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自殺するために専門的な知識は必要だろうか?
たとえば飛び降り自殺をするとして、どれくらいの高さから落ちたら死ねるだろう。手首を切るとしたら、どの辺りまで切り込めばいいか。睡眠薬を飲むのなら、その致死量はどれくらいなのか。
樒ちゃんを泣かせたあの日からも、本屋や図書館の前を通るたび、そんなことをつい考えてしまう。有村がいない休憩時間に、何気なくインターネットを開けば、そんなことばかりを調べてしまう。彼女の涙に一度は溶かされた決心が、まるで黄昏から夜に暮れていくように、僕の心にまた広がっていく。
やっぱり、樒ちゃんと過ごすこの時間を、なんとか永遠のものにしたかった。この夏がいつまでも終わらなければいい。彼女だって、最初は悲しむし、怒るだろうが、ずっと幸せな日々が続いていくなら、その価値をきっといつかわかってくれるはずだ。
何かを変えるためには犠牲が必要だ。そのために苦しむのは僕の役目だ。そう信じ、そこに疑いが入り込む余地はなかった。
僕は死ぬ。一生を終える。
死のうtと決めた日が近づいてきても、自分の心は揺らがなかった。それは自分でも意外なことだった。生物として、死は何よりも恐れるべきもので、どんなことがあっても回避しなければならないもののはずなのに、むしろ奇妙な開放感さえ感じてしまう。そのことに、自分自身に対して狂気じみたものを感じずにはいられなかった。恋とはすでに狂気、とはよく言ったものだ。
何気なく過ごしていたはずの一分一秒が、とても尊くて、かけがえのないものに感じられた。どんなに短い時間も咀嚼し味わうことで、僕は今まで過ごした現実を振り払おうとした。ゆったりと穏やかささえ感じられる時間の中で、現実に対する惜別の念と、やがて訪れる死後の世界への期待が交叉した。
「おい有村。今夜飲みに行こうぜ」
最後の日、僕は樒ちゃんにも了承を取って、有村を食事に誘った。この世で別れを告げるべき人間たち。その中でも有村は特別な存在だった。いつも僕をからかう生意気な後輩だが、時に笑いあい、慰めてくれた友人。休憩室で煙草を吸っていた彼は、まるで壊れたロボットみたいな鈍い動作でこちらを振り向いた。
「先輩から…飲みの誘い?」
そういえば、僕の方から誘ったのは今回が初めてかもしれない。それにしても、まるで天変地異にでも巻き込まれたかのような表情だ。普段僕はそんなに低調な人間に見られていたのだろうか。
「どうしたんすか先輩、なんかあったんすか?」
恐らくからかい半分の些細な質問であったろう。しかし僕の表情にたじろいた様子が一瞬浮かんだ。今までこれほど苦労して作った笑顔はない。
「なんでもないよ。たまには先輩らしいところ見せてやろうと思っただけだ」
「本当っすか?嘘くさすぎますよ」
そう言ってなおも疑り深い目をする。僕は休憩の終わりを口実にその場を離れた。怪訝な表情をしていた彼から、心配しているような雰囲気をかすかに感じた。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめん、有村」
一人きりの廊下で、誰に聞かれるでもなく呟いた。その声ははっきりと震えていて、このとき初めて、死ぬことを惜しむ気持ちを実感した。
僕は酒を飲み続けた。酔っ払ってしまえば気も大きくなって、これから取るべき行動に迷いも生じにくいだろう。そういう目論見もあって、飲む量はかなり増えていた。この間よりも断然早いペースで、ありとあらゆる酒を飲み干していく。向かいの有村は、まだ最初に頼んだビールを半分以上残しながら、引いたような目で僕を見ていた。
「先輩絶対なんかあったでしょ」
僕はもう既に四杯目のジントニックに口をつけている。自分でも酔いが回っているのがわかる。
「んん~? 何でもないって言ってんじゃんかぁ~」
