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空を知らない雨  作者: 吉本憧憬
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 たぶん話していなかったはずなので、ここで僕の働く喫茶店について簡単に説明しておこう。 

 個人経営の小さな店だが、この辺にはあまり競合店はいないので、それなりに繁盛している。連休などになると目が回るほどの忙しさになるが、従業員はみんななかなかのベテラン揃いなので、うまく連携をとってそれぞれの仕事をこなしている。

 基本的に厨房スタッフは男性で、ホール担当は女性。年齢層は僕や有村といった二十代の若年層と、四十代ほどの中年層に二極化されている。決して従業員数は多くはないが、だからこそうまく統率がとれるといったメリットもあるのだろう。

 厨房の責任者は店長で、ホールのリーダーはその奥さん。小学二年生になる娘がいるらしく、たまに運動会や学芸会があって二人とも休んだりすると、仕切り役は活発な性格で発言権を獲得している有村が担うことになっていた。僕の方が一応先輩なのだが、僕は人を使うことに適したキャラクターではないので、店長から頼まれた段階で丁重に辞退した。人には向き不向きというものがある。

 ホールスタッフの統率を執るのは香澄ちゃんに任されていた。その人柄から、スタッフはもちろん、お客さんからも信頼の厚かったので適任だった。本人はそのポジションについてあまり気が進まない様子だったようだが、それでも周囲の期待通りの働きは見せていた。

 そんな重要なスタッフが、まさかの色恋沙汰で辞めてしまうとなっては、今後僕への風当たりが強くなるのは当然のことと言っていいだろう。一週間も無断で欠勤をしていた時点で、相応のペナルティは覚悟していた。

 しかし、勤め始めてからの長い在籍期間、欠勤はおろか遅刻すら一度もなかった僕の勤務態度を、仲間たちは予想以上に評価してくれていたらしい。みんな僕の身を案じてくれていたという。せめて元気を出して欲しいと、有村が持ってきてくれた差し入れの代金は、店長の奥さんが出してくれたものだ。菓子パンを買っていったと言ったら、もっと精のつくものを買っていったらよかったのにと、むしろ怒られてしまったのだそうだ。

「だっていっつもあのパン食べてたんだから、好物なのかと思うじゃないですか」

「いや、嬉しかったよ。ありがとうな」

 少しむくれながら煙草をふかす有村の肩を叩いた。そんな話を聞いてまたちょっと泣きそうになったが、みっともなく涙するのはこの間で終わりにしようと誓った。

 もう、弱々しくなることはしたくなかった。男の子なんだからと、母親にも昔よく言われたっけ。

「けど良かったですよ」

 有村が少しだけ、安心したように微笑んで僕の方を見た。

「マジで自殺したと思ってましたからね。奥さんなんか警察に相談しようか真剣に悩んでたくらいです」

 それでも店長だけは、「様子を見守っていよう」といつものように冷静な態度を崩さないままだったという。さすが、その穏やかさから「仏様」と言われているだけのことはある。店長が動揺したり、まして取り乱したところなど見たことがないし、誰一人として見たものはいない。その仏の顔で怒られるたびに、むしろ怒鳴ってくれた方がどれだけ有難いかと思わされる。冷静な表情のまま怒られることほど堪えるものはない。

「うん、マジで死のうかって考えてたよ。どう死んだら一番楽に死ねるかとか、そんなことばっかり考えてた」

「かなり重症だったんですね。でも飛び降りだけはやめた方がいいですよ。後処理が超面倒臭そうだし」

 さらりととんでもなく不謹慎なことをいう奴だ。しかし、世に自殺の方法数あれど、果たして後始末をしなくてもよくて、誰にも迷惑をかけない自殺の方法など存在するのだろうか。

「それにしても…」

 有村が唐突に口を開いた。

「あの子、ちょっと自分勝手すぎますね」

 自分の身体が不意にこわばるのを感じた。有村の横顔を覗き込むようにして見た。険しい表情をしていた。彼のそんな表情はあまり見たことがない。再び口を開いたときの口調も、かなりきついものが混ざっていた。

「だって、元彼が構ってくれなくて寂しくて、構ってくれる新しい彼氏作って? で今度はやっぱり元彼の方が好きでしたー。なんてさ。小学生かよ。ガキでもあるまいし、自分勝手な理由で人の心弄びやがって。意味わかんねえ」

 矢継ぎ早に非難の言葉を口にする後輩を、僕は横目で見ていることしかできなかった。心の中で何かがぐつぐつと煮えていくのを感じた。それはあの子に対する怒りなのだろうか。僕は有村の言葉を聞きながら、自分の中で煮えるものの正体を凝視した。

「あんな女、別れて正解っすよ。どうせずっと付き合ってたとしても、絶対どっかのタイミングで浮気とかしますって。正直そんな女だとは思ってなかったなあ。幻滅ですよ」

 僕の中で煮える何か。それはあの子に対する怒りでも、僕の好きだった女の子を罵る有村に対してでもない。それは自分に対する怒りだった。自分に対する絶望だった。

 所詮僕はハリボテにすぎなかった。代用品でしかなかった。それに甘んじてしまったのは、すべて自分に、それを覆す力がなかったからだ。

 今回のことを、すべて香澄ちゃんが悪いとしてしまうのは簡単だし、その方が気も楽になるだろう。しかし、それをぶつける相手はもういないし、やり場のない怒りは、結局自分にぶつけるしかない。

