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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 荒れ放題になった部屋の掃除には三日ほどを要した。食べ散らかしたカップラーメンの容器は何だか変な色になってきていたし、灰皿には吸い殻が山のように重なり、こぼれた何本かが床を汚していた。怠惰を絵に描いたような状態に嫌気がさした。自己嫌悪に陥るが、なぜかあまり悪い気はしなかった。

 ようやく、正常な精神状態に戻ってきたということだろうか。窓を開けると、湿った風が髪を揺らした。そういえば、髪ももう長いこと切っていない。手入れの行き届いていないぼさぼさの髪の毛を指先で弄んでから、美容院の予約を取るために携帯電話を手に取った。


「でもよかったわ、元気になってくれて」

 そう言ってくれたのは、バイト先の店長の奥さんだった。下げられた食器を洗っているときに、何気なく言ってくれたのだ。

「休んでたときは、このまま死んでしまうんじゃないかって、皆で心配してたのよ」

 有村も確かそんなことを言っていた。やはり少し大げさだとも思ったが、それほど心配をかけていたということだろう。何だか申し訳なくなって、僕はその優しい目から視線を逸らした。

「すみません、こんなことで心配かけてしまって」

そう謝ることしかできなかったが、それでも奥さんは笑ってくれた。

「いいのよ。恋愛なんてそんなものだもの。それだけあの子のことを好きだったってことなら、それもいい経験になったと思うわ」

 奥さんと僕の、親子ほど離れた年齢の中には、きっとたくさんの経験があったのだろう。優しく微笑みかけてくれるその瞳は、一体何を見てきたというのだろうか。

 そんなことを思い出しながら、荒れた部屋の掃除を続ける。シーツを布団からむしりとって洗濯にかける。いつもは面倒くさくてしないようなことも、この際なので全部やっておくことにした。清々しい気分といえばいいか。別に誰かが部屋を訪れることももうないのだが、身を清める作業のような気がしたので、ひとつ綺麗になると別の汚れが気になってくる。しばらく雨は降らない予報になっていたので、洗濯も捗るだろう。


 樒ちゃんとの約束の日。僕は髭を剃り、短くなった髪を丁寧に撫でつけた。そして、かつてあの子と初めてデートしたときと同じ服装で、あのときと同じように鏡の前に立った。

 なんだか随分痩せたような気がした。髪を切ったせいか、顔がいつもより小さく見える。貧相とはさすがに思わなかったが、以前の頼りなさのようなものは残念ながら元に戻りつつあるのだろうか。

 少し、待ち合わせに向かうのが億劫になった。今まで夜に会ってばかりだったので、昼間会うのはこれが初めて。お互いの表情もよく見えるから、こんなにひ弱そうな奴だったかと幻滅されてしまうかもしれない。やはり臆病な自分が戻ってきつつある。こんなことなら、あんな突発的な誘いなどしなければよかった。

 それでも、約束してしまったのだから仕方ないと諦め、僕は鏡の前の自分から意識を逸らした。道を歩く間も、ダメで元々、どんなに幻滅されても仕方ないと、ある意味で自分を奮い立たせながら待ち合わせの場所へ向かった。

 樒ちゃんは、やはりいつものように、長い石段の途中くらいのところに座っていた。

 服装が少し変わっている。今日は白ではなく、薄い紺色のワンピースを着ていた。長い黒髪をポニーテールにしている。化粧はしていないようだったが、むしろ若い娘らしく、あまり気にならなかった。夜に見たときよりも、幾分か切なさは消えていた。可愛らしい印象が勝っていた。

「お待たせ」

 僕がそう声をかけると、弾かれたように勢いよく顔を上げた。元気そうな印象がないだけに意外な反応だった。笑顔ではなかったが、柔らかい表情で僕を見ている。どことなく、安心したような表情だった。それも日の光の影響だろうか。

