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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 完全に日が暮れてしまうと、辺りには誰もいなくなってしまった。あれだけ賑やかしかった海岸に、僕らふたりだけが残される。海の家の明かりも消えてしまい、遠くの方にある灯台の灯と、月と星だけが僕らを照らしていた。

「早く、早く!」

 そう急かす樒ちゃんに、手持ち花火の一本を手渡す。ライターで先端に点火し、ついていた紙が勢いよく燃えていたと思うと、赤い色の美しい炎が音を立てて噴き出した。

「わああ!」

 驚いたように笑う。そしてその赤い綺麗な光を、笑顔を浮かべたままずっと見つめていた。やがて、火薬を使い果たして花火が消える。火薬独特の匂いが鼻を突いた。

「あっ…」

 どうやらいきなり消えてしまったのが意外だったようだ。

「えー、もう消えちゃうの…」

 そう言って、僕の目を見上げた。次の花火をせがんでいるのは聞かなくてもわかる。今度は二本ほど手渡す。樒ちゃんはそれを両手に持った。

 今度は緑色の炎が先端から噴き出した。樒ちゃんは「あっ、あっ、あっ」と慌てながら、もう片方に持っていた花火に炎を移した。足に火がかかってしまうんじゃないかと冷や冷やしたが、無事に花火を二本とも点火すると、それを持ったまま海の方へと駆け出した。その様子は、このまま海に飛び込んで行ってしまいそうなほど危なっかしくて、僕は慌てて樒ちゃんのあとを追う。夜の闇に溶けたような灰色の波打ち際。その手前で彼女は立ち止まった。僕が追いかけてくるのを待っていた。

 暗闇の中でもはっきりわかる笑顔。花火の放つ光に浮かび上がる姿。

 その姿に、僕はほんのわずかに、恐怖を感じた。

 樒ちゃんの向こう側に広がる闇。夜の海はしんと静まり返り、樒ちゃんのはしゃぐ声と、波の打ち寄せる音しか聞こえてこない。彼女がこのまま闇に溶けて消えてしまうんじゃないか。何の前触れもなく、あっけなく消えてしまう花火の光が、その思いを如実に連想させてリアリティを増した。

 次の花火を求めて、元いた場所へ走っていこうとする樒ちゃんの背中を、僕は捕まえるようにして抱きとめた。彼女は突然の出来事に驚いたように声をあげたが、僕の腕を振りほどこうとはしなかった。

「…どうしたの?」

 優しい声のトーン。泣き縋る子どもをなだめる母親のような。僕は彼女の名を一度だけ呼んだ。

「いなくなったりしない?」

 小さな声で言った。その声が泣いているように震えていたのがわかった。樒ちゃんは「うん」と短く、けれどはっきりとした声で言うと、身体に回された僕の腕にそっと触れた。

「ずっと一緒にって言ってくれたから」

 展望台で言った一言。眠る彼女に囁いた一言。

「だから、いなくなったりなんてしないよ」

 本当はいけないことなのかもしれない。

 樒ちゃんは死んでいる人で、もうこの世にはいない人で、そんな彼女を、ここに繋ぎとめておくことなんてできない。してはならない。それはルールに反することではないのか。

 そんな、現実と理想の狭間でざわめく心が、樒ちゃんの声によって和らいだ。僕は彼女を必要としていて、彼女もまた僕を必要としている。ならば世界のルールなど関係ない。「一緒にいたい」という、シンプルかつ強固な願望が僕らを支配し、世界を掌握し、そして、僕らをここに繋ぎとめていた。

 僕が腕をほどくと、樒ちゃんは僕に向き直った。しばらくお互い何も言わず、ただ見つめ合った。そんな時間が、ただ波のように流れていった。暗闇の中でも、その瞳が強く輝いているのがわかった。恐怖はもう消えていた。穏やかな波の音だけをただ聞いた。


 樒ちゃんが矢継ぎ早に花火を消費していくので、たくさんあったはずの花火はあっという間になくなってしまい、あとには線香花火だけが残された。

 樒ちゃんは線香花火の上下どちら側に火をつけたらいいのかずっと迷っていた。面白かったのでしばらくそのまま見ていたが、結局間違った方に点火しようとしたので、慌てて僕は正しい方を教えた。

