26
「なんか楽しそうですね」
有村のからかうような口調には取り合わず、僕は別に、とだけ答えた。
「彼女には会えました?」
「いや、まだ会えてない」
その言葉に苦いものが混じった。
「心当たりのある場所にはあらかた行ってみたんだけどな」
そうですか、と有村は短く言った。電話口から、ぱらぱらと紙をめくるような音がかすかに聞こえた。
「その助けになるかどうかはわかんないんですけど、彼女に関してわかったことがいくつかあるので、伝えときますね」
その言葉に、僕は思わず身構えた。できるだけ聞き逃すまいと神経を研ぎ澄ませた。
「やっぱり珍しい名前なのですぐ出てきましたよ。三年前の新聞に掲載がありました。家を出たまま三日間ほど行方不明で、家族が捜索願を出してたみたいですね。ここは山間の街だから野山に迷い込んだ可能性もあるっていうんで、捜索隊を結成して捜してみたら、市街地から少し離れた展望台のすぐ下で発見されたと。飛び降りたと思われる場所から遺書も見つかって、すぐに自殺と断定されてます。さすがに遺書の内容までは公開されてなかったけど、先輩なら詳しい事情を知ってますよね?」
聞きながら、僕はごくりと唾を飲んだ。樒ちゃんの口からは、亡くなったときのことについては聞いていない。その死の情景をリアルに想像して、思わず背筋が震えた。
「あと、その情報を元に調べてみたら、彼女の同級生だった人と連絡がつきまして」
彼は淡々とした口調で、早口に先を続けた。
「樒ちゃんは当時大学生で、ここからちょっと離れた街にある大学に通ってたみたいです。ほらあそこ。結構難関の国公立。頭いいんですねえ。で、実家はどうやら隣の街にあるらしいです。その実家を訪ねてみたら、何かわかるんじゃないかな。ちょっと時間かかっちゃいましたが、住所も調べ出しましたので、メールで送っときます」
僕は途中から内容が入って来なくなった。少なからず驚かされた。今日の昼頃から調べ始めて、ここまでの情報を得ることができたというのか。電話を耳に当てながら閉口してしまった。
「…どうしたんですか?」
「あ、いや…、お前、よくそんな情報この短時間で…」
彼は電話口で軽く笑った。
「このくらいは今のご時世、誰でも簡単にできますよ。インターネットで検索すれば何かしらの情報でヒットするし。そう考えると、便利な世の中なのは確かなのに、それが逆に怖くもなってきますよね」
無論、機械関係に疎い、というかほとんど興味もない僕なので、そんなことは思いつきもしなかった。確かに彼の言うように、今の時代個人の情報などは、むしろ進んで公開されるものになっているのだろうか。
「まあ、僕が調べられるのなんてこの程度です。エスパーや探偵でもない限り、本当にプライベートな情報は簡単には手に入りませんよ。役に立てばいいんですが」
「…わかった。わざわざありがとう」
どういたしまして、と言って電話はそこで切れた。何が公開されるべきで、何が秘匿されるべきか、そんな哲学めいた考察は、また後日改めてゆっくりするとしよう。
翌日、少しだけ早起きをして、できるだけこざっぱりした衣服をタンスから引っ張りだした。
樒ちゃんの生家は隣町にある。ならば善は急げといわんばかりに、今日早速訪ねてみようと思ったのだ。
しかし、見ず知らずの男が、突然亡くなった娘の名前を口にして現れたら、どんな人間でも警戒心を抱かずにはいられないだろう。なるべく怪しく見えないように、身なりだけは整えておかなければなるまい。いつものコーディネートではあまりいい印象を持たれる自信がない。
薄い灰色のジャケットと、比較的ぱりっとした白いカッターシャツ、色があまりはげていない濃い紺のジーンズ。できるだけ汚れすぎていないスニーカーを履いて、鏡の前に立った。どこにでもいる平凡な男という印象がより強められたが、この場合はこれが正解だろう。
コーヒーを入れ、トーストにゆで卵を挟んで食べた。樒ちゃんが好きだった朝食のメニュー。それを机を挟んで、向かい合って食べた。ひとりきりの今は、トーストの味もコーヒーの苦味も、どこか味気なく感じられた。
今から樒ちゃんの両親を訪ねて、そこから何かわかるだろうか。彼女にもう一度会うために、何か重要な手掛かりが残されているだろうか。ご両親は何も知らないかもしれない。というかその可能性の方が大いにある。実の親といえども、亡霊となった娘の動向まで把握しているはずがない。そもそも初対面の男がいきなり押しかけたところで、話を聞かせてくれるかさえ疑わしいものだ。勝算のない博打に挑んでいるような気分になった。