「じゃあ、行こうか」

 そう言っても、なぜか樒ちゃんは立ち上がろうとしなかった。表情が少し翳り、どうしようかという表情で下を向く。どうやらすごく内向的な女の子のようだ。僕もどちらかといえば内気な方だが、これほどになるとさすがにどうしたらいいかわからなくなる。

「ほら、行こうよ」

 僕は手を差し出した。普段なら恥ずかしくてできない行動なのだろうが、大人しい樒ちゃんに合わせていると日が暮れてしまいそうだ。樒ちゃんは、やはり恐る恐る手を伸ばし、僕の手にそっと触れた。雨の夜のときよりも、幾分か暖かい手。小さい手。柔らかな手だった。

 その手を握り、僕は引っ張り上げるように手を引いた。決して乱暴にならないようにしたつもりだったが、彼女の身体は、予想していたよりもずっと軽かった。羽が舞うようにスカートをはためかせ、彼女はその場に立ち上がる。

 見ると、彼女はとても驚いたような表情を浮かべていた。まるで下半身が不自由だった子が、生まれて初めて立ったときのような。きっと僕の力が思ったよりも強かったのだろう。頼りないと思われていたと仮定すると、意外な一面を見せることができたかもしれない。ちょっと嬉しいような気持ちになったが、もしかしたら力が強すぎて腕が痛かったかもしれないという心配が頭をもたげた。

「あ、ごめん。腕、痛かった?」

 とっさに謝ったが、樒ちゃんは即座に首を振って否定する。それならよかったと胸を撫で下ろした。

「じゃあ、行こう」

もう一度言って、僕らは歩き出した。階段を降りる間、僕は樒ちゃんの手を取ったままでいた。あくまで紳士的な行いを心がけたが、それは果たして成功していたのだろうか。


 遊園地は僕の住む街から少し離れた郊外にある。電車を二、三回乗り継いで一時間ほど。小さい頃に一度だけ、その遊園地ができる前の場所を通りかかったことがあったが、開発前の空っぽの空き地が広がっているばかりだった。ちょっとした工業地域の跡地だったらしく、あちこちに汚い色の水たまりや、錆び付いたドラム缶などが無造作に放置されていたことを覚えている。

 だから、遊園地に着いてから僕が受けた印象は、だいぶ様変わりしたなあ、というその一言に尽きた。

 あんなに味気ない、荒涼とした風景が広がっていたはずなのに、今僕らの目の前には、色とりどりの風船や、愛想を振りまくマスコットキャラクターの着ぐるみ、そして笑顔を浮かべてチケットを買い求めるたくさんの人々で溢れていた。

「兵どもは夢の跡、か」

それはおそらくこの場面に相応しい引用ではない、とあとになって思った。隣の樒ちゃんが少し怪訝そうな顔で僕を見る。

「あ、なんでもないよ。ええっと、入場口は…」

 くしゃくしゃになった二人分のチケットをポケットから引っ張り出すと、樒ちゃんを連れ立って入場口を目指した。受付をしてくれたお姉さんは、チケットを提示すると不思議そうな表情で僕らのことを見た。

 なんだか急に恥ずかしい気持ちになった。きっと僕のような冴えない男が、樒ちゃんのような綺麗な女の子を連れて遊びに来るなどあまり見たことがないのだろう。月とスッポンを絵に描いたようなふたりだと、心の中でほくそ笑んでいるのかもしれない。

 しかし、そんなことに構っている暇はなかった。なぜなら受付のお姉さんに僕がチケットを渡すや否や、樒ちゃんはすぐに入場口を抜け、脱兎のごとく走り出したからだ。突然のことに面食らった僕は、何か言いたげにしているお姉さんをそのままに、樒ちゃんのあとを追った。

 なぜいきなり走り出したのだろう。あんなに大人しい子が、いきなり全力疾走するとはちょっと予想外に過ぎた。走るスピードも何だか予想以上に速い。ようやく、しばらく行ったところの広場で立ち止まっている樒ちゃんに追いつくことができた。

