19
天気予報は一週間前から調べてあった。
日曜日は曇りだったが、月曜日から土曜日まではしっかり晴れマーク。それを毎日確認した。当日が近づくと、大体十二時間おきに確認した。まず天気が崩れるとは考えられないけれど、油断は禁物だ。どこか異空間から、突如として謎のハリケーンが襲来するかもしれない。この間観に行った映画の話だ。
「…うわ」
バイトから帰ってきてびっくりした。洗濯物が片付けられたあとのカーテンレールを占めているのは、夥しい数のてるてる坊主だった。しかもよく見ると、それぞれ表情が微妙に違う。笑った顔、怒った顔、悲しげな顔、落ち着いているような顔、しかし一番多かったのは、必死に祈っているような表情を浮かべたものだった。そのうち数体は、祈りの手まで書き添えられている。相当明日の海水浴を楽しみにしているようだ。
「これだけ作ったから、明日ちゃんと晴れてくれるはず…」
合計二十一体目のてるてる坊主を吊るし終えても、樒ちゃんはまだ不安そうだった。
「大丈夫だって。天気予報はずっと晴れマークなんだし…」
「でも…」
そう言いながら、ホットミルクにそろそろと口をつけて、「あちっ」と言って少しこぼしてしまう。ホットミルクを飲むと寝付きが良くなると、この間僕が教えたのだ。なぜそうなるのかまでは知らない。
「…あ」
何気なく、樒ちゃんの力作たちを見渡していて、気が付いた。
「これ、逆さになってるよ」
「え!」
なんでもてるてる坊主は逆に吊るすと雨乞いの効果を生むんだそうだ。ちなみに知っていたことだけど、顔を描くのは晴天になったあとの工程である。顔を一生懸命描く樒ちゃんの姿を想像してしまって、結局言い出せなかったのだ。
必死にてるてる坊主の向きを正す樒ちゃん。こうして見ていると普通の女の子だった。その平凡さに、時々樒ちゃんが、本当はもうこの世にいない人だということさえ忘れてしまいそうになる。
「直ったあ…」
そう言って安心したように、樒ちゃんがこちらを振り向いた。僕も満足そうに笑った。窓の隙間から、夏特有の暖かい風が吹き込んでくる。そこに雨の匂いはなかった。明日はきっと大丈夫だろう。
早朝、かなり早い時間に樒ちゃんに揺り起こされた。眠い目をこすりながら、カーテンの隙間から差し込む日差しと、彼女の晴れやかな笑顔を見た。
「えへへ、作ってみました」
樒ちゃんは誇らしげに、綺麗に包まれた二人ぶんの弁当箱を見せてくれた。
「…うおお…」
寝起きから思わず泣きそうになってしまった。間違いなく、今までの人生で最高の朝だ。今日はいい日になる。そう確信せずにはいられない。
同時に、このお弁当を作ってくれるのに、樒ちゃんがどれだけ早起きをしたのかが気になった。それこそ日が昇る前から起きていたのかもしれない。健気に料理をする樒ちゃんの姿を想像して胸が熱くなった。
「…ありがとう。眠かったろうに」
そう言うと、樒ちゃんはベッドに半身を起こしている僕に抱きついてきた。
「どういたしまして」
僕の胸に顔を埋める樒ちゃんの髪を撫でた。そしてそっと腕で包んだ。そうしてしばらく、穏やかな朝の時間が流れていった。
それから僕らは、余ったお弁当のおかずをメインにささやかな朝食をとり、支度を整えてから出かけた。予報通り、文句なしの快晴。名前も知らないお天気お姉さんに心の中でお礼を言って、さっさと進んで行く樒ちゃんに置いていかれないように、足早に駅へと歩いた。
電車は山間を抜けるようにして走り、トンネルを抜けたところで、遠くの方に海が見えた。太陽の光を反射してキラキラと光る海原を見て、樒ちゃんが静かに歓声をあげた。
「わあー、綺麗…」
海水浴シーズンにもかかわらず、車内は予想以上に空いていて、僕らが座る座席の近くには人がいなかった。樒ちゃんは履いていた白い花飾りのついたサンダルを脱ぎ、座席の上で膝立ちをする。そんな姿を眺めていると僕も楽しくなった。
海水浴場へ着くと、樒ちゃんは我慢できずに走り出した。もちろん、遊園地の一件からそれは予想していたので、そんな樒ちゃんをすかさず追いかけた。
海水浴場の砂浜には、たくさんの人たちがブルーシートやパラソルを広げて陣取っていた。その間を縫うようにして、僕らは波打ち際まで走った。
一見すれば、僕は一人で海辺を走る男に見えたことだろうが、不思議と気恥ずかしさはなかった。これだけたくさんの人たちがいると、視線はあまり気にならなくなる。それに、あまり気を使いすぎていては樒ちゃんも遠慮してしまうかもしれない。彼女がせっかく楽しみにしていた海水浴。それなら僕も存分に楽しまなくては。
樒ちゃんは打ち寄せる波に足を浸して笑った。波に晒された砂を足先で蹴飛ばし、白く泡立った海水を眺め、沖の方を見、次に目の前の水面を覗き込んで、最後に僕を見た。陽光を跳ね返す砂浜、その真ん中にいる彼女の美しさは、さながら絵画から切り取られたかのようだった。