 「あんなクソみたいな女、とっとと忘れて次行きましょうよ。何なら僕の彼女の友達とか紹介して…」

 「有村!」

 静かだった休憩室が、大声によって少し震えたような気がした。有村は目を丸くして僕の顔を見ていた。僕も今まで、こんな風に声を荒げたことなど一度もない。

「…すみません。ちょっと言い過ぎました」

 有村は申し訳なさそうに、かすかな声で言った。僕は彼の顔を見ることなくうなだれた。痛いものを孕んだ沈黙がしばらく流れた。

 自分に対する怒りも少し冷めた頃に、改めて有村の顔を見た。落ち込んでいるように見えた。やりきれないという風な表情を浮かべていた。普段の彼の明るい笑顔を思い返すとまるで別人のようだ。彼のこんな表情を見ることも滅多にない。

 本気で、僕のことを心配してくれていたのだろう。それはとても痛いものだった。痛切なほどの優しさだった。純粋に有村の気持ちが嬉しかった。普段は飄々として、隙あらば僕をからかってくるような後輩だが、彼は彼なりに、真剣に僕のことを案じていてくれたのだ。

「ありがとうな」

 ボロボロに乾いていた心に、一滴の水が落とされたような感じがした。それは、孤独に苛まれていた僕が、今何よりも求めていたものだった。

 そのあとバイトが終わってから、ふたりで飲みに行った。有村がフラれたときにも行った居酒屋だが、僕はあのときの彼のように泣きじゃくったりはしない。感情に身を任せるのは苦手だ。ただふたりで顔を突き合わせ、まるで死んだ誰かを弔うかのように、淡々と酒を飲んだ。

 ただ、僕も有村も、普段より飲む酒の量は増えていた。感情はそういうところに影響されてくるのだろう。僕がそろそろ気持ち悪くなってきた頃には、有村は完全に酔い潰れ、テーブルの上でうんうんと変な呻き声をあげていた。

「そろそろ帰ろうぜ、おい有村」

 ゆすってみたが、彼の呻きは止まることがなかった。

「ううーん、先輩のチキン野郎ー…」

 酔っ払いにチキン呼ばわりされてしまってもどう反応していいのかわからない。先ほどのこともあるので頭をひっぱたくのはよしておくことにするが、そろそろ店員さんの見る目が厳しくなってきたように思うので、無理やり肩を担ぐようにして店を出た。

「可哀想な先輩のために、今日は僕がおごりますから」

 そう豪語していたくせに、結局代金はすべて僕が払った。有村はふらふらになりながらも財布を取り出そうとがんばっていたが、その労力は自分の足でしっかり歩くことにのみ注力して欲しかった。鉛の詰まった袋を抱えているような気分になりながら、僕は彼を家まで送り届けた。

 すっかり夜も遅くなった。時計を見ると午後十一時を回ったところだ。有村は元カノと同棲を終えてからは実家暮らしをしているので、夜分遅くに彼を実家に送り届けていいものかと少し気になった。僕の家とは反対の方向にあるため、慣れない道を、彼の呻きを頼りに歩いた。

 空を見る。やはり梅雨明けはまだまだ先のようで、どんよりと雲が立ち込め、星を覆い隠している。雨が降りだしてしまわないうちに、有村の体を半ば引きずるようにして帰りを急いだ。その甲斐あってか、小雨のうちに彼の家に到着することができた。

「わざわざどうもすみません」

 有村のお母さんは、寝巻きにカーディガンを羽織った姿で出てくるや、少し乱暴に息子の腕を担いだ。どうやら力はそれなりにあるようで、僕が死力を尽くした重労働を軽々とやってのける。かかあ天下の縮図を見たような気分になった。あまり敵に回したくない相手だ。

「じゃあ、僕はこれで失礼します」

 そう言うと、お母さんは「本当にすいません」と、もう一度僕に謝辞を述べた。それから、その肩でいまだ唸り続ける息子の頭をはたいた。

「ほら、先輩が帰られるよ! お礼くらいちゃんと言いなさいな」

 有村は寝ぼけたような、とろんとした視線を僕に向けた。そして、少し申し訳なさそうに目を伏せてから、一言だけ言った。

「元気出してくださいね、先輩」

 僕は返事の代わりに苦笑を浮かべた。そして帰路につき、彼の家の方をもう一度振り返った。

 今日ほど彼の存在が有り難かったことはない。孤独に震えていた心に寄り添ってくれた優しさ。僕は一人じゃないと思わせてくれたことに対する感謝。いい友だちを持つことができてよかった。失恋で失ったものは非常に多かったが、得るものもあるということか。

 喜びと、祭りの後の寂しさが混ざり合ったような奇妙な感覚を覚えながら、静まり返る道を歩いた。小ぶりの雨が僕の肩を打つ。少し足早に、誰もいない我が家へと急いだ。

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