 樒ちゃんは肩で息をしながら、僕のことなど気にもかけず、ぐるりと周囲を見渡していた。遊園地の建物やアトラクションを丹念に眺め、そしてようやく、息を切らせる僕に振り返った。

 その顔に浮かぶ、溢れんばかりの満面の笑顔。開放感と高揚感を隠しきれないと言わんばかりの表情だった。笑っているときの樒ちゃんを見たのはこれが初めてだった。当然というべきか、笑顔でいるときのほうが何倍も素敵だった。

 僕も微笑みを返す。自分でもわかるくらいの温かい感情に満たされた。いつぞやに感じた感情にとてもよく似ていた。それに少し懐かしさを感じた。

「…行こっか」

 樒ちゃんが笑顔のまま頷くのを確認して、僕らは並んで歩き出した。


 実をいうと、遊園地という場所に来るのは、そもそもあまり気が進まなかった。感情を外に曝け出すのは、やっぱりどうも苦手だ。周囲で楽しそうにはしゃいでいる人々を見ると落ち着かない。周りと同じように、気兼ねなくはっちゃけることができないので劣等感を感じてしまう。同じように、カラオケだったりゲームセンターなどにも行くのが苦手で、極力そういうところへ行くことを避けて生きてきた。有村などはゲームセンターが大好きなので、よく誘いを断ってはぶーぶーと不平を言われたものだ。

 だから、遊園地へ行こうと思ったのは、自分の中でも相当にがんばった末の決断だったといえる。

 だから、目の前で嬉しそうに歩く樒ちゃんを眺めながら、またも僕は憂鬱な気持ちに陥りつつあった。どう楽しんだらいいものか。どう楽しめば、樒ちゃんもまた喜んでくれるだろうかともやもや考えた。さっき見せてくれた、あの輝くような笑顔を消したくはない。つまらない思いをさせたくない。そう思いながら、敷地内をあてもなく歩いた。

 そのとき、ぐい、と袖が引っ張られた。樒ちゃんが目を輝かせて僕の顔を見上げている。何かと思って、指さす方向へ目を向ける。

「…うっ」

 そのとき、頭上から大きな音とともに、たくさんの人たちの悲鳴が聞こえてきた。ジェットコースターが空中で一回転し、スピードを落とすことなくそのまま次の一回転へ。見ているだけでもぞっとする光景がそこに広がっていた。

「…まさか」

 あれに乗るんですか、と言い終わるのも待たず、樒ちゃんは僕の腕を引っ張ってアトラクションに押し入った。どうやら普段は大人しいが、一度スイッチが入ると猪突猛進、暴走してしまうタイプらしい。まったく想像すらしていなかったキャラ変更っぷりにかなり戸惑いながら、ジェットコースターの座席に座る。胸の前にえらく頑丈なバーが下りてきて、そのままがっちり固定される。振り落とされることもないだろうが、これでは逃げることもできない。

「あの、ちょっと待って!」

 僕は情けなく悲鳴を上げた。僕らを乗せたジェットコースターは、不気味なほどゆっくりとしたスピートでレーンを上昇していく。呼吸が荒ぶって、心臓が爆発寸前までビートする。これからわが身に起こることを考えると恐怖しかない。身震いがして、このまま失神でもしてしまいそうな気分になってくる。

 ついに意識が朦朧としてくる。その中で、辛うじて樒ちゃんの顔を見ることができた。たまらないくらいワクワクしているといった表情で、ずっと微笑んでいる。その顔を見て少し心が和んだ。死ぬ前に見る景色としては悪くない。僕がそう思うのと、ジェットコースターが急降下するのはほぼ同時だった。

 とんでもない風圧が顔を直撃する。重力がありえない方向へと移動し続け、そのたびに身体がいろんなところへと傾かされる。

「うおっ、はっ、ああっ!」

 完全に悲鳴が声になっていない。こんなものはもはや、喉から漏れるただの空気でしかなかった。気を抜けば、意識は容易く僕の支配を免れるだろう。そんなみっともないことになることだけはご免だ。文字どおり死力を尽くして、風圧と重力の暴力に抗う。