「綺麗だね」

 火の玉がパチパチと小気味良い音を立て、その周囲に鮮やかな火花を散らせる。興奮気味に花火を振り回していた樒ちゃんも、このときばかりはまるで大事な宝物を扱うかのようにしながら線香花火を見つめていた。

 あまりに真剣だったのが逆にいけなかったのか、樒ちゃんの方の火の玉が先に砂浜に落ちてしまった。小さな炎はしばらく健気に燃えていたが、やがてゆっくりと、くすんだ黒い点になってしまった。

「ああ…」

と樒ちゃんが落胆したように息を吐く。そして僕の方の残っている線香花火が、落ちないままに消えていくまでじっと見つめていた。

「なんか、儚いね」

 消える間際、樒ちゃんが呟いた。その声の響きはささやかなものだったが、僕の心に細い針のように容易に突き刺さった。僕はかすかに、首を横に振った。

「…大丈夫」

 その一言は、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。この時は、僕らが望む限り、永遠に続いていく。

 花火を終えた僕らは、手を繋いで、しばらく砂浜に座っていた。夜の海から見える満天の星空を眺めながら、そんな永遠について考えていた。


 それからしばらくは、いつも通りの日々が続いた。バイトを終え、家に帰り、樒ちゃんと過ごして朝を迎える。

 当たり前のルーチンに慣れていく自分を認識すると同時に、この生活が終わる日を夢に見て、うなされて目を覚ますことも多くなった。

 もし樒ちゃんが、ある日突然いなくなってしまったら?歳を重ねるごとに老いていく僕を、彼女はどう受け止めるのだろう?

 できることなら、僕はこの”今”が永遠に続いてくれることを望んでいた。僕らの時間だけが止まったままになればいい。周りがいくら変わっていこうと、僕らは変化することなく、この幸せな時間だけを過ごしていたい。そんな現実味のない考えを、どうにかして叶えることはできないかと真剣に考えるようになった。

 もともと、樒ちゃんはこの現実という枠組みから外れた存在だ。生と死の概念を飛び越えて存在する彼女。世界の規律からはみ出した彼女。しかし僕だけは、否応なしに世界の規律の中にいなければならない。そのことにだんだんと煩わしさを覚えずにはいられない。樒ちゃんとの時間が幸せなら幸せなほど、自分の鼓動の、その正確なリズムさえ疎ましく思った。

 そんな僕が、死を意識するのは当然のことだ。そうじゃないか。

 樒ちゃんとずっと一緒にいたい。現実という枷から解き放たれたい。そのための手段として、死というものは最も合理的な行動のように思えた。樒ちゃんと同じところに行くことができれば、僕らは永遠に一緒にいられる。そしてその考えは、日を追うごとに確かな決心となっていった。

「なんか最近、元気ないね」

 樒ちゃんが、オムライスを口に運ぶ手を止め、僕の目を覗き込んだ。僕のスプーンの動きがぴたりと止まり、それからなるべく平静を装うように、大きくすくって口に頬張った。

「そう?そんなことないよ」

「嘘。何かあったの?」

 彼女が改まったように僕の目を見つめる。その瞳の光をまともに受け、僕は少したじろいた。どうして女性というものはこうも勘が鋭いのだろうか。その視線から逃げるようにうなだれた。

 樒ちゃんに、この決意を言うべきかどうか迷っていた。

 彼女はどう思うだろう。反対されるだろうか。それとも喜んでくれるだろうか。いや、きっと喜んでくれるだろう。そうすることで、僕らはずっと一緒にいることができるかもしれないのだから。この幸せな時間が永遠に続く、その第一歩を踏み出すことに賛同してくれる。きっと。

「…実はさ」

 喜んでくれる、そう思って言いかけたのに、僕は言い淀んだ。一瞬だけ呼吸を整えるようにしたのは何故なのか。

「僕も死のうかな、なんて、考えてたり」

 頭を掻きながら、何気ない風に言った。冗談っぽく、とでもいおうか。反対されたとしても、ただ笑い飛ばされて、それで終わるだろう。そんな風に自分を守っていたのかもしれない。

 しかし、樒ちゃんの方からは何の反応もなかった。笑い声も、何も。一瞬の静寂に僕が不自然さを覚えるのと、樒ちゃんが弾かれたように立ち上がったのはほぼ同時だった。その衝撃でテーブルが大きく揺れ、飲みかけのビールが倒れて中身がこぼれた。

