25
自分の部屋に帰っても、樒ちゃんの姿はなかった。予想はしていたことだが、やはり寂しい気持ちになった。いっそここにいて、力一杯罵ってくれた方がよかったとも思えた。嫌な予感は当たる。それも、とても嫌な予感ほど。
一通り部屋を見渡してみても、樒ちゃんに関するものはなにひとつ見当たらなかった。書き置きすらも残されていなかった。彼女は突然消えてしまった。最初からそこにいなかったかのように。
部屋は綺麗に掃除されていた。おそらく僕が不在の間、母親が片付けをしてくれたのだろう。なんだか樒ちゃんと過ごした時間のことが、全てすっかり夢の中の出来事であったかのように感じられる。樒ちゃんの消失も相まって、そのことがよりリアルに感じられた。
「なんか」
背後から声がした。
「前来たときより良いフンイキっすね」
有村が上がり框を踏みながら言った。
「ずっと前に来たときは、マジで刑務所みたいな印象でしたから」
「…まあ、一応一緒に住んでいたからな」
彼は僕の部屋をぐるりと見渡した。
「その樒ちゃん、どこに行ったとか手がかりは残していってないんですか?」
僕は肩をすくめた。有村は顎に指を当て、ふうむと息をついて考えこんだ。
「どこか行きそうな場所に心当たりはないんですか?」
「あるにはあるけど…」
僕は思い出す。初めて会った石段や、初めてデートした遊園地。真実を打ち明けられた展望台や、水着売り場、ふたりで花火を見つめた海水浴場。
けれど、僕は出会う前の樒ちゃんのことを知らない。あまりに知らなさすぎると言っても良いかもしれない。樒ちゃんがこういうとき、どこへ向かうのか皆目見当がつかない。
彼女のことをよく知ったようで、実は何も知らなかった思うと、少し悲しかった。有村にはわからないように唇を噛んだ。彼女はどこへ行ってしまったのだろう?
「とりあえず、先輩は彼女が行きそうな場所で、心当たりがあるところを片っ端から潰して行った方がいいんじゃないですかね?」
そう言って彼は踵を返し、早々に玄関の方へと戻っていった。
「おい、もう帰るのか?」
「いや、僕は彼女の生前のことを調べてみます。樒って名前は珍しいから、そんな大変な作業じゃないでしょう。先輩の思い出巡りに付き合ったってしょうがないですし、それに…」
有村はニヒルっぽい笑みを浮かべた。
「ふたりの愛の巣に長く留まるほど、野暮じゃないっす」
そう言い残し、足早に玄関を出て行った。一人残された部屋はがらんとして、急に心細さを感じた。
コーヒーメーカーの電源を入れ、新しい袋の封を切った。できあがったコーヒーをブラックで飲み、久しぶりに吸う煙草の煙を嗅ぎながら、樒ちゃんのことを考えると共に、有村のことも考えた。まるで自分のことのように張り切りながら、樒ちゃんの行方を調べる彼のことを。
人はいずれ死ぬ。それは数十年後かもしれないし、五分後のことかもしれない。未来のことは、たとえわずかな先だったとしても誰にもわからない。
きっと彼は、そのことを実感させられたのだろう。目の前にいる人が、明日も変わらぬ姿のままそこにいるとは限らない。唐突に、何の前触れもなく、さよならの言葉もないまま永遠に失われる可能性を、彼は体験してしまった。彼の中で僕の存在がどれほどのものかはわからないが、少なくとも大きな衝撃を受けるほどの存在ではあるのだろう。
そんな人に、今、自分は何ができるのか。何が最善で、そのために何をするべきなのか。今、自分が取る行動とは。失われたときに、後悔しないためには。
「ありがとう」
誰もいなくなった部屋でぽつりと呟いてから、彼の提案通り、心当たりのある場所から順番にあたってみることにした。今、何をすべきか。僕もそのことについて真剣になるべきだ。
八月の中頃、お盆に差し掛かる時期ということもあってか、海水浴場行きの電車内は家族連れで賑わっていた。樒ちゃんと来たときは、カップルや若い友だち同士の姿が多かったように思う。なんだか人生の縮図が現れているようだ。
