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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 大きな暗闇の中にいた。

 あまりにも深い暗闇だったせいで、視線を見下げても、自分の体が見えないほどだった。まるで視界だけが宙に漂っているような感覚。耳鳴りすらない静寂と、手足の無感覚さも手伝って、余計にその印象が強められていた。

 どこに行けばいいのかもわからない。何をするべきなのかもわからない。何もない。空っぽの空間と思考だけが僕を支配していた。空虚という形容こそ、それにふさわしかった。

 これが、死なのか。

 そう直感して、感覚のない肩をすくめた。思っていたよりもずっと無感動だった。よく耳にする臨死体験の話では、三途の川だったり、故人との再会だったり、神や天使との邂逅が語られたりするものだが、そんな気配は今のところまったく感じられない。生に行き詰まり、死に救いを求める人たちは皆、こうした虚無の中に放り出されるのか。ここには救いどころか、希望も絶望すらもない。完膚なきまでに何もない。残酷な現実に空っぽの胸が痛んだ。

 樒ちゃんはどうしているだろうか。伽藍堂に溶け込んだ心は、彼女のことばかりをひたすらに切望した。彼女と一緒に過ごすために選んだ道なのに。

 広大な暗闇のプールは、いったいどこまで続いているのかも判然としなかった。それを確かめることすらもままならない。焦燥がちりちりと胸の中で踊る。早く彼女に会いたい。

 と、そのとき、僕の心を反映したかのように、暗闇が全体にぼうとオレンジ色を帯びた。まるで夜明けのように、暖かい色が徐々に広がっていく。

 よく目を凝らして見ると、オレンジが広がるその発生地点が確認できた。その部分を凝視する。そこに人影を認めるのに時間はかからなかった。視界だけになった僕は、まっすぐその場所に吸い寄せられているのだった。

 近づくにつれて、その人影の表情や姿が見えてきた。樒ちゃんだということがわかって、早く会いたいという想いが一気に強まった。感覚のない手足をばたつかせ、必死で彼女の元へ辿り着こうとする。

 彼女の名前を叫んだ。呼びかけた。しかしそれは声にならなかった。喉の感覚もなくしたようだ。声の出し方がわからない。静寂は微動だにせず、彼女には何も届かない。

 何度も呼んだ。無駄なこととはわかっていつつも、彼女のことを呼ばずにはいられなかった。そして何度も、この声が届くようにと念じ続けた。彼女の名前が、この心の中だけで反響した。

 すると、不意に彼女が振り向いた。僕と彼女の視線が交叉した。瞬間、ずきりと胸が痛んだ。忘れられていた感覚が呼び起こされた。

 彼女は泣いていた。泣きはらした目で僕を見ていた。あの夜に見た、怒りや悲しみがない交ぜになったような、あの辛すぎる表情だった。

「樒ちゃん」

 気づけば声は戻っていた。暗闇の中に僕の声だけが響いた。しかし彼女は何も言わないまま、ただ僕のことを見つめているばかりだった。手を伸ばそうとして、彼女に触れようとする。しかしぎりぎりのところで届かない。これ以上近づくことができない。

 しばらくの間、僕たちは無言のまま見つめ合っていた。その視線はずっと僕を刺し貫いていたが、表情は硬いまままったく動かない。まるで人形のようだった。悲哀を訴えかけるだけの人形。そう形容してしまうことを躊躇してしまった。それではあまりに救いがなさすぎる。

 そして、何の前触れもなく、彼女の唇が震えた。小刻みに震えながら何事かを紡いだ。しかし声は依然として聞き取れなかった。唇の動きだけを僕は目で追った。何度も思い返した。

 そこで記憶が途切れた。目を醒ますと、真っ白な天井が視界を占めていた。

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