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売店にいた女の人は、営業用とは思えない笑顔で「お待たせー」と微笑みながら、僕にふたりぶんのソフトクリームを手渡してくれた。
樒ちゃんは目をキラキラさせながらソフトクリームを受け取る。本当に、一番最初に会ったときとは驚くほどキャラが違うなあとぼんやり考えながら、こぼさないようにがんばる彼女の姿を見ていた。
「ソフトクリームなんて、久しぶりに食べました」
微笑みながら、僕にそんなことを言ってくれる。口数も、今日一日で随分と多くなった。最初の頃は、それこそ何も喋らない子なのかと心配したものだったが、遊園地にはそんな子の心でも開かせるような魔力があるのだろうか。
「さすが夢の国、といったところなのかな」
きょとんとした表情で樒ちゃんが僕の顔を覗き込む。
「ううん、何でもないよ」
「結構独り言、多い方なんですね」
う、と僕は言い淀む。
「そんなこともないよ。普段はどっちかというと喋らない方だから」
樒ちゃんはそれについても、やけに不思議そうな顔をする。
「うーん…、そんな風には見えないです」
確かに、今日に限って僕は随分とよく喋るような気がする。樒ちゃんは大人しそうなタイプだと思っていたので、そのぶん自分が喋らないと、という事前準備は確かにあった。僕はそもそもそんなに一人でぶつぶつ呟くようなキャラじゃなかったはずなのに。
「ごちゃごちゃと一人で考え込んじゃうから、独り言は確かに多いのかな」
そういうと、樒ちゃんはにっこりと微笑んで、「そんな感じです」と言った。どうやらその辺に関しては、あまり気にしていないようだった。楽しそうにソフトクリームを一口食べた。
僕もソフトクリームを舐めながら、途中で手に入れておいたパンフレットを開いてみた。敷地内の案内図が大きく描かれ、それぞれに注釈で催し物の案内が書き添えられていた。それを順繰りに眺めてみる。
「お」
僕の目を引いたのは、今いるこの広場の案内文だった。やけにだだっ広い広場だとは思っていたが、どうやら日が暮れてから、ここをパレードが通るようだ。遊園地にありがちといえばありがちなのだろうが、そんなものは久しくお目にかかっていないため、どういったものかはちょっと興味がある。
時計に目をやり、次に空に目を移す。気がつかなかったけれど、どうやら結構長い時間ここにいたようで、空は夕焼けの赤が濃くなっている。このぶんだと日暮れももう近いのだろう。
「なんか、パレードがあるみたいだよ。日が暮れてかららしいから、もうすぐっぽいね」
「そうなんですか?」
樒ちゃんはちょうどソフトクリームを食べ終えたところらしく、そのままパンフレットを覗き込んだ。そのときに、髪が僕の鼻先をかすめた。距離が縮められるその瞬間に少しどきりとした。
「見てみたいです!」
僕は少し高鳴った胸をさすりながら頷き、このままパレードの始まりを待つことにした。
「今日は本当にありがとうございました」
不意に、樒ちゃんは急に改まった様子で僕の方に向き直った。
辺りを見渡せば、僕らと同じようにパレードを待つお客さんたちが次第に集まりつつあった。小柄な樒ちゃんが見えやすいように、良さそうな位置に移動する。
「いいえ、こちらこそ。僕も楽しかった」
勢いで誘ってしまったので、今日は本当にどうなることかと思ったけど。樒ちゃんは僕から視線を外して、遠くを見るような目になった。
「遊園地って本当に久しぶりでした。最初は私なんかが楽しめるかどうかわかんなかったですけど…」
何だか含みのある言葉に、僕は少し訝しんだ。「私なんかが」という卑下したような言い方に違和感を覚えたのだ。
「でも今日は、本当に、何もかも全部忘れちゃいそうなくらい、楽しかったです」
そう言って微笑むけれど、今日一日見てきた笑顔とは何かが微妙に違った。無理して笑っているような感覚を覚えた。毎晩のように、石段に座っている彼女の姿が不意に思い起こされた。きっと何か辛いことがあったのだろうか。
しかし、そんな辛い出来事も、今日は忘れることができた。そう言ってくれるのなら僕も嬉しくなる。僕も彼女に微笑みを返した。
「また遊びに来よう」
