18
梅雨が過ぎた。
雨ばかりの日々だったのが、まるで嘘だったかのように晴れの日が続いた。とはいえ、少し湿った空気はまだ残っていて、ジメジメとした感覚はしばらく肌にまとわりついていた。でも嫌な感じはしなかった。過ぎ去った季節を懐かしんだ。
駅前の、雰囲気の良いカフェのテラスに座りながら、気持ちよく晴れた夏の日差しを浴びた。目の前の樒ちゃんは、出会ったときと同じ白のワンピースに、鍔の広い白い帽子をかぶって、よく冷えたアイスカフェラテのストローを弄んでいた。女の子がよく夏に見せるような姿ではあるが、それをありがちな光景だとは思わなかった。樒ちゃんが元々備えている、どこか儚げな印象がそうさせるのか。彼女のことをぼんやり眺めながら、そんな詮のないことを考えた。
「何見てるの?」
言われて、慌てて視線を逸らせた。咎められたのかと一瞬思ったが、再び見た彼女の表情は笑顔だった。それもいたずらっ子のような、無邪気な笑顔。
「そうやって慌てるとこ、ちょっと可愛いね」
そんな風に言われるとなんだか照れくさい。にこにこと微笑んでいる樒ちゃんの表情を見れずに、視線を下に落とした。買ったばかりのスニーカーの横を、太った蟻がゆっくりと這っていく。何気ない夏の昼下がり。
「何考えてたの?」
言われてようやく、僕は彼女の瞳に帰った。
「あ、いや、この夏どこに行こうかなー…って」
半分嘘で、半分本当だった。樒ちゃんとどのように夏を過ごそうか、最近はずっとそればかり考えていて、そんな時間を幸福に感じていた。
しかし、真剣に考え出すとやっぱり答えに困った。夏といえば海やプール。せっかく夏を共に過ごせる彼女ができたのだから、水着姿を拝みたいというのは、健全な男子たるもの、抱かずにはいられない望みではないだろうか。しかし、目の前で肩をすぼめ、そろそろとストローを咥える彼女は、どう見てもアウトドア派には見えない。その白い肌が、強い日差しに長時間さらされて、無事でいられるとは思えない。
「映画もこないだ行ったしなあ…」
「うん、あれ、おもしろかったよね」
樒ちゃんはこちらの悩みなど知る由もなく、呑気に相槌を打った。そんなお気楽な笑顔を見ていると、そんなに真剣に悩まなくてもいいかと思わされる。もちろん、決してやる気を削がれるという意味ではない。結局彼女となら、どこに行っても楽しいだろう、という楽天的な思考になるのだ。どこへでも行ける。彼女となら。それはさながら、樒ちゃんと一緒にいることでもたらされる不思議な魔法のようだった。
「あの、樒ちゃんさ」
ならばと僕は、今回は自分の欲求に忠実になってみようと思った。
「海とか行ったことある?」
そして、彼女から返ってきた答えは、やはりというべきか、予想通りのものだった。
「…あんまりない、かな」
彼女にわからないようにしながら、僕は肩をすくめた。やはりその手の行楽地には縁遠いのだろうか、と再び頭を悩ませようとしていたら、樒ちゃんはこう続けた。
「やっぱりアウトドア派には見えないのかなあ…。誰も誘ってくれなかったな。本当は泳ぐのとか結構好きなのにな、私」
飲みかけたアイスコーヒーを吹き出しそうになった。
「そうなの?」
こう予想を裏切られるとは思いもよらなかった。おお神よ、感謝します。天に向かって祈りを捧げたい気分だった。僕の男としての積年の夢は、意外にもあっさりと叶うことになりそうだ。
「なによ、どうせネクラですよ。悪かったわね」
拗ねたようにぷいとそっぽを向かれてしまったので、僕は慌てて謝った。
「ほら慌てた。可愛いなあ」
またからかわれてしまった。男としての夢は叶うだろうが、男としてこんなキャラでいいのだろうか。
