出であり、愛する気持ちであり、その輝きだけは色あせることがなく、暖かいままそこにある。

 雨はもうすでに止んでいた。雲間から一条の光が差し込み、秋の香りを含んだ風が吹く。その風が向かう先を見つめていた。空を知らない雨が一筋、頬を伝って落ちた。

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