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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 その日は夕方から雨が降る予報だったけれど、傘を持って出てくるのを忘れてしまったので、想像以上の土砂降りをバイト先の喫茶店の軒先から眺めていた。

 五月も後半にさしかかり、ゴールデンウィークの忙しさも忘れかけた頃。日常のゆるやかさを取り戻しつつあった僕に、神様が喝を入れたのかと訝しんだ。

 「あーあ、雨か…」

 つい恨めしい視線を空に向けたくもなる。この土砂降りの中を走って帰らなければならないと思うと気が滅入る。せめて煙草でも吸うかとポケットに手を入れた。

 「あれ、まだいたの?」

 突然、背後から声をかけられた。心臓が急速にしぼんで、血の流れが速くなった。鼓動の音が大きくなっていくのが手に取るようにわかる。

 びっくりしたわけではなかった。それがよく知っている声だったからだ。仕事中でもその声が聞こえるたびに、周りの音が一瞬耳に入らなくなってしまう。僕にとっては魔法のような声だったからだ。

 振り返ると、笑顔がそこにあった。僕よりもだいぶ背が低いので、見下げなければならなかった。愛らしい顔が空を見上げて、「うわ、すごい雨。」と言った。

 香澄ちゃん。僕が恋している女の子。

 いつでも笑顔を絶やさない明るい性格のためか、同僚や先輩はもちろん、お客さんの中にもファンが多い、我が店の看板娘である。ずいぶん長い間一緒に働いているが、この想いを伝えることができないまま、彼女の姿を目で追ってばかりの日々を過ごしていた。

 身の程を弁えるべきだろうか。生まれてこの方男女交際とは無縁、フリーターで趣味は睡眠という、冴えない男の典型というべき僕などでは到底太刀打ちできない相手だ。

 そんな憧れの相手と、雨の中をふたりきり。

 深呼吸をしても、加速した鼓動を抑えることができない。ただ深く息を吸って吐き、どうにかしてこの鼓動を抑え付けようと努めた。そんな僕を見て、香澄ちゃんはもう一度、微かに笑った。変な奴だと思われてやしないだろうか。

 思考を切り替えよう、笑顔のひとつでも返さなければと焦っていると、香澄ちゃんは柔らかい笑顔をそのままに、手に持つ傘を僕の方へ差し出した。

「よかったら、一緒に帰る?」

その一言で、焦燥の無限ループが一瞬のうちにフリーズした。すべての情報が消去されて、バックアップ・プログラムが立ち上がる。ドットの点滅と心臓の鼓動がほぼシンクロして、ブルースクリーンに冒された脳が、ひとつのシンプルな指令を下した。

 言葉を発さないままに頷いた。過剰なほど何度も。頷いているというよりも痙攣しているとでもいうべきだろうか。非常に格好悪い。

 それでも、香澄ちゃんは笑ってくれた。今まで見た笑顔の中で、一番楽しそうな笑顔。それだけで、胸の中がたとえようもない感情でいっぱいに満たされた。


 雨の中を、ふたり並んで帰る。

 どうやら途中の道までは帰る方向が一緒のようで(以前そんな話をしたらしいけれど、そんなことを覚えていられるほどの余裕などなかった)、しばらくふたりで並んで歩いていた。

 背の高い僕が傘を持ち、歩幅の小さい香澄ちゃんに合わせてゆっくり歩く。自分が濡れることなどどうでもよかったので、香澄ちゃんが濡れてしまわないように、傘を彼女の方に差し出して歩いた。それだけが、辛うじて意識することのできた紳士的な振る舞いだった。

 この街は田舎といっても差し支えないほどの閑静な街だったので、僕らの帰り道は途中、森の中にさしかかる。街灯の光はわずかにあるが、他の道よりも暗さが増し、なんとなく不気味さを感じる道だ。

