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「もしよかったら、夕食でも食べていってくださいな。主人ももうじき帰る頃だと思うから。」
普段ならこういう誘いは丁重にお断りするところなのだが、お母さんの優しげな表情を見ていると、どこか他人と一線引けないような気になってきて、今回はお言葉に甘えることにした。
夕飯の支度を手伝っていると、玄関の戸が開く音が聞こえた。思わず体が強張った。出迎えに向かいながら、あまり歓待されなかったらどうしようと思ったが、事前にお母さんが連絡を入れたのだろう、僕の顔を見るなり手を差し出して、笑顔を浮かべてくれた。
「樒が大変お世話になったそうで」
僕は名乗って頭を下げ、その手を握り返した。お母さんの手とは違って、ごつごつとした手だった。力強い男の手だ。
握手の力強さとは対照的に、表情はお母さんと同じく、柔らかくて優しげだった。顔つきは厳格そうだが、微笑んだときには目尻が垂れ、温和なイメージが勝る。樒ちゃんはいい両親の元に生まれたんだな、と思った。
「若い人と食卓を囲むのは久しぶりだ。子どもは樒一人だったから、息子ができたようで嬉しいよ。酒は飲むかね?」
「はい、嗜む程度には」
家で毎日缶ビールを飲んでいる、ということまでは言わないでおいた。お父さんは嬉しそうに頷いた。
「よかった。最近の若者は男でも飲まない人が多いと聞いていたので心配していたんだよ。洋酒が好きでね、今日は奮発して買ってきたんだ。ウイスキーは好きかね?」
そう言って、嬉しそうに荷物の封を解いた。細長い箱に入った、ザ・マッカランの十八年。相当に高価なもののはずだ。お父さんがちらりと、お母さんの顔色を伺った。
「今日くらいは許してあげるわよ。これからあまり無駄遣いしないようにさえしてくれれば」
お父さんがホッとしたような表情を見せた。
「申し訳ありません、こんな高価なものを…」
僕がおずおずとそう言うと、お父さんは大きな声で笑った。聞いているこちらが気持ちよくなるほどの豪気な笑い声だった。
「いやいや、私のためでもあるのさ。息子と一緒に酒を飲むのが夢だった。付き合ってくれるかね?」
僕はありがとうございます、と言ってもう一度頭を下げた。
鉄板焼きを囲みながら、お父さんとグラスを合わせた。お母さんは樒ちゃんと同じで、まったく酒が飲めないらしいので、麦茶のグラスと乾杯する。水割りのスコッチはどこか甘い香りがし、ほどよくスモーキーな味わいがした。どうだね? と聞かれたので、美味しいです、と言うと、お父さんは満足そうに笑った。
「飯を食いながら飲むのもいいが、チョコレートを肴に飲むのも旨い。一度やると病みつきになる。試してみるといい」
お父さんはよく話した。酒が進むと更に口数が増した。しかし酔いが回っても、穏やかな口調と物腰の柔らかさはまったく変わらなかった。大人の男と言った感じで、同じ男として尊敬の念を禁じえなかった。
「楽しい夜だ」
お父さんは四杯目の水割りをお母さんから受け取り、ぽつりと呟いた。
「こんなに楽しい食事は何年ぶりだろう」
「樒が大学に入ったとき以来かしらねえ」
お母さんもしみじみと言った。お父さんはそうか、と言って酒をちびりと飲んだ。
「楽しい思い出は色あせていくくせに、悲しい思い出はいつも忘れかけた頃に思い出すからたまらないな。私の人生で一番悲しく寂しい食事は、樒の葬式を終えた晩だったよ」
言って、お父さんは少し頭を垂れた。本当は心の奥底にしまっておきたい記憶を、丁寧に辿るように。
「樒が生まれた日は本当に嬉しかった。腕に抱いたこの子が、大人になったらどんな人になるだろう。どんな人と出会い、そして結ばれるだろう。幸せな人生を送ってほしい。辛いことがたくさんあるだろうが、人生の最後は笑顔でいてくれたらいいと思っていたよ」
水割りのグラスをそっと傍に置き、両切りの煙草に火をつけた。ため息をつくように吐いた煙が漂って、次第に部屋の明かりに消えた。
「冷たくなった樒が我が家に帰ってきた日、私は涙を流さなかった。親として非常に恥ずべきことだが、私たちより先に逝ってしまった我が子を恨んだ。大事に不自由なく育てたつもりだったが、この上ない親不孝をされたように思って、あの子の顔を見ることすらできなかった」
お母さんも黙って目を閉じ、話を聞いている。一瞬、服の裾をぎゅっと握るところが見えた。
「葬式が終わって出棺するとき、初めて大きな悲しみに襲われた。もう二度と、あの子の顔を見ることができない。棺にすがりついて泣く家内の声に動揺して、私はその場にいることができなくなった。式場の暗い隅、誰にも見つからないところに走り込んで、みっともなく声を上げて泣いた」
お父さんは伏し目がちにしていた目を僕に向けた。
「父親失格だ。あの子が死ぬほど苦しんでいたのに、向き合ってあげることすらできなかった。挙句その死を恨みさえし、最後は逃げ出した。家内が夢にあの子を見るたび、胸が張り裂けそうなほど痛んだ。幸せにしてあげられなくて本当にすまない、そう仏壇に何度も頭を下げた」
お父さんは汗をかいたグラスを掴み、たっぷりと残った酒をぐっと一息に飲み干した。お母さんはお代わりを作ろうとしたが、お父さんはそっと手をあげてそれを断った。忘れられた吸いかけの煙草が、灰皿の中で静かに消えた。