 隣では、樒ちゃんがジェットコースターの勢いに喜びながら叫んでいる。その声を聞いたら、とても嬉しそうなのがよくわかった。死にそうな僕を尻目に何と呑気なことかと思ったが、最初に会ったときは、こんなにはしゃぐ子だとは思えなかったぶん、楽しそうにしているのを見ると、連れてきてよかったと思えた。そのギャップは見ていて気持ちがいいものだ。しかし呑気にそんなことを考えている場合でもなかった。どうせならもっと平和的なアトラクションでその笑顔を見せて欲しかったものだ。

 おそらく発進してから停止するまで、五分と経っていなかったことだろう。それでも僕にとっては、永遠にも感じられるほどの長い時間だった。機体が完全に停止して、胸のバーが外されても、心臓の高鳴りはしばらく治まってくれなかった。はあはあと肩で息をした。酸素を肺に取り込むことで、辛うじて残っていた意識を無理やり留めておく。

「大丈夫ですか?」

 樒ちゃんが声をかけてくれた。大丈夫、と短く言って、精一杯の努力をして顔を上げた。樒ちゃんはそんな僕を心配そうに見ている。ちょっと情けなくなったので、無理矢理に笑顔を作った。

「楽しそうにしてくれてるから、僕も嬉しいよ」

 樒ちゃんの表情に笑顔が戻った。本当にここに来てからよく笑ってくれる。嬉しさが広がるのと同時に、過去のこともどうしても追憶してしまった。どうしてもあの子の影が脳裏をちらつくのだった。あの子もこうして、輝くような笑顔を僕に見せてくれた。その笑顔が僕の肩越しに別の誰かを見ていたとしても、その笑顔を見て心洗われるような気分になったのは紛れもない事実だ。

 今この笑顔は、果たして誰に向けられているのだろう。僕に向けられていると信じたかった。でも、もしそうじゃなかったら、僕は一体どうなってしまうんだろう? そう考えると不安だった。不安を拭い去るように大きく深呼吸をした。


 それからも樒ちゃんに促されるまま、僕らはいろんなアトラクションを利用した。メリーゴーランドにも乗ってみたし、くるくる回るコーヒーカップや、ミラーハウスにも入ってみたが、やはり絶叫系のアトラクションが彼女の一番お気に入りのようだ。僕はどちらかというとミラーハウスとかの方が落ち着くのだけれど、樒ちゃんの嬉しそうな顔を見られるなら、とほだされてしまう。

「それでも、やっぱり、こうも立て続けに乗ると…」

 気持ち悪くなってきてしまった。力なくベンチに腰をかける。恐怖に恐怖を上乗せし続けたせいか、心臓の音が普段とは明らかに違うリズムを刻んでいる。乗り物酔いと原理は一緒なのだろうか。樒ちゃんの三半規管は常人の域を軽く超えている。それとも僕が弱すぎるだけか。

「ごめんなさい、大丈夫ですか?」

 樒ちゃんが心配そうに僕の正面にしゃがみ込んだ。大丈夫、と言うのもこれで何度目だろうか。もはや声を出すと、違うものまで一緒に出てきてしまいそうだ。

「お水か何か、買ってきますね」

 そういって、樒ちゃんはかけていった。あとに残された僕は、こみ上げてくる気持ち悪さの抑えながら、自分の気持ちに対して向き合ってみることにした。

 彼女と過ごす時間がとても楽しい。苦手だった遊園地でも彼女と一緒にいるとすごく楽しい。このまま、樒ちゃんとずっと一緒にいられたら。どうしてもそんなことを考えてしまう。