いかにも酔っ払っていますというような口調になっていた。語尾が不必要に伸びるのを聞きながら、そんな自分を情けなく思った。こうなりたくなかったから、飲む量をセーブしていたんじゃなかったのか。
「たまにはこう言うのもいいだろ~。ハメ外したいときもあるんだよ」
「それってやっぱり、なんかあったときに取る行動なんじゃないすか」
普段ならこうなるのは有村の方だ。何かあったときも、何でもないときも、有村はよく飲んで喋り、そして潰れて眠り込む。その度に迷惑をかけられるのは僕のはずなのに、立場が逆転していることが我ながら滑稽だった。
「先輩、頼みますから正直に答えてくださいよ」
そう前置きして、有村が僕の目を正面から見据える。有村が真剣になったときに取るいつもの行動だ。酔いが少しだけ醒めるのを感じた。
「先輩、今幸せですか?」
頭の中が一瞬、真っ白になった。
思いがけない問いだった。僕はうまく言葉を選べなかった。戻ってきた思考に、一番最初に現れたのは樒ちゃんだった。
彼女と出会ってから時間を思い出した。そして、これから続いていくであろう、一緒にいられる永遠について想いを馳せた。今まで培ってきた揺るぎない決意。言葉と共に表情もほころんだ。
「ああ。幸せだよ」
その落ち着いた口調を聞いて、有村は意外そうに目を見開いた。僕がきっと言いにくい本音を吐露してくると踏んでいたのだろう。答えが意外なものだったために、今度は彼が言葉を失う番だった。
僕は決して、現実が辛くて死を選ぶわけじゃない。樒ちゃんとの日々が幸せに過ぎた。もっと幸せを欲するあまりに死を選ぶ。これがポジティブな理由なのかは自分でもわからない。しかし僕が幸せであることに間違いはなかった。間違いなどなかった。
「…そうですか」
黙り込んでいた有村が口を開く。そして、すっかり泡の消えたビールを喉に流し込んだ。そして、笑顔を見せてくれた。なんだかその笑顔を、久しぶりに見たような気がする。
「なら、今日くらいはフツーにハメ外して飲みましょっか。どうせ先輩のおごりだし」
そして、必要以上に大きな声で店員さんを呼び止め、彼の酒と、僕の分もジントニックを注文した。酒が届くと、グラスを僕に向けた。
「改めて、乾杯っす」
グラスをそっと合わせた。乾いた音。その音色をいつまでも記憶した。そして死に際に思い出そうと決めた。淡い友情の象徴。僕は新しい酒を一息に飲み干した。
彼はこの乾杯を覚えていてくれるだろうか。僕が死んだあとも、こんな時間があったことを、思い出してくれるだろうか。
そのあとも僕らは狂ったように酒を飲み続けた。自分でも何杯飲んだか覚えていない。そんな飲み方を続けていれば、酔い潰れるのは当然だった。冗談みたいな量のアルコールを摂取した僕らは、ふざけたような額のお会計を払い、馬鹿みたいな足取りで帰った。この間送ってくれたお礼だと言って、有村は僕を家まで送ってくれると言った。しかしふたりとも、いっそ清々しいほどの泥酔っぷりなので、その言葉にはほとんど意味がなかった。
肩を組み、鼻歌を歌いながら家に帰る。こんなに楽しい夜は久しぶりだ。いや、初めてと言ってもいいかもしれない。今まで僕は自分に言い訳をしながら、一歩引いた状態で生きていた。ハメを外したことなどなかった。しかし一度リミッターを外してみれば、その開放感は驚くほど爽快なものだった。
「先輩、今幸せっすかー!」
「おおー!」
なんて程度の低い雄叫びをあげながら歩いた。外で大声を出したことなどない。まばらにすれ違う通行人が、鬱陶しそうな視線を僕らに投げかけてくるが、そんなことさえもどうでもよかった。とにかく楽しかった。家で待っている樒ちゃんのことも気がかりで、早く帰ろうとも思うのだが、今日はこのままのペースでゆっくりと帰ろう。
「え、先輩」
有村がびっくりしたような表情で、僕の顔を覗き込んできた。
「何泣いてんですか?」