あのとき横目で眺めたカップルのうち、果たして何組が結婚まで至るのだろう。今隣にいる人と、ずっと一緒にいることができるのだろうか。そして、僕と彼女はどうなのだろう。そんなことをぼんやり考えながら、車窓を流れていく夏の雲を眺めていた。
早く彼女に会いたい。会っていろんなことを話さなければ。まず謝りたい。愚かしく、自分勝手な決断をしたことを詫びたい。許してくれるだろうか。もし許してくれたとしたら、この先ふたりで一緒にいられる方法を、もう一度、今度はふたりで模索しよう。僕は自分で考えてばかりいて、結局樒ちゃんと、ちゃんと話すことをしていなかった。ちゃんと向き合えなかったというべきだろうか。一緒にいたいと言ってくれた彼女。彼女なら、その答えを知っているのだろうか。
気づけば、電車は既に海水浴場最寄りの駅に到着していた。ドアが閉まる前に、慌てて電車を飛び降りた。小さな子どもたちの笑い声、大人たちがそれを窘める声、それらが不意に大きく感じた。遠くの方で蝉が鳴いている。その間を縫うように、波の音がかすかに聞こえて来る。
潮風に吹かれながら、眼前に大きく広がる海を眺めた。地平線の彼方まで広がる青。果ての方に、霧がかかったようにぼんやりと、大きな船の姿がゆらめく。遊泳禁止区域を示すブイが、頼りなさそうに波に遊ばれている。男の子がふたり、競争するようにそのブイ目掛けて泳いでいるのが見えた。
砂浜に降り立ち、海水浴客で賑わう海岸を、樒ちゃんの姿を探して歩いた。強い日差しに熱くなった砂浜を踏みしめていると、靴の中にたくさんの砂が入ってくる。スニーカーを履いてきたのは間違いだった。しかしサンダルを履いて一人砂浜を歩くのはなんだか気が引けた。どうしてかはわからなかった。
「わあー、綺麗!」
背後で声がした。はっとして振り返った。でもそこには誰もいなかった。向こうの方で、若い女の子たちがはしゃいでいる。きっとその中の誰かが言ったのだろう。
そういえば、樒ちゃんもそう言ってはしゃいでたっけ。
ふと視線を前方に戻すと、海の家の方で男の人が客引きをしている。真っ黒に日焼けした逞しい体、刈り込んだ短い髪は黒に金が混じり、パーカーを無造作に羽織った下には海水パンツしか履いていない。慣れた感じで女性客に営業トークを繰り広げている姿を自分と重ねることすらできない。
「あなたが一番強いって、思うな」
そう言って笑った君の瞳の輝きは、おそらく一生忘れることはないだろう。
一通り見渡してみたけれど、ここに樒ちゃんがいる気配はなかった。踵を返し、駅に戻ろうとした僕の足元にかすかな違和感を感じて見下ろした。燃え尽きた手持ち花火が、砂に埋もれて忘れ去られていた。拾い上げ、近くにあるゴミ箱へ持って行く間、ふたりで花火をした夜を思い出さずにはいられなかった。
「いなくなったりしない?」
それに頷いた彼女。
「ずっと一緒にって言ってくれたから」
「だから、いなくなったりなんてしないよ」
そう言ってくれたから、僕はまだ、彼女に会えることを信じていられた。
海水浴場を出発したのは昼過ぎ頃だったけれど、そこから遊園地まで行くのに長い時間を要したので、着く頃には夕方近い時間になってしまった。しかし不思議と焦るような気持ちにはならなかった。むしろ穏やかな気持ちを感じながら、車窓に流れる懐かしい景色を眺めていられた。
こちらも海と同様、お盆休みの時期だからか、少し遅い時間にもかかわらず家族連れでごった返していた。この間来たときの何倍も人がいるように感じられる。その隙間を縫うようにして、やっとの思いでチケットを買い求めることができた。受付には、以前僕のことを怪訝な表情で見ていた、あのお姉さんがいた。覚えられてやしないかと思って、一瞬どうしようかと迷ったが、結局そのお姉さんに一人分のチケットを手渡した。一目で営業用とわかる笑顔で半券を返してくれたのでホッとした。人の記憶は風化していくということか。そのことを如実に感じさせられた。
しかし入場口をくぐると、あのときの記憶が鮮明に思い出された。駆け出した樒ちゃんと、そのあとを追う僕。振り返った彼女は、それまで見たこともないほどの笑顔を顔いっぱいに広げていた。それが、彼女の笑顔を見た最初。