 しかし、この想いとは裏腹に、それに対して懐疑的な、というよりむしろ否定的な自分もいることを感じていた。まだあの子のことが、頭の片隅から離れない。

「重ねちゃってるのかな…」

 言葉が空に漂った。

 果たして僕は、本当に、あの子のことを忘れられるのだろうか。

 樒ちゃんの肩越しにあの子の影がちらつく。無意識のうちに、あの子の面影を樒ちゃんに重ねてしまう。樒ちゃんが、初めて笑顔を見せてくれたとき。その輝くような笑顔の向こうに、僕は何を見ていたのだろう。

 頭を強く横に振った。その映像を振り払おうとした。気持ち悪さが加速した。うなだれた。

 果たして、僕はもう一度、誰かを愛することができるのか。

 考えながら、しばらく時間が経った。気分の悪さもだいぶマシになった。時計に目をやる。樒ちゃんはまだ戻って来ない。

「どこまで行ったんだろう…。」

 僕は立ちあがった。あの子の姿を探して、しばらく近くを歩いてみた。歩くたび、何か嫌な予感を感じていた。その予感は次第に不安を大きくさせていった。

 また、僕の目の前から誰かが消えてしまうんじゃないか。また僕はひとりぼっちになってしまうんじゃないか。不安が歩調を早めた。樒ちゃんの姿を早く見つめようと辺りを見渡した。

 しばらく歩くと、売店が連なる広場に出た。自動販売機もたくさんある。樒ちゃんの後ろ姿をそこで見つけた。僕はひとまず胸をなでおろした。

 しかし、どうしてこんなところに一人で立っているのだろう。樒ちゃんは自動販売機の前に立って、じっと動かないままでいる。何を買うべきか悩んでいるような様子だった。

 心臓がきゅっと小さくなった。その後ろ姿を少し見つめた。その健気な姿に、愛らしさを覚えずにはいられなかった。僕はその後ろ姿に声をかけた。

 驚かせないようにしたつもりだったが、樒ちゃんはびくりと肩を震わせた。そしてゆっくりと振り向いた。僕は驚いた。彼女は、その瞳にいっぱいの涙を溜めて、今にも泣きそうな表情をしていた。僕が戸惑って何も言えないでいると、樒ちゃんの方から口を開いた。

「ごめんなさい…。」

そして、目の前の自動販売機に目をやってから、

「何も買えませんでした…」

 僕はしばらくあっけに取られて、彼女と自動販売機を交互に見つめた。きっと、僕に何か買ってこようと思ったはいいものの、お金を持っていなくて何も買えなかったのだろう。そういえば、ここに入ってくるのだって、僕が事前に買ったチケットを使っている。そう思うと、だんだんおかしさがこみ上げてきた。純粋な姿に対する愛らしさと相まって、滑稽さを感じずにはいられなかった。僕は笑った。声をあげて笑った。樒ちゃんはそんな僕を見て、目に涙を溜めたままきょとんとした表情を浮かべていた。

「いいよ、大丈夫。もうだいぶ気分も良くなったから。それよりさ」

 僕は売店のひとつを指差した。

「ソフトクリームとか食べたくない?」

 それを聞いて、樒ちゃんは笑顔を取り戻してくれた。袖で涙をごしごし拭いてから、嬉しそうに頷く。それを見て僕も安心した。そんな姿も愛おしく思えた。

 もちろん、そんな姿を見て、あの子のことを連想せずにはいられなかった。洗濯物を引っ掛けようとして、カーテンレールに手が届かなかったあのときの姿。そんな些細な光景でも思い出さずにはいられなかった。辛い思い出となってしまった、楽しい思い出。

 簡単に振り払うことは難しい。しかし、僕は今、樒ちゃんの肩越しに誰の姿を見てもいなかった。純粋に、彼女自身のことを見ていた。その黒い髪を。まっすぐな瞳を。愛らしい仕草を。彼女のすべてを、彼女として認識していた。

 僕にとって、樒ちゃんは唯一無二の女の子となろうとしていた。彼女は彼女であり、思い出の亡霊などではない。

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