視界が滲むのは酔いのせいだとばかり思っていた。気がつけば、僕の両目からぼろぼろと涙がこぼれていた。全然悲しくなんてないのに。むしろ今が楽しくて仕方がないのに。
僕は立ち止まって、ふらつく視界で自分の涙を凝視した。わけもわからないまま、袖口で溢れる涙を拭う。それでも涙は止まってくれなかった。
そのとき、ふと思った。気づかされたのだった。死を恐れている自分のことを。
「…ごめん」
でも、それでも、
「もう決めたんだ」
思わずついた独り言。それは自分の心の中で響き、揺らぎかけた決意を不動のものにしたのだった。崩れかけていたものを、もう一度組み立てた。それは大きな労力を必要とした。
「ただいま」
僕は一人、暗い部屋を通り抜けた。ワンルームの隅っこにあるベッドで、樒ちゃんが小さな体を横たえて眠っていた。寝息が聞こえた。僕はそれをしばらく聞いていた。僕にしか聞こえない寝息。僕にしか見えない寝顔。
やがて、樒ちゃんが目を少し開いた。
「…あ、おかえり」
体を起こし、目をこすりながら言う。僕の涙はもうすでに止まっていた。
「飲み会、楽しかった?」
その口調に、少しだけ拗ねたような色が窺えた。一人が寂しかったのだろうか。彼女の髪を撫でた。
「まあ、それなりに、かな」
極めてドライな口調。自分でも驚くほどに冷静だった。
撫でた髪の感触が心地よかった。僕はそのまま彼女の頭を腕に抱いた。腕の中で、樒ちゃんがすり寄せるように動く。その感触に浸った。酩酊を忘れた。
安心したように、樒ちゃんはすぐ寝入った。安らかな寝顔。布団の中にふたりの体温が満ちる。心地よいぬくもり。こうして暖かさを感じられるのも、これが最後かもしれない。そう思うと惜しいような気持ちが、少しだけ僕の胸をかすめた。
うとうととし始めた頃に時計を見た。帰ってきてから一時間ほどが経っていた。樒ちゃんの安らかな寝顔を確かめてから、起こさないようにそっとベッドから抜け出した。そして一度だけ、眠る彼女に振り返った。
「…ずっと一緒に」
その言葉の余韻に浸ったあと、しっかりとした足取りで玄関を出た。
死にたい、と思ったことはあるだろうか。
たとえば、友だちとひどい喧嘩をしたとき。がんばっていた物事を諦めたとき。忙しい毎日に疲れ果てたとき。自分の至らなさを痛感させられたとき。誰かに別れを告げられたとき。
とてつもなく辛いことがあったとき、死を想うことはきっと誰にでもあるだろう。死をひとつの安息として想像することで、心を保つ防衛本能。
そういうときは、死ぬべきではない。友だちと仲直りする、自分に自信を持つことができる、誰かに愛していると言ってもらえる明日が待っているかもしれないからだ。
「あなたとずっと、一緒にいたいです」
樒ちゃんにそう言ってもらえたとき、生きていて本当によかったと思えた。圧倒的な、絶対的な肯定。それは何物にも代え難い、有難いことだ。僕を必要としてくれる誰かの存在は、同時に僕自身をも救うことになったのだから。
「ありがとう」
だから。
僕は今から死ぬ。
彼女が僕を必要とし、僕が彼女を必要としているから。矛盾を感じても、それが僕を引きとめることはなかった。
展望台には、誰の姿もなかった。風が一筋吹き、その音がどこかへ消えていく。そこが今から僕の行く世界なのだろうか。彼女がいる世界なのだろうか。
樒ちゃんが飛び降りた場所には、常に花が供えられていた。夏だから、今は向日葵。大輪の鮮やかな黄色が、静かに、夜の闇に横たわっていた。
酔いがまだ残っているのか、躊躇いや恐怖心などは感じなかった。心穏やかに柵を乗り越え、すぐ足元に広がる闇を見下ろした。
先ほど、有村とふたりで帰った帰路のことを、不意に思い出した。グラスの触れる高い音がすぐ耳元で鳴った。
泣くかと思ったが、涙は出なかった。あのときに枯れたのだろうと思い込むことにした。代わりに笑っておいた。よき友人のことを思って。
「ありがとな」
そして、最後の一言を告げた。
「さよなら」