「…ま、いいや」
気を取り直そうとして、コーヒーとカフェラテのお代わりを注文した。店員さんに不思議そうな顔をされるのにももう慣れた。
「じゃあ行ってみる? 海」
樒ちゃんは満面の笑みで頷いた。
「でも…、友だち同士で海とか行ったことないから、水着持ってないなあ。実家にあるの、中学で使ってた水着だけだし…」
「ちなみにその水着って、どんなの?」
言って僕は、しまった、と思った。反射的に、間髪入れずに聞いてしまった。しかも少しだけ食い気味。予想通り、樒ちゃんは僕をすごく嫌そうな顔でじろりと睨んだ。
「…興味あるの?」
しかし、
「まあ、それなりにはs」
ここで引いたら男がすたる。そうではないか。嫌そうな視線がさらにそのレベルを上げたが、謝るのをぐっとこらえて反応を伺う。樒ちゃんはすごく言いにくそうに、というかすごく嫌そうに、
「…スクール水着」
「ありがとうございます」
口をついて出たのは謝辞だった。
「なんでお礼なの?」
樒ちゃんの不愉快そうな口調は変わらなかった。当然だ。
「いや、ごめん。…まあ、そんな水着を着てこられても確かに困るかな」
一応弁解しておくと、ただ聞いてみたかっただけで、僕にはそういうシュミはございません。
「…本当は?」
物凄く疑われてしまっている。これも当然というべきか。
「本当に困ります」
とりあえずきっぱりと否定を繰り返したら、樒ちゃんはようやく話題を戻してくれた。
「海に行くなら、水着買いに行きたいなあ」
「じゃあ」
なかば、先程の勢いに任せて、僕は提案した。
「一緒に買いに行く?」
すると、樒ちゃんの瞳がぱあっと輝いたように光った。
「え、いいの?」
呑気に微笑みながら僕は頷いたが、微かに嫌な予感も頭をよぎった。当然ながら女性と一緒に、女性の水着を買いに行くことなど、今まで経験したことはない。こういう場合、有村ならどうするのだろうと考えている間に、樒ちゃんは運ばれてきたカフェラテをいそいそと飲み干した。
気づけば僕らは、その日のうちにデパートへ向かっていた。
街にひとつしかないデパートだからか、売り場面積もかなり広い。こんなに大きなデパートに来るのはかなり久しぶり、というか小さい頃両親に連れられてきた以来だったので、僕の思い出は屋上に備え付けられた小さな遊園スペースにあった。ぼんやりと当時の思い出を振り返っていると、樒ちゃんにぐい、と手を引っ張られた。本当、普段はおとなしいのに、スイッチが入ると驚くべき行動力を発揮する子だ。
なかば引きずられるような格好で、水着売り場にたどり着いた。やはりシーズンとあってか、特設コーナーが設けられて、様々な種類の水着が所狭しと陳列してある。
当然ながら、僕に女性の水着の良し悪しが分かるわけもない。というかその種類が豊富なことにも、今になって初めて気がついた。スクール水着だけしかボキャブラリーになかった自分を恥じないわけにはいかない。ええっと、このトップとボトムが分かれたものが、ビキニっていうんでしょうか。
樒ちゃんはというと、興奮気味に水着売り場を歩き回っていた。年頃の女の子らしく、やはり可愛らしい水着に心惹かれるものはあるということだろう。ああでもない、こうでもないと悩みながら、ずらりと並べられた水着のハンガーをかき分けていく。
僕は、水着売り場の敷地内になるべき立ち入らないように、樒ちゃんの動向を監視することに注力していた。女性用の水着売り場の前に立っているだけでも、男の僕からすれば結構恥ずかしい。なるべくなら、樒ちゃんには早く目当ての水着を見つけて欲しいものだ。不審者扱いされて警備員のお世話になりはしないだろうか。