 香澄ちゃんが僕との距離をそっと詰めた。もともとひとつの傘にふたりで入っていたから、信じられないくらい距離が近かったのに、更に拳ひとつぶんくらいの距離が埋まる。

 心臓の音が更に大きくなる。雨に濡れた森のむっとするような匂いのなかに、彼女の髪の香りがふわりと舞った。

 これだけ近いと、心臓の音が聞こえてしまわないか気が気ではない。ちらりと彼女のことを伺うと、もう少しで触れられるところにあるその肩がわずかに震えているのがわかった。

 こんな道を、いつもひとりで帰る彼女の姿を想像した。もっと早く勇気を出して、僕の方から声をかけておくべきだったと密かに後悔した。

 雨音と、風にそよぐ梢の音、そして僕と彼女の足音。いつまでもこのときが続いてくれないだろうかと感じずにはいられない。嫌われやしないかという不安も拭いきれないけれど、この状況に幸福を覚える気持ちもまた、はっきりと胸の中にあった。ずっと彼女と歩いていたい。そんな身の程知らずな望みを、宝物のように大事に抱え込んだ。

 昨日までの毎日を思い返した。この夢から醒めてしまったなら、またつまらない、味気ない現実に引き戻されるだけだ。決まったことを繰り返すだけの作業じみた毎日に、この幸せな気持ちすら埋没してしまう。このまま香澄ちゃんの手を取って、この退屈な日常から逃げ出してしまいたいという衝動に駆られた。

 ため息が漏れた。所詮そんなこと、僕にできるはずがないというのに。

 今のこの状況は、すでに充分すぎるほど奇跡的ではないか。これ以上過ぎた望みをしても、神様が許してくれるとは思えない。ランプの精霊でも、三回以上は願いを叶えてくれないのと同じように。

 だからこそ、せめてこの一瞬だけは、僕の人生に起こった数少ない奇跡の思い出として大事にしようと思った。それだけのことなら、神様だって許してくれるだろう。

 

 森の道をもうすぐ行けば別れ道にさしかかる。そこで僕の夢は終わる。

 香澄ちゃんの、その震える小さな肩を抱きしめたいという衝動をぐっと堪えた。彼女に拒絶されることの方が怖かった。それは何よりも恐ろしいことのように感じた。

 夢の終わりは本当に早い。特に、夢中になるほどの楽しいひと時は。香澄ちゃんが僕の顔を見あげる。この一秒後には、別れを切り出されることだろう。

「私はこっちだから。濡れちゃうだろうけど、気をつけて帰ってね」

「ありがとう、傘を借りられて助かった」

 そんな機械的なやりとりをかわしたあと、彼女は振り返ることなく帰っていく。僕は霧雨に彼女の姿が消えていくのを確かめてから、鞄を傘代わりにして家まで走る。幸せだった数分間を繰り返し思い出しながら。

 そうした心算をしながら、せめて別れを惜しむようにそっと、彼女に傘を返した。香澄ちゃんもそっと傘を握りしめる。それを確かめて、傘から手を離そうとした時だった。

「待って。私はこっちだけど、君はそっちでしょ? このままじゃ濡れちゃうから、家まで送っていくよ」

 思いがけない言葉に、僕は返す言葉を失ってしまった。ただ香澄ちゃんの、歩き出した時から変わらない笑顔を見つめることしかできなかった。きっとそのとき、僕は今までで一番呆けた顔をしていたことだろう。

 表情も取り繕えないうちに、彼女は僕の手を引っ張って歩き出した。香澄ちゃんの体温が握られた手から伝わってくる。それはすこしだけ暖かく感じた。その手はもう震えてはいなかった。

 ーーーこれは、夢なのだろうか?

 かろうじてそう考えることしかできなかった僕に、彼女が振り向いた。

「そういえば、君一人暮らしだったよね?」

 呆然と頷くと、香澄ちゃんは「ふうーん…」と、悪戯っぽい笑顔を向けてきた。

「一度行ってみたかったんだよねえ、男の人の一人暮らし」

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