しかし、そこに賭けるべきだと強く感じる自分もいた。陳腐な表現を使うなら、ただの勘というべきだろうか。行けば何かがわかる。僕が知らないことを知ることができる。そう確信している自分がいた。そう考えると、なんだか自信が湧いてくる。根拠がなくても、この自信はあって損にはならないだろう。トーストの残りを口に押し込み、足早に玄関へと向かった。
夏晴れの空に、巨大な入道雲がまるで山脈のように連なっている。小さい頃、あの中に空の宮殿があって、神様や天使たちが暮らしているのだと信じていた。手を引く母親に、しきりにその話をしていると、そうだねと頷いて、優しく微笑んでくれたものだ。そんな昔のことを思い出しながら日差しの中を歩いた。
炎天下の下では、ちょっと歩いただけでも大量の汗をかいた。途中にあった自販機で冷たいミネラルウォーターを買い、飲みながら歩いた。暑さが少しだけ和らいだように思えたが、すぐにぬるくなってしまって、それからは一口も口をつけずに歩いた。
麦わら帽子をかぶった、ふたりの少年とすれ違った。顔立ちがよく似ているからきっと兄弟だろう。手に虫取り網を持っている兄が、かごを肩から下げている弟に向かって、何かを指差しながら話している。そして、近くの木に向き直ると、ゆっくりと呼吸を整え、それから勢い良く網を振り下ろした。弟がわっと歓声をあげ、アブラゼミを手に嬉しそうな表情を浮かべた。夏の陽光の中を僕は歩いた。そういえば、最近あまり雨は降っていない。
有村から送られてきた住所をもう一度確認する。電柱に書かれている町名から、この周辺だと言うところで一度立ち止まった。番地を見る限りだと、ここからもう少し歩いたところだろうか。住み慣れた街だと思っていたが、隣町まではあまり来たことがない。それだけで、まったく知らない街に来てしまったような気にさえなってきた。見慣れない景色を注意深く観察しながら歩いた。
ふと、前方に家の前を掃除している女の人を見つけた。閑静な住宅街は昼間だというのにどこか静かで、セミの鳴き声と、女の人が箒で地面を履く音しか聞こえてこない。こういうときは、素直に近隣住民の方に尋ねるのが早道だったりもする。一見優しそうな女性なので、きっと快く教えてくれるだろう。僕はその女性に近づいていった。
「あのう…、すみません」
声をかけると、女性は地面を掃くことをやめ、こちらに目線を合わせた。
「はい?」
短い反応だったが、予想通り物腰の柔らかそうな声だった。四十代の後半といったところだろうが、若々しく背筋を伸ばしてしゃんと立っていた。鮮やかと言っていいほどの黒く短い髪と、柔和な雰囲気の視線が印象的だった。
「こちらの住所にお住いの方を訪ねたいのですが、ご存じないでしょうか?」
言って、僕は携帯電話の画面を示した。女の人はそれを受け取り、目を細めながら見ていたが、やがて「あら?」と高い声を出して僕の方を見た。
「これ、うちの住所ですけど…」
僕は驚いて、女性の表情をまじまじと見つめた。確かにどこか面影があるように思える。黒い髪、凛々しい立ち姿、優しそうな瞳。
「樒さんの、お母さんですか?」
今度は女性の方が、驚愕に見開かれた目で僕の顔を見た。しかしそこに警戒の色は感じられなかった。まるで、ずっと待って、待って、待ちくたびれて諦めかけていたものに、ようやく会えたと言わんばかりの表情を浮かべていた。お母さんはしばらく僕をじっと見つめ続け、ようやくかすかな笑顔を見せてくれた。
引き戸の玄関に招き入れられると、新築のような新しく清潔な家の匂いがした。煙草の匂いのしない家の香りは、非常に澄んでいて清々しいという印象を受けた。かすかに線香の香りがした。昔よく訪れた祖母の家が思い出された。
「さあ、どうぞ」
お母さんに招かれるまま、僕は樒ちゃんの仏前に座った。遺影に映る彼女の笑顔に、奇妙な違和感を覚えずにはいられなかった。つい最近まで、一緒に話したり、はしゃいだりしていた姿を思い出すと、余計にその違和感が強まった。
新しい線香に火をつけ、静かに合掌した。こんなとき、心の中で何を言えばいいかわからないかったので、とりあえず心を落ち着かせ、樒ちゃんの笑顔を思い出すことにした。樒ちゃんと過ごした日々を回想するのはこれで何度目だろうか。
お母さんは微笑みながら、冷たい麦茶を勧めてくれた。
「暑かったでしょう」
「ええ、まあ」
「この街に住んでいらっしゃるの? お一人暮らし?」
「一応、一人で住んでます」
「そうなのね。いい土地なんだけど、夏はどうも暑くて。私も主人もそろそろ歳だから辛いわ」
「あ、あの」
僕が無理やり話を切ろうとすると、お母さんは観念したように肩を落とし、力無く笑った。
「あの子のこと、思い出すのが辛かったわ」
「…すみません。いきなり娘さんのことを」
いいのよ、とお母さんは言った。
