23
蛍光灯の白い光に目が眩んだ。眩しさにしばらく何も見えない状態が続いた。光に目が慣れてくると、頭をゆっくりと持ち上げた。まるで鉛のように重かった。
真っ白で簡素なベッドの上。掛け布団の手触りは心地よかったが、どうも清潔にすぎて落ち着かなかった。普段部屋の掃除を怠っていると、こうしたときに戸惑うことになる。不意に田沼意次にちなんだ狂歌を思い出した。「元の濁りの田沼恋しき」の一節だけをしきりに思い出すが、今の僕の心境に相応しいとはとても思えない。要するに全然関係がないということだろう。
手もあるし、足もある。脳が命ずれば思い通りに動くし、柔らかな布団の感触を確かめられるだけの感覚もあった。いつも通りの自分の身体。すっかり鈍った重たい身を起こし、手のひらを見つめた。腕に巻かれた白い包帯だけが、いつもの僕とは違ったところだった。たぶん飛び降りたときに、木の枝かなにかにえぐられたのだろう。触ると鋭い痛みが全身を震わせた。
「…生きてる」
しばらく呆然と、その声の響きを反芻した。言葉にするだけで、生きているという実感をありありと感じることができた。同時に、先ほど見た夢の中で起こった出来事を思い返した。感覚のない身体、届かない声、泣いている彼女。
どうしても非現実的な感じがして仕方がなかったが、思い返すたび何故か他の夢とは違う、奇妙な現実感が感じられた。恐らく、あの夢も確かな現実だったのだろう。僕は実際に虚無の中に放り出され、そこに彼女の姿を見のだろう。
そんなことをぼんやり回想していると、不意にすぐそばでドアの開く音が聞こえた。そこには小柄な女の人の姿があった。手に大きめの鞄が握られていた。その鞄には見覚えがあった。
女の人は僕を見ていた。目だけをじっと僕の方に向けたまま、呆然と立ち尽くしていた。次第にその目の形が変わっていった。旅行鞄が、まるで忘れられたように手から零れ落ち、どすんと鈍い音を立てた。
「母さん?」
そう呼びかけたのが止めの一撃となった。母の目尻から涙が一雫零れ落ちた。それを拭うこともしないまま僕の方へ足早に寄ってきた。その刹那、空気を切るようなしゅっという音。
「…え?」
ばちんという小気味良い音がダイレクトに脳を揺らした。その衝撃は思った以上に強く、頬と首がちぎれてしまうのではないかと思った。五十代なかばを過ぎた母の、渾身の平手打ち。まだこんな力が残っていたのか。
奇襲ともいうべき予想外の出来事に面食らってしまう。こちらとしては今目を覚ましたばかりであって、どういう状況に身を置いているかもわからない。そんなところにこの不意打ちは酷というものではないか。抗議の声をあげようと思うのもつかの間、そのまま母は両手で顔を覆い、堪えきれない嗚咽を漏らしながら、布団の上に突っ伏した。すがりつくような姿勢で、布団越しに僕を抱きしめながら、母はしばらく泣いていた。
僕はずっと、そんな母の姿を見ていた。何を言うでもなく、叱るでもなく、憐れむでもなく、ただ泣きじゃくる小さな背中を見続けていた。記憶が僕の頭を駆け巡った。樒ちゃんのこと、先ほどまで見ていた夢のこと、展望台から飛び降りた瞬間のことが、時を遡るように思考をかすめては消えていく。そしてもう一度、母の泣き声を意識の中心に縫い止めた。
ようやく僕は、自分がとんでもなく愚かなことをしたのだと思い知らされた。
母が連絡を入れたのだろう。その日の昼から、友人たちが代わる代わる病室にやってきた。
特に有村は連絡をするなり飛んできたらしく、真っ先に息を切らせながら病室のドアを押し破るように入ってきた。そして看護婦さんの咎めるような目など気にも留めず、僕の顔を見るなり抱きついてきた。
馬鹿野郎、馬鹿野郎と繰り返し叫びながら、僕の胸を拳で何度も殴った。泣いているので大した力ではないものの、十分に痛かった。見かねた母が引き離してくれたものの、それでも彼は腕で目を覆いながらしばらくしゃくりあげていた。
彼とはその夜一緒にいたのだ。一緒に飲みに行ったとき、そのときに何か気づけていたら。僕に思いとどまらせていれば、こんなことにはならなかったのに。そんな自責の念に苛まれていたのだろう。そんなつもりはなかったのに、有村には本当に申し訳ないことをした。悔恨に胸が焼きただれるような思いがした。
夕方になると、仕事が終わった同僚たちがお見舞いの品を手にやって来た。みんな有村のように泣いたりはしないまでも、一様に表情は暗かった。話すときも、どこか微妙なよそよそしさを感じる。まるで触れてはならない部分に触れないようにしているような印象を受けた。
「なにか悩みがあるなら言ってね。相談に乗るから」
言葉は違えど、みんな最後にはそう言ってくれた。僕にはそれが辛くてたまらなかった。僕がしでかした愚かな間違いで、こんなにもみんなに心配をかけ、気を使わせてしまっている。死のうとしたあのときは、それでも構わない、樒ちゃんとずっと一緒にいるためならと思っていたはずだったのに、いざ現実に人の悲しみや哀れみに晒されると、そんな気持ちも起こらなくなってしまう。誰かの顔を見るたび、自責の念に駆られて辛かった。
医師からは、経過観察のために二日ほど入院することにはなるが、恐らく後遺症などもなくいつもと変わらない生活に戻れるという。
「けどよかった…。もし有村くんが見つけてくれなかったらどうなっていたことか」
母がそう言った。
「有村が?」
傍にいた有村が、暗い面持ちで首肯した。
「先輩と飲んで帰ったあの夜、すごく変な夢見たんですよ。知らない女の子が僕に向かって、泣きながらずっと”助けて”って言ってるんです。その子は僕の手を引いて、展望台に向かう階段を走って行きました。それだけの夢なのに、なんだかすごくリアルな感じがして、展望台に行ってみたら…」
有村はそこで言葉を切った。目の当たりにした光景は、恐らく相当に衝撃的なものだったに違いない。
「俺、本当に怖かったんです。腕とか血まみれだし、身体中ボロボロで、呼びかけても返事ないし、すごく怖くて、救急車呼んで、でも、着くまでに先輩死んじゃったらどうしようって、俺…」
有村は涙声で項垂れた。胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
「…ごめん、迷惑かけた」
そう呟くことしかできなかった。有村は伏し目がちにしながら僕の目を見ず、責めるような口調で言った。
「なんで、死のうとしたんですか」
僕は何も言えなかった。
僕が死のうとした理由。それはあまりにも突拍子がなさすぎて、現実味がなさすぎて、有村や母に説明するのは憚られるような気がしたのだ。あくまでこれは僕自身の問題であって、僕自身の弱さであって、それは僕自身が向き合わなければならないことだと、そのときは思えた。僕自身と、あるいは彼女自身と。
皆が帰り、明かりが消え、不気味なほど静まり返った病室で、僕はそのことばかりを考えていた。樒ちゃんは僕の部屋にいるのだろうか? 早く帰って、彼女を安心させてあげないと。