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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 樒とは、マツブサ科シキミ属に分類される広葉高木の植物で、春になると白く美しい花を咲かせる。日本では仏花としてよく目にすることができる。

 あまり知られていないかもしれないが、全草に毒性を有する。その花の可愛らしさや香りなどからは想像もつかないことだったので、僕も最初知ったときにはとても驚いたものだ。

 花言葉は「甘い誘惑」。僕も香りに誘われ、毒に倒れる鳥なのだろうか。目の前にいる樒ちゃんと相対しながらそんなことを考えた。

 電気を消した薄暗い部屋。差し込んでくる月明かりだけに照らされた部屋は思ったよりも不安定だった。すこし刺激を与えただけで、その存在が消えてしまいそうなほど、どこか朧げな雰囲気。

 そこが僕らの世界、僕と樒ちゃんがいる世界だ。そう思うことにした。窓一枚隔てた現実の世界、そこはひどく安定していて、その絶対さを残酷に感じることもある。形あるもののみがそこにいられる。それ以外は排除されなくてはならない。煙草の煙のようなものだ。白く立ち上った煙は、果たしてどこに吸い込まれてゆくのだろう。


 たとえば思い出。あるときは容易く人を崩壊へと誘うくせに、またあるときは生きる糧にすらなる。けれどその存在は不明瞭に過ぎて精彩を欠いているように思えてならない。容易く思い出され、容易く塗り替えられる。そしていつしか、記憶の片隅に埋もれてしまうのだ。僕は今までどれくらいの思い出を葬ってきたのだろう。そして、目の前の彼女はどうか。

 僕らは暗闇のなかで、無言のまま呼吸をした。何も言わなかった。意思だけが歪な世界を這っていた。あるいは浮遊していた。僕らはそれを吸って生きていた。確かに生きている。この世界において僕らは確かに存在している。疑念の余地はない。

 紺色のワンピースは、暗闇の中にあって取り去られたことを意識させなかった。視界が暗順応するにつれて、その白い肌が浮かび上がってくるのがわかった。美しい肌。この世のものとは思えない白。しかしそこに不気味さなどはちっとも感じなかった。かすかに赤みがかっているように思えた。その白は確かに呼吸をしている。脈打っている。

 僕の視線から、樒ちゃんは逃げるように身を引いた。腕で身体を覆い隠すようにする。視線は恥じらうように、下の方で止まっていた。息遣いが少し荒い。戸惑うように。覚悟を決めるかのように。

 その視線がゆっくりと上がっていき、やがて僕の瞳に据えられる。暗い中でも、その瞳が揺れているのがわかった。光は水面の星のようにゆらゆらと明滅する。その瞬きが僕に幻を見せた。かすかな幻を。その幻は僕を夢の世界へと誘うのだった。

 腕がだらりと下げられ、上半身のすべてが露わになる。その身体を抱きしめた。僕らは肌と肌で、お互いの鼓動と脈動を感じた。呼吸がそこに絡み合って、心地よいリズムが生まれた。

 掌から伝わってくる体温。それは確かな温もりを伴って、僕の中に流れ込んできた。偽物じゃない、それは人の温度。彼女は本当に死んでいるのかと疑った。しかしそれは詮のないことだと、すぐに考えることをやめた。この狭い、六畳一間の世界の中では、そんなことはどうでもいいことだった。些事に過ぎなかった。彼女の体温がそのことを思い知らしめた。それだけが僕が掴んでおくべき真実だった。

 キスをした。生まれて初めて、脳が痺れる感触を味わった。目を閉じた先は感覚の世界だった。まったくの暗闇、視覚を必要としない世界だった。思考が緩み、ただ本能的に、彼女の舌先の動き、息遣い、その感触と、全体に広がる暖かさに意識が集中された。

 僕は彼女に触れた。声が静寂を一瞬だけ破る。空気が変ホ音に揺れた。メロディだけが耳の中をくすぐった。そのまま奏で続けられる音楽。不確かな歌声。

 彼女の指が僕を撫でる。なぞる。その手つきは執拗とも淡白とも言える動きだった。その中間を穿っていた。包み込まれるような感触もまたそうだった。

 体温を感じていた。温度に身を任せた。脳はずっと痺れっぱなしだった。意識だけが身体を離れ、どこか遠くの方を漂っている。感覚は身体に残されたまま、鳴り止まない音楽と、絶え間ない暖かさに浸っていた。

 やがて、僕らは身体をぴったりとくっつけた。目を開くその視界の真ん中で、彼女の潤んだ瞳がゆっくりと閉じられるのを見た。もう一度、彼女の唇に触れた。より感覚的な世界の中だったが、何をするべきかが明確に分かっていた。生まれて初めて味わうことのはずなのに。僕は本能的にこのことを知っていた。

 ひとつになる瞬間、彼女が痛みに喘ぐ声が耳をつんざいた。僕が驚いて身を引こうとするのを彼女は嫌がった。彼女は歪な笑顔を浮かべた。涙の筋がこめかみを伝い、髪を濡らした。髪を撫でた。彼女の小さな頭が頷くかのように、かすかに動いた。

 僕はもう一度、彼女に応えた。世界に音が戻った。今までにないほどの美しさを伴った旋律だった。僕は彼女のすべてを感じていた。そして彼女も、僕の全てを飲み干そうとしている。


 答えがわかったような気がした。

 あのとき、いつかに離れたあの子と過ごした夜。あの夜に欲しかった答え。それはこのことだったと確信した。今僕らを取り巻く全て。

 旋律、感触、呼吸、体温。

 それらすべてが僕の胸の中で渦を巻き、何よりも明確な答えを浮かび上がらせたのだ。

 確かな安心感。こんな自分でも、赦されているんだと思わされる絶対。

 樒ちゃんの体温が上がっていた。何よりも暖かな感触が、僕の全身を血液に乗って駆け巡っていった。

 愛を囁くのは照れ臭い。お決まりのセリフではなく、誰かの言葉を借りるでもなく、僕は自分の言葉を、彼女に囁いた。あの展望台で、彼女が最後に言った言葉を。

 樒ちゃんがまた、かすかに笑った。繋がれた手が、ぎゅっと強く握られた。その感触はいつまでも、今になっても、永遠に記憶されている。

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