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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
17/30

16

 それから帰るまでの間、僕らは一言も口をきかなかった。

 樒ちゃんはずっと俯いていた。時折探るように僕の方を見るが、僕がそちらを向くと、慌てて視線を伏せた。そんな樒ちゃんに、何と声をかけるべきなのかわかるはずもない。

 僕は黙ったまま、電車の車窓から夜の街を見ていた。そうやって気を紛らわせていないと落ち着かなかった。差し掛かった繁華街の、煌びやかなネオンが流れては遠のく。遠くの方で高層ビルの明かりが明滅している。飛行機の赤いライトがゆっくりと横切っていく。それらすべてがまるで現実味を欠いて見えた。決して壊れないガラス越しに、手の届かない世界を見ているかのようだった。車窓に映る自分の顔が、その印象をより強めていた。

 やがて、電車は僕らの住む街へと帰ってきた。見慣れたはずの景色を眺めても、自分がどこか、世界から隔絶されているという印象は拭えなかった。どこか微妙に違って見えた。歩き慣れた帰り道を見渡してみても、ついにその感覚が消えることはなかった。

 歩きながらもう一度、樒ちゃんのことを見る。隣にいるはずなのに、そこに存在しているはずなのに、他者に認識されない女の子。一体この子は何者なんだろう?

 そもそも君は、本当に「存在」しているのだろうか。


「…ここです」

 不意をつかれた。樒ちゃんは急に立ち止まり、言葉を発した。そしてたおやかに、細い指で前方をさした。指差した方を僕は向くしかなかった。そしてはっとした。

 気がつけば、僕らはまったく意図していなかった場所に来ていた。そこは、この小さくて静かな街と景色が一望できる、寂れた展望台だった。

 この街で暮らし始めた頃、一度だけ来たことがある。街の全景を把握しておきたかったからだ。そのときは周りにカップルがたくさんいたので、三分と眺めることなく帰ってしまったのだけれど。

「ここが…?」

 意を決した。彼女に問いかけた。問いかけないわけにはいかなかった。その事実から目を背けるわけにはいかない。しかし樒ちゃんは、僕の視線から目をそらし続けていた。聞こえるか聞こえないかわからないほどの、今にも消え入りそうな声で、彼女はその問いに答えた。

「私が、死んだ場所」

 空気が一瞬、ぴんと張り詰めた。緊張を孕んだ。しかし僕はみっともなく動揺したりはしなかった。僕は心のどこかで、その事実を予測していた。

「死んだ…?」

 しかし声は震えていた。隠そうとしても隠しようもなく、ただ震えていた。

「どうして?」

 樒ちゃんは僕を見据えた。大粒の涙が一筋、頬を伝って落ちるのを見た。

「…大好きだったんです」

 どこかで聞いたことのある言葉だと思った。しかしもう、誰のことも思い出したりはしなかった。樒ちゃんのことだけをずっと見ていた。その背後には誰もいなかった。

 彼女はたどたどしく、弱々しく語る。失った恋と、自らの命を絶ったことについてのすべてを。

 話す間も、涙の粒は間断なく、その頬を伝って落ちた。大声で泣きださないことが奇跡のように見えた。彼女は涙をこらえている。辛うじて決壊するのを封じている。

 それが、どれほど辛く、悲しいことかを、僕は知っている。

「誰も私を見つけなかった。ただずっと階段に座って、それでいいと思っていました。でも」

 僕は溢れる涙をただ見ていた。地面にできる涙の染みを数えた。

「あなたは、私を見つけました」

 最後の一粒が落ちて、樒ちゃんは踵を返した。僕に背を向けた。

「今日は本当にありがとうございました。本当に、本当に本当に、楽しかったです。自分が死んじゃってることも忘れちゃうくらいに…」

 涙まじりに息をつき。しばらく沈黙。最後の言葉を告げなくてはならない。しかしその決断ができない。

 所詮、私とあなたとでは、住むべき世界が違う。いるべき場所が違う。見つめるべき相手が違いすぎる。残酷なまでに。凄惨なほどに。それを思い出してしまった。

 あんなに楽しかったのに、思い出してしまった。

「…だから、私のことはもう、忘れてください」

 僕は呆然と、樒ちゃんの後ろ姿を見ていた。歩き去っていくその背中を。その周りのものはことごとく見えなくなった。森や草や、街頭の光や、夜空の星も、街の明かりさえも。世界に存在するすべてが、僕の視界から後退した。彼女のことだけしか僕には見えなくなった。

 もう、失いたくなかった。

「…いやだ」

 その背中に向かって走った。そのまま華奢な身体を抱きしめた。強く抱きしめた。このまま折れるんじゃないかっていうくらいに強く。

 樒ちゃんは苦しそうに、呻いた。震える声、痛々しい響きだった。しかしそんなものに構うことなく、僕は言った。

「ほら、触れるでしょ」

 彼女の身体が、はっとしたように強張った。僕はそのまま続ける。

「触れるし、声も聞こえる。他の奴がどうだとか知ったことじゃない。僕には君のことが見える。だから今日みたいに、僕と一緒にどんなところだって行けるじゃないか」

 僕はちらりと、足元を見た。樒ちゃんが立っていた場所。涙が落ちた地面を見た。

 涙の染みはまだそこにある。つまりそれは、世界が彼女の涙を認識していたということだ。樒ちゃんがそこにいるという事実は変えられない。何者も否定することができない。否定などさせるものか。

「だから、一緒にいればいいんだ」

「…でも」

 樒ちゃんは身体に力を込めた。僕のことを振りほどこうともがいた。

「私はもう死んでいるんです。この世界のどこにも居場所なんかありません」

 自分の居場所。いるべき場所。住むべき世界。あるべき役割。

 そんなもの、誰が決めた?