「だから、家内から夢の中で、あの子が笑ったと聞かされたときは嬉しかったものだ」
ふと、その顔にかすかな笑顔が戻った。
「最初は夢の話だと思っていたが、好きな人ができたと聞かされたときは、それが夢だったとしても嬉しかった。そして実際に、こうして君が訪ねてきてくれたことで、私は救われたような気持ちになった。あの子は死んでしまったけれど、君に出会ったことでやっと幸せになれたんだと感じた。それが何よりの救いだった。君は私たちがあの子にしてあげられなかったことをしてくれたんだ。本当に感謝してもし足りない」
ありがとう、そう言ってお父さんは僕に深々と頭を下げた。僕は非常に慌てた。
「いえ、むしろ僕の方こそ、樒さんに救われました。どうしようもなく辛くて、死んでしまいそうなとき、樒さんに出会うことができて本当によかったと思っています。感謝するのは僕の方です」
お父さんは僕の目をじっと見て、こう答えた。
「君の存在が、ただそれだけで樒を悲しみから解き放ち、私たちに絡まった重責の鎖を解いたんだ。それは君にしかできなかったことだ。君だからこそできたことだ」
今まで生きてきた中で、これほどまでに有難い言葉を受けたのは初めてだった。また涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえるように、すっかり氷が溶けてしまった水割りに口をつけた。飲み干してしまうと、お母さんがグラスを持ち、新しい氷を入れるために台所へ向かっていった。
あとに残された僕とお父さんは、しばらく無言のままでいた。灰皿を勧められたので、自分の煙草を懐から取り出した。お父さんもまた、新しい煙草に火をつけた。
「樒がどこに行ってしまったか知りたいと言っていたね」
「はい。ご存知なんですか?」
思わぬ切り出しに、僕は姿勢を正した。
「いや、残念ながら確かなことは言えない」
お父さんはウイスキーの細く高いボトルを持ち上げ、中身を少しだけグラスに注いだ。琥珀色の液体がグラスの中で踊った。
「昔、小さい樒をつれてこの街に越して来たとき、展望台があることを知らなかったものだから、長い石段の上から街を眺めたんだ。小さい樒は高いところを怖がったが、私の腕がしっかりと抱いていると、キラキラした目で街の様子を眺めていたよ」
僕はすぐにそれが、僕らが初めて出会ったあの石段のことだと直感した。
「だから私たちにとって、この街で一番最初の思い出はあの石段なんだ。そこに行けば、何かわかるかもしれない」
お母さんがグラスに氷を満たして戻ってきた。そしてグラスに再び水割りを作り、僕の目の前にそっと置いた。お父さんは自分のグラスを僕に向けた。戸惑っていると、笑いながら言った。
「娘をよろしく頼む」
僕はグラスを手に取り、お父さんのグラスに合わせた。そして出来る限りしっかりした声で、はい、と返した。
お父さんは今日一番の満足そうな笑みを浮かべた。
「一度言ってみたかったんだ。今夜はたくさん夢を叶えてもらったよ」
そして小さな声でもう一度、楽しい夜だ、と言った。本当にその通りだと思った。
「ご馳走様でした」
ご両親に見送られながら玄関を出た。お父さんはかなりの量のウイスキーを飲んだせいか、時々よろめきながら僕のために引き戸を開けてくれた。
「君さえよかったら、また寄ってくれないか」
そう言ってお父さんは照れたように笑った。お母さんも笑顔で頷く。ありがとうございます、と言って僕はもう一度深く頭を下げた。
「樒が君の前に、また現れてくれるといいんだが」
「きっと会えると思います。なんだかそんな気がするんです」
決して確信があったわけじゃない。そう信じているだけだ。不確かな言葉だっただろうが、それでもご両親は頷いてくれた。
「私たちもそんな気がする。もしまた夢の中で会えたら、素敵な方に恋したのね、って褒めておくわ」
僕は照れ臭くなって俯いた。そうしてご両親に別れを告げた。僕の姿が見えなくなるまで、ふたりはずっと見送ってくれていた。
月明かりが照らす帰り道。セミたちの声はなくなり、コオロギのかすかな鳴き声が、秋が近いことを告げていた。夜はずいぶんと涼しくなった。僕たちの季節が、じきに終わろうとしている。
携帯電話を取り出し、番号を呼び出した。有村はすぐに電話に出た。
「すまん、報告が遅くなった」
「大丈夫です。って、声の調子ちょっとおかしいですよ。飲んでるんですか?」
スコッチの水割りを三杯。それだけでそんなに声質が変わっているだろうか。きっと楽しい夜が酔いを早めたのだろう。
「いいご両親だった」
「じゃあ、いい話もたくさん聞けたんですね」
「ああ。今日は遅いから、また明日会いに行くよ」
「よかった、わかったんですね」
ありがとう、と言って電話を切ろうとしたら、電話口から呼び止める声が聞こえた。
「明日、確か雨予報ですよ?」
そうか、明日は雨か。そう思うと笑いがこみ上げてきた。
「いいんだ、たぶんそっちの方がいい」
そう言って電話を切った。
月明かりが照らす帰り道。かすかに混じる雨の匂い。大事なことが起こる日には、いつも雨が降っていた。香澄ちゃんとの始まりも、樒ちゃんとの始まりも、すべては雨の日に始まったのだ。