海の家の更衣室を借り、着ていたトレーナーを脱いだ。備え付けられていた鏡が自分の姿を映す。その姿は、浜辺で見かけた若者たちよりも幾分か痩せてみえた。肌の色も白く、どことなく貧相な印象を受けた。恥ずかしさを感じ、こんなことなら日頃から運動のひとつでもしていればよかったと、一抹の後悔を感じた。
「お待たせ」
僕が海の家の前で待っていると、程なくして樒ちゃんが出てきた。この間買ったばかりの真新しい水着は、太陽の下で改めて見ると、より一層魅力的に見えた。水着売り場で感じた優越感がまた心を満たす。
ふと、樒ちゃんの背後に、五人ほどの若い男たち集まっているのが見える。皆一様に、逞しい腕や胸板が浅黒く日に焼けていた。恥ずかしさがまた大きくなる。ふと、樒ちゃんが僕の視線に気づいて背後を振り返る。
「どうしたの?」
僕は頭を掻きながら、
「いや、僕ってあんまり強そうじゃないなーって思って」
言うと、樒ちゃんはしばらく意味がわからなそうに僕を見ていたが、次の瞬間には笑顔に戻った。
「私は」
そして、ちょっとだけ僕の瞳を正面から覗き込むようにして、言った。
「あなたが一番強いって、思うな」
今度は僕の方が樒ちゃんを見つめる番だった。彼女が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。彼女はそのまま僕の手を掴んだ。そして、そんなことはどうでもいいことだと言わんばかりに僕を引っ張って、青く広がる海に向かって走り出した。
樒ちゃんは大いにはしゃいだ。終始スイッチが入りっぱなし、といった様子だった。それはもはやはしゃいでいるというよりは、暴れているとでもいうべきで、見事なはっちゃけぶりに時々僕はついていけなくなった。誰にも見えない姿だからこそ、開放感が増大されているのだろうか。何度も海水を浴びせられながら、そんなことを思う。
飛び込んだり、飛び跳ねたり、潜ったり、踊ったり、泳いだり、浮かんだり。
まるで、鳥籠から解き放たれ、大空を自分のものにした鳥のように。両手を太陽に向かって広げている姿は、盛大に羽根を広げているように見えて、その印象をより強くさせた。
そのときの彼女には、間違いなく翼が生えていた。今にも飛んでいきそうに見えた。翼が生えているのだとしたら、きっと彼女は天使になったのだろう。その想像は、彼女の愛らしい姿と相まって現実味を強めていた。
「楽しい?」
思わず僕は、聞かなくてもわかるようなことを聞いていた。それに彼女はにっこりと微笑んだ。
「楽しいよ」
「来てよかった?」
「うん。本当に来てよかった」
「そっか」
「君は?」
「すごく楽しい」
「えへへ」
広げたブルーシートの上で、樒ちゃんは僕の肩に寄りかかった。彼女の重さが、ふわりと僕の身体に伝わる。僕はしっかりとその身体を受け止めながら、先程樒ちゃんから言われた一言を反芻した。
ーーーあなたが一番強いって、思うな。
僕は弱い。少なくとも、僕は世界で一番強い男じゃない。もし神様が樒ちゃんを連れ去ってしまったとしたら、僕は神様に勝てるだろうか。脅威から彼女を守り抜くことができるのだろうか。そう考えてしまうこともまた、僕は弱いという証拠なのかもしれない。
でも、彼女は僕を強いといった。一番強いと言ってくれた。
彼女の世界では、僕が一番強い男なのだ。たとえ世界が、現実が、そして自分自身ですら僕の強さを否定しても、樒ちゃんは僕の強さを肯定した。認めた。信頼して、揺るぎないものにした。そのことだけは揺るぎない。揺らいではならないというべきか。
僕は弱い。とても弱い。けれどそれでいいと思った。彼女が僕の中に見た強さだけは、何が何でもなくしてはならない。
「ね、もっかい泳ごう」
樒ちゃんは立ちあがった。僕も立ちあがった。一瞬だけ、来た時よりも随分と傾いた太陽を見た。日が暮れるまでにそう時間はかからないだろう。その前にもうひとはしゃぎしよう。
結局、僕らは夕暮れを少し過ぎてからも大いに騒いだ。砂浜にいた人たちの数はだいぶ少なくなっていた。しまい忘れられたパラソルが潮風にはためき、そのすぐ正面の海の家から出てきたおじいさんが、迷惑そうにパラソルを畳んで持ち去った。
「楽しかったね」
着替え終わった樒ちゃんが、嘆息したように言った。そして、名残惜しそうに、夕陽に染まってオレンジを帯びた海を眺めた。少し濡れた髪が風になびいた。それを指で抑え、少し寂しげな横顔をしていた。
やはり、買っておいて正解だったな、と思った。
「樒ちゃん」
ゆっくり振り向いた樒ちゃんに、僕は先程こっそり海の家で買っておいたものを見せた。
「これ、なーんだ?」
僕が持つそれを見て、少し寂しげだった樒ちゃんの瞳が再び輝いた。
「花火!」
手持ち花火がたくさん詰められた花火のセット。近頃は花火を禁止している海水浴場も多い中で、ここはなかなかに善良的だった。もちろん、一緒に消火用バケツとゴミ袋を買ったのは言うまでもない。善良的な場所だからこそ、マナーを守らなければ。
日没まではしばらく時間があるようなので、その間かき氷でも食べようと、僕らは海の家へと引き返した。