そのときに見た彼女の瞳を、今でもまだ忘れることができない。
ぱっと輝き、しかし次の瞬間、とても悲しいことを思い出したように暗く翳り、そして、探るような、迷うような視線になった、その瞳を。
どうしたのだろうか。僕が樒ちゃんに何かを言おうとしたとき、背後から声をかけられた。
「あれ、先輩じゃないですか」
振り向くと、そこには有村が立っていた。ぴったりと寄り添っているのは彼女だろうか。いかにもギャルっぽいような髪の色と派手な服装。ヒールを履いているからか、有村より少し背が高く見えた。僕にとってはお近づきになれそうにないようなタイプではあったが、有村が僕を紹介したときに微笑んでお辞儀をしてくれたので、存外礼儀正しい子なのだろう。
「何やってるんですか? こんなところで」
別に悪いことをしているつもりはなかったが、不意に知り合いに会うと、この状況を説明するのに非常に困る。たじろいてしまう。知らない女の子を伴ってこんなところに来ているという状況をどう釈明したらいいものか。「夜道で出会った女の子と、勢いで遊園地に来た」と事実だけを列挙した場合、とんでもない汚名を着せられそうな気がしてならなかった。それだけは何としても避けなければ。
「いや…あの…」
しかし、ここで下手に嘘をついたりするよりは、うまく表現をぼやかして、説明を曖昧にしておいたほうがいいのではないだろうか。嘘もつかず、かといって真実を語るでもなく。何とかその方向へシフトしようと思考を切り替える。
「ほら、遊園地のチケット、買ってただろ? それでちょうど予定が空いてたこの子と…」
そう言うと、有村は不思議そうな顔をした。横を見ると、有村の彼女も怪訝そうな顔で僕を見ている。今僕が言ったことが理解できない、とでも言いたげな表情だ。
言い方を間違えたのだろうか。そう思って、何か別の言い方で説明しようと考えていたとき、有村が口を開いた。
「何言ってるんですか先輩?」
有村はきょろきょろと周囲を見渡し、言った。
「この子って…。一体誰と来たんですか?」
一瞬、有村が何を言ったのか理解できなかった。奇妙な匂いを放つ沈黙が一刹那だけ流れた。
「え?いや、だから、この子とだよ」
そう言って、樒ちゃんの方を見た。そして、彼女が浮かべるその表情を見た。
今日一日、僕に向けてくれていた笑顔は跡形もなく消えている。そこにあるのは、あの雨の夜に石段に座っていた、物憂げに沈む女の子の表情。深い悲しみを湛えた表情。虚空を見つめるように俯く視線だった。
僕は奇妙さを覚えた。何かとても嫌な感じがした。樒ちゃんにも感じたし、有村と、その彼女にも感じた。
何かが決定的に食い違っている。僕と彼女たちとでは、まるで見ている世界が違うとでも言うように。
とどめを刺したのは、有村の、いつもと変わらないような口調で放たれた一言だった。
「誰もいませんよ」
背筋を凍った指でなぞられたような感覚が全身を駆け巡った。頭が回らない。混乱しているのが自分でもわかったが、体が、思考が、自分の思い通りに働いてくれない。
こいつは一体、何を言っているんだろう?
「はぐれちゃったんですか? 親戚の子か誰かですか?」
「やばいよ、人混みの中で迷子になっちゃったのかも。案内所がすぐそこにあったから、そこに行ってるのかも」
有村と、その彼女が口々に言う。しかし僕の頭は、ひとつとしてその言葉を理解できなかった。こいつらは一体どうしたというのだ。
そして、なぜ樒ちゃんは何も言わない? 完膚なきまでに混乱し、どうしたらいいかもわからないまま、どうしようもない気持ち悪さに支配された。そんな精神状態の中、流れ落ちる冷や汗をそのままにして、僕は辛うじて、こう言った。
「あ、ああ…。そうだな、はぐれちゃったみたいだ。ちょっと探してくるよ」
そう言うことしかできなかった。そして、立ち尽くす樒ちゃんの手を握り、逃げるようにその場を立ち去った。樒ちゃんは僕に引っ張られるようにしていたが、遊園地の出口を抜けてからは、手を離し、黙って僕の後ろをついてきた。
背後から、パレードの軽快な音楽と、人々の嬉しそうな歓声が追いかけてきた。さっきまでそこにいたはずなのに、それがどこかまったく別の世界の出来事のように感じられた。