記憶を辿りながら、彼女と回った順番通り、アトラクションを見て回った。さすがに今回は、一人でジェットコースターを楽しもうという気にはなれない。隣に樒ちゃんがいたからこそ楽しめたけれど、一人で乗るなんてことはまさに自殺行為だ。自ら進んで拷問を受ける気にはなれない。頭上で叫び声が近づいては遠ざかっていくのが聴こえてくる。身震いをこらえながら先へ進んだ。
施設内を一通りぐるりと回ってみると意外に疲れた。予想以上の時間がかかった。時計を見ると、もう夜に近い時間になりつつある。この間来たときは、めまぐるしくはしゃぎ回る樒ちゃんに合わせていたおかげであっという間に感じていたが、一人で回ると時間の経過をリアルに感じることになった。僕は広場のベンチに腰掛け、煙草の煙を大きく吐いた。
ふと横を見ると、家族連れが一組、隣のベンチに腰掛けていた。女の子が母の膝にもたれかかって何事か話しかけている。母親の方は、一日中遊びまわったせいで疲れた表情を浮かべてはいるが、笑顔で女の子の話に相槌をうち、時折愛おしそうに頭を撫でていた。
しばらくすると、父親がソフトクリームを手に戻ってきた。女の子は嬉しそうにその足にしがみつき、父親はその手にソフトクリームをしっかりと握らせる。
「そろそろパレードが始まるな」
その言葉だけが風に乗り、僕の耳に届いた。家族が行ってしまうと、急に寂しくなった。幸せの残り香だけがそこにあって、それもやがて、夕暮れの少し涼しい風に消えた。
「パレードか…」
空を見上げた。夕焼けが次第に暗い影に消えようとしている。薄暗くなれば、色とりどりの光をまとったパレードの一団が広場を通り過ぎるだろう。あのときと同じように。
短くなった煙草を灰皿に押し付けてから、行き交う人々の群れにまぎれた。
しばらく待つと、音楽が流れ出して、子どもたちが歓声をあげた。パレードの先頭がゆっくりと人々の目の前を通過していった。大きな機関車のような形のフロート車の上で、マスコットキャラクターたちが可愛らしい仕草で手を振っている。近くにいた女の子が、キャラクターの一人に向けて手を振った。キャラクターはそれに気づいて手を振り返した。女の子が溢れんばかりの笑顔を見せた。
結局、あのときはパレードを見られなかった。
偶然有村と出会ってしまったのが事の発端だった。彼が悪いわけではない。いつかはどんな形だったとしても、その事実に気付かされてしまっただろう。彼女のことは僕にしか見えない。彼女は僕だけが認識できる人だったということを。
あのときの僕は混乱しきって、ただその場を離れることしかできなかった。驚愕の事実を瞬時に処理することができなかったということもあったが、笑顔を失った樒ちゃんの表情を見るのが耐えられなかったというのもあった。樒ちゃんの笑顔をもう二度と見られないかもしれないという不安もあった。
できることなら、樒ちゃんともう一度ここに来たい。
僕はしばらく一人でパレードを眺めた。キャラクターたちを乗せた車が、次から次へと現れては消えていく。その光景を僕の人生の中で出会った人たちと重ね合わせた。特に、ここ最近出会ったふたりの女の子のことを。
香澄ちゃんと初めて帰った日。
初めて家に女の子を招いたとき。
愛を感じた初めての瞬間。
決意を固めた夜。
壊れかけた数日間。
そして、樒ちゃんに出会った。
真実に打ちひしがれた瞬間が、初めて彼女に触れたときの安らぎが、幸せに過ぎる時間が、命を絶とうとした夜の闇が、虚無の夢が、それらすべてが、輝かしく甘美な音色を伴って目の前を過ぎ去っていく。楽しいことも、辛かったこともあって、そのすべてが今の僕を形作っている。これからもまた、いろんなことが巻き起こるのだろう。そして過ぎ去っていく。過去と未来を感じて少しだけ切なさも感じた。
樒ちゃんのことを思い出にはしたくない。手のひらをぎゅっと握った。過去は過去として過ぎ去っていくが、これから訪れる未来には、彼女の姿があってほしい。
パレードの最後が通り過ぎていくのを目で追っていたら、不意にポケットの携帯電話が震えた。