24
退院を翌日に控えても、結局樒ちゃんが、病室を訪れることはなかった。
普段の彼女なら、それこそ有村よりもいち早く訪ねてきてもおかしくはなかった。僕のしたことを咎めるにせよ、傷ついたこの身を労ってくれるにせよ。しかし、夢の中にさえも彼女は姿を見せなかった。胸の中で、不安が着実に大きくなっていった。
「まあでも、よかったですね。大きな怪我にもならなくて」
退院のための荷造りを手伝ってくれていた有村が不意に言った。その言葉の中には、少しだけ責めるような口調が混じっているような気がした。
「下の木がクッションになって衝撃を和らげたなんて、本当、漫画みたいな幸運ですよ」
曖昧に相槌を打ちながら、僕は迷っていた。彼にだけは打ち明けるべきなんじゃないか、と。僕の自殺の理由を。僕が愛している女の子のことを。
「なあ、有村」
彼がこちらに向き直ってから、僕はこう続けた。
「…お前が夢に見た女の子って、どんな子だった?」
彼は顔をしかめた。思い出したくない夜のことだからだろう。それでも、記憶を辿るようにしながら、彼は説明してくれた。
「えっと…、髪の長い子でしたね。あんまり見たことないくらいの真っ黒い髪で、小柄で、華奢で、なんか、今にも消えちゃいそうなくらいの、なんていうか、儚い? みたいな印象の子でしたかね…」
僕は確信した。樒ちゃんに間違いない。
「そうか」
「その子がどうしたんですか?」
彼の言葉が食い下がるように続いた。僕は押し黙った。どう彼に説明すればいいのかわからない。
「なあ有村。その子が今どこでどうしてるか、なんて…わからないよな?」
そんなこと、有村が知っているとは思えなかったが、僕は尋ねた。きっと僕の家で、僕の帰りを待っていると思っていたが、病室にも、夢の中にも、どこにも現れない以上、彼女があの部屋にいる保証さえない。
「そんなことわかりませんよ…。ただずっと助けを求めるばかりの姿だけ、妙にリアルで覚えてるってだけですから」
それを聞いて僕がうなだれていると、有村はそういえば、と曖昧な感じで言葉を続けた。
「僕が目を覚ます直前には、その子、なんだか自分を責めているような感じになってたような気がしますね…。私のせいだ、とか、私がいるからいけなかったんだ、とか…」
一瞬、周囲の音が止んだような気がした。有村が僕の表情を見てたじろいだ。彼が慄くような表情を僕は浮かべていたのだろう。
言葉を失った。有村から語られたことは恐らく真実であり、僕が一番恐れていたことだった。そうでだけはあってほしくないと思っていたことだった。
きっと、樒ちゃんはもう僕の部屋にはいないだろう。そう確信した。僕の死に嘆き悲しんでくれた女の子は、深い深い絶望を抱いたまま、僕の前から姿を消した。
「先輩、その子って一体誰なんですか?」
頭を抱えようとした僕を、有村の一言が引き留めた。
「俺、先輩が何でそんなこと聞くのか、よくわからないですよ」
彼の表情を見た。そこに浮かんでいる不安の色は決して少なくなかった。とても不安そうに僕を見ていた。別の世界の人間を見ているような目だった。
僕はもう一度迷った。彼にこの、突拍子も現実味もない話を語っていいものか。信じてもらえるとは到底思えない。落ちたショックで頭がおかしくなったのではないか、そう思われて当然だ。彼に更なる心配をかけてしまうかもしれない。そのことに抵抗を覚えた。
しかし、僕には今助けが必要なことも確かだった。樒ちゃんを失ったことへの喪失感と、彼女の行方を何としてでも突き止めなくてはならないという焦燥。自分一人では抑えようもない感情が、激しい竜巻のように渦をなしながら僕の内部を削り取っていた。
「…実はな、有村」
僕はベッドに腰掛け、彼に相対した。彼の怯えたような目と重なった一瞬に、僕は覚悟を決めるように息を飲み込んだ。
「好きな人がいるんだ」
彼はそのことを予想していたのだろうか。表情を変えずに僕の目を凝視していた。
「それは、香澄ちゃんではなくて、ですか?」
僕は首を振りながら、久しぶりに聞くその名を心の中で味わった。もう今は、その響きに何の甘さも感じない。
「じゃあ、その、僕の夢に出てきた子が…?」
先程の表情に戸惑いの色がわずかに滲んだ。ああ、と僕は短く言った。
「信じてもらえないかもしれない。いや、信じてくれというのも無理な話だが、僕はもうこの世にいない女の子に恋をした。何故僕にだけ、彼女の姿が見えるのかもわからない」
不意に、彼女との初デートで、有村と偶然遭遇したことを思い出した。彼はそのときのことを覚えているだろうか。あの日から、僕らの時間は始まったのだ。
「幸せだった。失恋したばかりで辛かった僕を、彼女が救ってくれた。もうこの世にいない相手だとわかっても、一緒にいたいっていう気持ちは変わらなかった。むしろ、ずっとこの時間が続けばいいと思った」
「だから、死のうとした、と?」
有村は椅子に座って少しだけ身を屈め、前のめりの姿勢になった。まるで詰問するかのような姿勢だったが、同時に身構えているような姿勢とも取れる。戸惑いの色はいくぶんか消えていた。元々彼に備わっていた、真剣な眼差しが戻ってきつつあった。
「そうだ。でも馬鹿なことをしたと思うよ。こうして皆に心配をかけて、結局は、僕の好きな子をすらも苦しめる結果になってしまったんだから」
彼は黙ったまま、僕の言葉を飲み下そうと努めるように、あるいは味わうかのように、小さく何度も頷いた。
「あの子はもう、僕の前に姿を現すことはないかもしれない。でも、僕はもう一度彼女に会わなければならない。会って謝りたいんだ。そして、君がいてくれて本当に良かったって、言ってあげたいんだ」
言い終わると、ややあって有村がゆっくりと言った。
「本当は、先輩から何を聞かされるのか怖かったです。ひょっとしたら、また死のうとするんじゃないかって思ってた。だから、今回のことで反省が見えないようなら、一発ぶん殴ってやろうかと思ってましたけど…」
僕も、先程彼がそうしていたように、その言葉を咀嚼するみたいに小さく頷いた。
「どうやら、もう馬鹿なことしなさそうなんで、大目に見るとしましょう」
「ああ、すまなかった」
「いいですって。それより今日は、さっさと荷造り終えて、ゆっくり休んだ方がいいんじゃないですか?」
言って、彼は立ち上がった。その表情はもう、いつもの明るい彼の表情に戻っていた。
「先輩の恋人、探しに行きましょう」
彼の顔をじっと見た。樒ちゃんとのことを信じてくれたというのだろうか。しかし、そんなことは今にして思えば杞憂だったのかもしれない。いつだって彼は、からかい半分ながらも、僕の話を真剣に聞いてくれていたではないか。
「いい後輩、か…」
「そうですよ、もっと大事にしてもらいたいもんですね」
病室のドアを開け、出て行こうとする寸前、彼は振り向いた。
「そういえば、さっきからずっと思ってたんですけど」
からかうような笑顔を見せた。有村といえば、という風な、彼らしい表情だ。
「香澄ちゃんといいその子といい、意外と面食いですよね、先輩って」