そんな僕のことなど意にも介さず選ぶこと約十五分後、ようやく樒ちゃんが戻ってきた。両手に数着の水着を抱えている。
「お待たせ。ちょっと着てみていいかな?」
こんなに目をキラキラさせながら言われると、「恥ずかしいから嫌だ」など口が裂けても言えないだろう。
幸い樒ちゃんが所持するものや身につけるものなどは、他の人には同じように透過されるらしく、今のところ店員さんがこちらを怪しんでいる素振りはない。できることなら早くその場をしのいでしまいたいという一念から、足早に試着室へと彼女を誘導させた。彼女がカーテンの向こうでごそごそとやっている間も、店員さんに気付かれないように細心の注意を払った。
しかし、カーテンが開かれた瞬間に、そんなことはすべてどうでもよくなった。
「…どうかな?」
少し恥じらうようにしながら、樒ちゃんは水着姿を披露した。それは予想を遥かに上回っていた。白い素肌と生地の色合いがとてもよく合っている。スタイルはかなり良い方だとは思っていたが、どんな水着を着てもとても魅力的に映るから、さながら妖艶とでも形容したくなる。僕の男の部分が、これでもかというほど執拗に刺激された。店員さんの動向をこそこそと伺っている余裕などない。このときばかりは、他の男に彼女の姿が見えないことに対して安心するとともに、非常に強い優越感で満たされた。
「…すごい、いい、です」
彼女が水着を変えるたび、そんな間抜けな感想しか言うことができなかった。あまりにも同じ反応、というか心ここにあらずという反応をしていたからか、徐々に樒ちゃんはむくれたような顔になってきて、
「本当にそう思う?」
と怒られてしまった。
「ああ、ごめんごめん、ちゃんと見てるよ。…ただちょっと、見惚れちゃってね」
そう言うと、少しだけ照れたように笑って、またカーテンの裏に消える。そして、そのうちの一着を再度来て姿を現した。
「これが一番好きかな…。ちょっと派手すぎる?」
南国の花たちがあしらわれたビキニ。確かに些か派手すぎるかとも思われたが、ハイビスカスの赤と、彼女の白い肌が織りなすコントラストは、これまでの中で一番見事だ。
「ううん、可愛いよ」
その反応には満足してもらえたのか、樒ちゃんがにっこりと笑った。水着姿でその笑顔を浮かべられると、本当に気を失ってしまいそうになった。
「ごめんね、買ってもらっちゃって」
当然ながら、自動販売機で飲み物を買うこともできない樒ちゃんが、これを自分で買えるはずもない。だから代わりに僕がこれをレジに持って行った。店員さんに思いっきり怪しまれたような気さえするが、その対価は先程十分すぎるほど拝ませてもらった。
「楽しみだなあ、海。彼氏と行くのなんて初めて。えへへ」
はしゃぐ樒ちゃんを、横目でただ眺めた。彼女の笑顔が好きだった。買い物袋を大事そうに抱えて、スキップするように軽い足取りで歩く彼女が好きだった。愛しさを覚えるたび、胸の奥が暖かくなる。その気持ちを抱きながら、彼女と手を繋いでいる時間が何より好きだった。
あの夜以来、僕らは一緒に歩くとき、並んで手を繋いだ。樒ちゃんはそれを喜んで、時折繋ぐ手をぎゅっと握る。僕も握り返し、ふたりで見つめあって笑うのだ。幸福な時間。夢のような時間。
いつも、あの石段を通るたび、彼女がずっと座っていた場所をちらりと見る。今はもう、そこには何もない。誰もいない。誰もそこに座って、悲しげに俯くことはない。
僕らは家に帰った。樒ちゃんはずっと僕の家にいて、今やそこが彼女の居場所。彼女が笑っていてくれる場所で、あの日の悲しげな彼女はもうどこにもいない。