「あの子が死んでしまってから、時々あの子を夢に見るの。ちょうどこの部屋で、こうして向き合って話をする。ただそれだけの夢をね。私がどんなに話しかけても、あの子はただ下を向いて悲しそうな顔をするの。ごめんなさいって言うの。先に死んじゃってごめんなさいって」
僕は麦茶を一口飲んだ。冷たい感触が手を伝わり、喉を通って身体中に伝わった。
するとお母さんは、でもね、と言って顔をあげた。少し嬉しそうな表情をした。笑った顔は樒ちゃんとよく似ている。
「最近になって、どうしてかわからないけど、毎日のように夢に出てきてくれるようになったのよ。いつからだったかしら。ちょうど六月終わりくらいのときだったかしらねえ」
六月終わり。
僕が彼女と初めて会った夜。
「なんだかとってもいい人に会ったよって言ってた。ほんのちょっとだけ嬉しそうに笑ってた。雨の日に傘をさしかけてくれたんだって。その人と今度遊園地に行くんだって言ってた」
僕は黙って話を聞いた。
「次に夢に出てきたときは、今まで見たこともないくらいの嬉しそうな顔をしてた。お母さん、聞いてよ、って言って、私がどうしたの? って聞き返したら、好きな人ができたよ、って。最初は何のことかわからなかったし、本当に変な夢を見るようになったなってくらいにしか思わなかったんだけど、それから毎日のように、あの子の夢を見るようになったわ」
そうか、と僕は思った。
樒ちゃんは、僕との日々をお母さんに話していたのか。
お母さんはとても嬉しそうに話をした。
「てるてる坊主を逆さに吊っちゃったから、明日雨だったらどうしようとか、水着を買いに行ったら、彼がしどろもどろしてて面白かったとか、海へ行って、花火もして、思いっきりはしゃいじゃったら疲れちゃったとか、いろんな話を嬉しそうにしてくれたの。私も、あの子が嬉しそうにしているのを見るのがとっても嬉しくて、毎晩夢を見るのを楽しみにしてた。主人も、今日は樒はどんな話をしてたかって気にしちゃって。あの子が戻ってきてくれたみたいな気がして、それが本当に嬉しかった」
僕もつられて笑ってしまう。お母さんが話してくれたことは、樒ちゃんが、僕との出会いを通して幸せを感じてくれていたということの、何よりの証明だった。誇らしい気持ちで胸がいっぱいになる。涙が溢れてしまいそうになる。
しかし、お母さんはまた少し表情に翳りを落とし、でも、と短く言った。
「この間、樒が泣きながら夢に現れたの。何があったの? って聞くと、彼が死のうとしたって言った。私とずっと一緒にいるために死のうとしたって。私は何て言ったらいいのかわからなかったけど、あの子はこう言っていたわ。私だってあの人とずっと一緒にいたい。でもあの人が、それこそ死ぬほどに苦しんでしまうのなら、私は幸せなんかいらないって」
病室で有村が言っていたことが思い起こされた。それは嘘偽りのない、樒ちゃんの想いだった。
お母さんは僕の、包帯の巻かれている方の手を取った。
「娘を大事にしてくれてありがとう。一緒にいたいって、思ってくれてありがとう。その気持ちは、あの子にとってすごく嬉しいことだったと思うわ。でも、あの子はやっぱりあなたに生きていてほしいのよ。死んでしまって、苦しい思いをしてほしくないって」
僕はしばらく黙ったまま、お母さんの話を聞いていた。
「…それなら」
そして、ようやく声を絞り出した。
「それなら僕の気持ちはどうなるんですか。僕は樒さんとずっと一緒にいたい。そのためならどんなに苦しんだっていい。あの子さえいてくれれば、僕はそれが一番幸せなのに」
お母さんの目尻から一雫、涙がこぼれた。ぽたぽたと落ちる雫を拭うことなく、お母さんは僕の手をずっと握っていた。
「あなたが死んでしまったら、あなたの周りの人たちがどんなに悲しむか。樒を失った私たちのように。あなたはもうすでにそのことを知っているでしょう。死ぬということはそれほど重たいことで、その重さに耐えられる人なんていない。あの子も自ら命を絶って、そのことがすごく辛かった。すごく後悔した。それこそ死ぬ苦しみすら超えてしまうほどの辛さに、あの子は死んでからも苛まれ続けた。それをあなたが味わうことだけは絶対に嫌だったのね。あの子は自分がようやく掴んだ、大きな大きな幸せを犠牲にしてでも、あなたのことだけは本当に大切にしたかったのよ」
だから、と言って、涙でいっぱいになった瞳を僕に向けた。
「お願い。あの子のぶんまで、幸せに生きて。」
僕は何も言えなかった。言葉にならなかった。お母さんの、そして樒ちゃんの気持ちをすべてが、優しく、痛切に僕の胸を打った。
涙が零れ落ち、それでも思いをこらえられなかった。お母さんの手のひらにしがみつくようにして、しばらく泣いた。