13
雨が降ると思い出す。
特にこんな冷たい雨だと。
木が風に揺れる音。蛙の鳴き声。紫陽花の薄い紫。そして君の泣く声。何もかもがそのままに追体験された。歩く速度を落とし、少しばかり思い出の中の景色を見ながら歩いた。雨で髪が少し濡れてしまっているが、あまり気にならなかった。
店の前で立ち止まる。ここで君は、僕に話しかけてくれた。
森の中に入る。少し距離が近くなって。
路傍に咲く紫陽花を、しゃがんで見つめる横顔。
街灯もない暗い道を、君が怖い思いをしないようと祈りながら。
そして、二股に分かれる道。
濡れるからと手をとって、僕の家へと来てくれて。
壊れそうになりながら、僕の腕に抱きしめられて。
…そして、とうとう違う道を、振り返ることもなく駆けて行ってしまった君。
すべてがありありと思い起こされた。あの子が行ってしまった道を、誰を探すでもなく眺めていた。もし、今ここに君が来てくれたら。奇跡のような偶然に淡い期待を抱きながら、しばらくそこで佇んでいた。
「ごめんね」
不意に、そんな言葉が口をついた。
せっかく傘を貸してくれたのに。
「すっかり濡れちゃったよ」
髪から滴る水滴が地面に落ちるのを見ながら、一人呟いた。
帰ろう。ここにいたって、あの子は来ない。仮に来たとしても、僕とはもう言葉を交わしてすらくれないだろう。僕の知っている、僕が愛したあの子はもうどこにもいない。なくしてしまった。消えてしまった。もうきっと、どこを探しても見当たらないだろう。
あの子が帰る方へ足を踏み出そうとして、結局自分の帰る道へと歩き出した。
後ろから誰かに見られているような気がした。しかし振り返る気にはなれなかった。きっとそれは、あのときの自分だろうから。幸せだったときの自分の残骸。それと正面から相対するには、今の自分はあまりにも脆くなりすぎていた。
長い階段を降りる。もうここから飛び降りようとは思わなかった。それはきっとよき後輩のおかげなのだろう。大事な色が欠けてしまったような気持ちに、少しの喜びを与えてくれた彼。
目の前の、黒と鈍色だけの夜をゆっくり降りていく。すると、そこに白がぼんやりと浮かんで見えた。暗い中にも鮮やかな、黒く長い髪が見える。しかし以前と違っていたのは、そこに僕が持たせた傘がさしてあったことだった。傘をさして、前と同じように、石段に座って俯いている後ろ姿。
今度は恐る恐る、怖がらせないようにそっと呼びかけた。だから今回は、その小さな肩を震わせることなく、彼女は僕の方を振り向いた。その無垢な瞳が、表情が、街灯の光を受けてか、少し輝きを帯びたように見えた。
「また会ったね」
僕は彼女の正面に回り込みながら、何気なくそう言った。しかし答えは返ってこない。輝く瞳はずっと僕を縫い止めている。
この子がどうしてここにずっといるのか、そのことがどうしても気にかかった。
そうではないか。年頃の女の子が、毎晩のように雨の中に座りこんでいる。家出か、誰か人を待っているのか、事情はきっとあるのだろうけれど、その事情がどうしても想像できない。異様とも不審ともいうべき状況だ。もっとも、雨に濡れた僕に不審者扱いはされたくないだろうけれど。
考えていると、彼女の腕がゆっくりと動いた。まるで触れた瞬間に砕けるガラスに触ろうとするように、ゆっくりと慎重に腕を突き出し、傘を僕の方へさしだした。
「え…?」
固まってしまった。なにしろ予想外の行動だったからだ。要するに不意を突かれてしまった。そこで、思考がようやく働いたのか、この状況への理解が生まれた。
なるほど、この子はわざわざ、借りていた傘を返そうと僕を待っていたのか。そんなことのために、随分と殊勝なことだと思ったが、しかし本当にそんなことのためだけに、あれから一週間の間、毎日ずっとここで待っていてくれたのだろうか。考えにくいことではあったが、しかしそう説明する以外に、彼女がここにいつまでもいる理由がわからない。
「え、っと…。このためにわざわざ待っててくれたの?」
彼女は黒い髪を揺らして、首を縦に動かした。そうしながらも、その視線は僕をしっかり捉えていた。
「あ、ありがとう」
僕はそう言って、さしだされた傘に触れた。同時に彼女の手が指先に触れる。雨のせいだろう、やはり少し冷たい手だった。
「でも」
僕は傘を握ったまま、押し返すようにして彼女に傘をさしかけた。
「君が濡れちゃうから。この傘はあげるよ」
その瞳の輝きが、また少しだけ強まったように感じた。まるで、ずっとせがんでいたものをようやく手にいれたかのような。心がざわめいた。その瞳の輝きには見覚えがあった。
一瞬だけ、かつて見た顔が脳裏をよぎる。それを振り払うのには、いつも大きな力を必要とする。
すると女の子は、今度はもう片方の手に握られた何かを、やはり恐る恐る、僕に差しだした。それに視線を落とした。強く、なくさないようにとでも言うように強く握られたそれに。あのとき傘と一緒に手渡した、遊園地のチケット。
それに目を奪われ続けていた。凝視した。見つめたまま、思考は過去に遡る。あの子に喜んでもらおうと思って買ったチケット。もう一度だけ、あの笑顔が見れるはずだった。
それなのに。
「…いや」
息を吸って、吐く息混じりに言った。
「それもいらない」
自分の声のはずだが、それがまったく違う他人の声のように思えた。そのくらい声色が変わった。喉の奥から低く響いた。彼女の表情が一瞬、硬くなった。きっと怖かったに違いない。そう思った。小さな瞳が探るように泳ぐ。僕の目を捉え、また別に向き、そしてまた捉える。
「ああ、ごめんよ」
それでも彼女はまだ、迷子のように僕を探る。このあとどう声をかけたらいいものか。
「遊園地は嫌い?」
女の子の目が、泳ぐのをやめ、ぴたりと僕に据えられる。ほんのひと刹那、僕らはお互いを見つめた。そして、その小さな唇がゆっくりと動いた。
「…好きです」
今でも忘れることができない。これが樒ちゃんの言葉を初めて聞いた瞬間だった。
か細い声。繊細な声。美しさと、切なさを内包していた。まるで夢か幻のような響き。雨の音も蛙の鳴き声も、世界のすべての音という音が後退した。意識の外に押し出された。それほどまでに圧倒的な響きだった。
そのことに戸惑った。問いかけておきながら、僕は何も言葉を発することができなかった。情けなく狼狽えた。
愚かにも、僕は狼狽の中で、ちゃんと言葉を選ばずに言葉を発してしまった。要するに何も考えず、ただ勢いのままに口走った。なぜそんなことを言ったのか、今となってもわからない。
この言葉は、もういないあの子にこそ、言いたかった一言だったはずなのに。
「よかったら、一緒に行く?」
おそらく酔いのせいだろう。酔いに任せて、そんな柄にもないことを口にした。軽はずみな言動だと自分でも思ったが、それでも答えを期待せずにはいられなかった。短絡的な発言だったとしても、何か反応を求めずにはいられなかった。くすぶっている希望をまた、自分の中で燃やすことができるなら。
樒ちゃんの目がまた泳いだ。しかし、さっきほどそう長くは回遊していなかった。一瞬の逡巡ののち、彼女の瞳はまた違う色をそこに湛えていた。柔らかな光だった。
「行きたい、です」
その後何と言葉を交わしたか覚えていない。その声の響きがまるで音楽のように、後退した世界の中でいつまでも鳴り響いていた。