「いやだ!」

 彼女の大声が静寂を劈いた。部屋中がびりっと震えたような気がした。僕は何か言おうとした。しかしそれを遮るように、彼女はもう一度叫んだ。

「いやだ!」

 樒ちゃんの大声を初めて聞いた。こんなに怒った顔も初めて見た。凄まじい怒りの形相で僕を睨みつけていた。僕は狼狽した。何も言えなかった。

「…なんで」

 呟くように言ったその声が震えていた。

「なんでそんなこと言うの…?」

 僕を睨みつけている目の端から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。そして腕で涙を隠すようにしながら、ぺたりとその場に座り込んでしまった。僕はすかさず彼女に近寄った。

「ごめん…」

 僕は謝った。その身体を抱きしめようとした。しかし、彼女は両手で僕を突き放した。弱々しい力だったが、僕はよろめいてしまった。情けなく座り込んだ。

「なんでよお…」

 そう言って樒ちゃんは、今度は自分から、僕の胸に飛び込んできた。飛び込んできたというよりも、殴りかかってきたと言った方が適切かもしれない。続けざまに、僕の胸を拳で何度も叩いた。痛みは感じなかった。もっと奥の部分の方が痛かった。

「…死ぬって…」

 しゃくりあげながら、彼女は必死に言葉を繋いだ。

「死ぬってとっても苦しいことなのに…!」

 語気を強めて、彼女は言う。

「死ぬってとっても怖くて、苦しくて、寂しくて、そんなこと、しなかったらよかったって私、思ってるのに…。なんであなたが、そんなことしなくちゃならないの…?」

 次第に、僕を殴りつける力が弱まっていった。最後は、僕のシャツにしがみつくようにして、そこに涙で濡れた顔を埋めた。

「私…生きてればよかった。生きてあなたに出会えていたらよかった。そしたら、一人でスーパー行って買い物して、あなたにご飯作ってあげられるのに。バイト先に行って、あなたが働いてるところも見られるのに。ご近所さんに朝の挨拶したり、有村さんに、あんまりからかわないでって怒ってあげられるのに…」

 責めるような口調は、僕に向けてではない。自分にぶつけるように言葉を放っていた。泣き声が部屋を沈鬱に濡らした。

「…生きてたらよかった…」

 その言葉が、何度も胸を刺し貫いた。痛みに全身が強張った。

 死を希望する僕と同じように、樒ちゃんも生を切望していた。決して僕だけが苦しんでいたわけではない。樒ちゃんもまた、一緒にいたいと願い、そのことと、残酷な現実との間で見えざる血を流していたのか。強い後悔。自分のした決断に対する、それは悔恨とも言うべきなのだろうか。

 樒ちゃんの身体を抱きしめた。これまでにないほど強く。もう決して離すもんかと言わんばかりに。そうしないと、自分が壊れてしまいそうだった。それくらい、樒ちゃんの気持ちが辛かった。すすり泣く樒ちゃんが、やがて泣き疲れてしまうまで、僕はずっと彼女を抱きしめ続けた。

 その夜、初めて僕らは別々の布団で眠った。樒ちゃんはベッドに横たわり、僕にずっと背を向け続けていた。僕はそのすぐ下にマットレスを敷き、彼女の方を向いて身を横たえながら、眠れない長い夜を過ごしていた。窓の外から、しとしとと糸雨の降る音が聞こえる。それが余計に寂しさを助長させた。

 時折視線を送って、彼女はどうしているかを確かめる。その丸まった、小さな背中が悲しかった。手を伸ばして引き寄せようという衝動を何度堪えたことか。

 自分はなんと浅はかなことを言ったのだろう。良かれと思って言ったはずなのに、結果として彼女を傷つけてしまった。その苦しみを暴いてしまった。申し訳なさを思うたび、後悔で胸がえぐられるような感覚を覚えた。辛くなって、樒ちゃんから視線を外した。寝返りをうち、樒ちゃんに背を向けた。

 そのとき、背中に何かが当たる感触がした。樒ちゃんが僕の背中にしがみついた。

 僕はもう一度樒ちゃんの方に向いて、今度はそっと、彼女を抱きしめた。

「…ごめんね」

 樒ちゃんは無言のまま、頭だけを横に振った。しばらくそうしていると、そのうち安心したかのように、かすかな寝息が聞こえてきた。

 起こさないようにそっと、一度だけ、彼女の髪を撫でた。そして僕もそのまま眠った。

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