 そんなもの。

「だったら僕が居場所になるよ」

 もがく動きがぴたりと止んだ。筋肉が緊張から解かれ、柔らかい感触が戻ってくる。長い沈黙が流れた。やがて、樒ちゃんの身体が、小刻みに震えだした。

「…やめてくださいよ」

 聞こえるか、聞こえないかのぎりぎりの、か細い声。それが大きな叫びに変わった。僕の腕を振りほどき、大粒の涙を湛えた瞳が、正面から僕を睨みつけた。

「優しくしないでください! 私は死んでて、あなたは生きてる。それがどれほど違うことかわからないわけないでしょう?」

 それは大いなる差違で、

 明白な相違で、

 絶対的な違反で、

 やっちゃいけないこと。

「全然違うんですよ。何もかもが全然違う。それなのに、一緒にいられるわけがないんですよ。残酷なんですよ。そんな根拠のない、ただの優しさなんて、残酷なだけです」

 拒否をしなければ。

 だって、いけないことだから。

「やめてくださいよ…」

 抱きしめていた腕を解いた。よたよたと、樒ちゃんは僕から遠ざかった。

「あなたが居場所であって、いいことなんてないです」

「僕も今日、とっても楽しかった」

 一歩、彼女に近づきながら言った。

「本当はね、君を誘ったのは勢い任せだったんだ。最初はすごく変な子だと思ったよ。全然喋らないし、ずっと下向いてるし。雨の日だっていうのに傘もささないでさ。死んでるっていうならそれにも合点がいったけどね」

「…何を言って…」

 樒ちゃんの言葉を遮るように僕は続ける。

「全然喋らないからさ、一緒に遊園地に行っても、たぶん全然楽しくないと思ったんだよね。だから正直、行く途中は気が重かったし、待ち合わせ場所にいるかどうかも疑わしかった。でも、入るなりいきなりはしゃぎ出すから、本当にびっくりしたよ。本当、別人なんじゃないかと思った。あ、ジェットコースターはやっぱり僕、結構苦手だ。君がすごい楽しそうにしてたから、言うタイミング逃しちゃったんだけど」

「何を言ってるんですか…?」

 心底わけがわからないという風に、樒ちゃんは僕に問いかけた。ひどく不安げな表情をしていた。しかし僕は構わず続けた。

「実はね、つい先日のことなんだけど、僕もひどい失恋を味わった。こっぴどくフラれてしまった。昔の男が忘れられないって言われた。僕の価値を全部否定されたような気分になった。だからいっそ、僕なんかいなくなってしまおうかって考えたよ。バイトを何日も休んで、死人みたいに過ごした。もしかしたら、一回くらい本当に死んじゃってたかもしれないね。でももし、こんなことがあったからこそ、君のことを見つけられたのなら、それは悪いことじゃなかったのかなって、思えたりもする」

 樒ちゃんの言う差違。

 樒ちゃんの口にした拒絶。

 それもよくわかる。優しさなんて、根拠がなければそれほど残酷なことはない。

 しかし、それならばと僕も口に出して言う。

 僕の相違。僕の拒絶。

 君といられないということを、君がいないこの現実を、精一杯拒んでやる。

 否定してやる。

「今日のことは僕の大事な思い出だ。これからもずっと忘れないだろう。そして今言ったことは僕の過去だ。忘れたかった辛い過去だ。最初はその面影を、君に求めていたのかと思ったけど、違ったんだ。僕は君の存在だけを見つめていたい」

 樒ちゃんは、もう反論してこなかった。何も言わなかった。ただ目を伏せ、俯き、肩を震わせていた。

「君の辛い過去を、忘れさせることはできないかもしれないけど、それを少しでも忘れられるくらい楽しい時間を今日過ごすことができたっていうなら、僕がそばにいたいと思う。君がその思い出を忘れられるときまで、ずっと一緒にいたいと思うんだ」

 そして、少しだけ言葉を切った。煙草が吸いたいと思ったけど、今は少し我慢する。

「それでも、僕と一緒にいたくないって言うんなら、仕方ない。生きてるとか死んでるとかそんなことは抜きにして、本当の気持ちが聞きたい」

 今喋ったことは、全部自分の本心。僕が今まで、自分の人生の中で、ずっとさらけ出すことを恐れ続けてきた、一番弱い部分だった。そんなことを無防備にさらすことは、かなりの勇気を必要とした。

 でも、これだけは伝えたかった。伝えなければならなかった。彼女のために。そして何よりも、自分自身のために。

 樒ちゃんは下を向いたまま、ぼそりと、か細い声で呟いた。

「…嘘つき」

 そしてそのまま、僕の胸へと飛び込んできた。決して厚くない胸板に顔をうずめる。

じわり、と、暖かい感触が胸に広がった。樒ちゃんの体温。涙の温度。

「喋るの苦手とか言って、よく喋るじゃないですか…」

「うん、結構無理した」

 何気なくそう言ったものの、心臓の音は先ほどよりも大きくなっている。大人ぶっておいて、情けないところは最後まで見せたくないものだ。

 しばらくそうして、僕は樒ちゃんの肩を抱いていた。樒ちゃんは涙をこらえることなく、気がすむまで服を涙で濡らし続けていた。

 そして顔をあげる。迷子のようだった目も、不安げな表情も、もうそこにはなかった。涙に濡れた笑顔があるだけだった。

「…一緒にいたいです」

そしてもう一度、顔を埋めた。

「あなたと一緒にいたいです」

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