11
どのくらいの時間、そこに立っていたのだろう。
思考が一応の判断能力を取り戻す頃には、すっかり夜の闇が辺りを包み、僕の全身はすっかり雨でびしょびしょになっていた。身体は冷えてこわばり、少しでも動けばバラバラになってしまいそうだ。誰も迎えに来てくれなかった。彼女が戻ってくることもなかった。
動く気になれなかった。激しい雨に打たれようが、いくら身体が冷えようがどうでもよかった。このまま雨と一緒に、溶けてどこかに流れていってしまいたいとすら思った。知らない場所へ。悲しみも苦しみも、何もない場所へ行ってしまいたかった。そうなれるならどんなに良いだろう。淡く甘美な退廃的思考。そうすることで、今この現実という地獄から逃避した。
先程の出来事が何度もフラッシュバックした。突然告げられた恋の終わりが、何度も何度も追体験された。僕は結局、彼女に愛されることはできなかった。
彼女を心から愛し、その愛に対して向けた覚悟は、わずか五分たらずの間に粉々に打ち砕かれた。自分自身に訪れた変化も決意も、結局は僕の独りよがりでしかなかったと思い知らされた。
その場に座り込み、子どものように声をあげて泣き喚きたかった。張り裂けそうな心の叫びを主張せずにはいられなかった。しかし、周囲には誰もいない。いや、誰かいたところで独りであることに変わりはない。その訴えを受け止めてくれる者は誰もいない。完全に、完璧に、明確に、明瞭に、孤独だった。
やがて、僕の足はふらふらと頼りない足取りで家路を歩き出した。
地に足がつかない状態とはまさにこのことだろうか。地面を踏みしめているはずなのにその実感がない。ぼやけた意識だけでふわふわと漂っているかのようだ。まるで夢のようだった。夢だとしたら悪夢でしかない。どうか夢であって欲しいと、この短い時間で何度願ったことか。
幽霊にでもなった気分だった。香澄ちゃんが去った瞬間、僕という人間は死んでしまって、あとには未練がましい魂だけが残された。見つかるはずもない、そこにあったと思い込んでいた愛を探し求める亡霊。それがまさに僕だった。
おぼつかない足取りで階段を降りる。びしょ濡れの手すりに捕まりながら、しかしここから転げ落ちて、首の骨が折れてしまっても構わないと思った。情けない死に方だが、みっともなく生きているよりはよっぽどいい。たとえ死ななくても、怪我でもすれば、香澄ちゃんはお見舞いに来てくれるだろうか。また笑顔を見せてくれるだろうか。もう一度、あの笑顔が見たかった。自分がどんなことになってしまおうと、あの笑顔が見られるならそれでいい。
嘲笑が口元を歪ませた。未練がましいことこの上ない。たまらないくらいに惨めな気分だった。階段の途中で立ち止まった。
いっそ本当に、ここから飛び降りてしまおうか。
そんなことを思いながら階段の下を見下ろした。するとそこに、ぼんやりと人の姿があることに気がついた。
雨はその勢いをどんどん増していっている。風こそないものの、土砂降りと形容してもいいくらいの激しい雨。そんな中に一人、傘もささずに座り込む女の子がいた。
記憶が思い起こされた。泣いている香澄ちゃんを家に連れ帰ったあの日も、その子はそこに座っていた。そのときは、香澄ちゃんのことばかり気にかけていたので、見て見ぬ振りをしたのだった。
後ろ姿だけなので分からなかったが、僕よりもだいぶ若く見える。十代の後半といったところだろうか。小柄で華奢な背中を丸め、まるで時が止まっているかのように、ぴくりとも動かない。白い長袖のワンピースは、肌が透けて見えるほどに濡れ、夜よりも黒い漆黒の長い髪から雨が滴っている。そのことから、ずいぶん長い間そこにいたことが容易に想像できた。
心臓が一瞬、どくん、と大きく脈打った。
その姿があまりにも似ていた。文字どおり、酷似していた。残酷なほどに似過ぎていた。
また脳裏に思い出が駆け巡った。彼女と初めて帰った日。初めて家に来たときの第一声、慟哭の最中に降る雨。手作りのお弁当。一緒に観た映画。キスをした夜。拒絶と、告げられた別れ。
そのとき初めて、僕は泣いた。頬を伝うのが雨なのか、涙なのかはわからなかったが、声を上げるわけもなく、ただ涙を流れるままに任せた。
「あの」
気づけば僕は、その女の子に声をかけていた。自分がさすことも忘れた傘を、その背中にさしかけた。女の子はびくりと肩を震わせ、恐る恐る、こちらを振り返った。
そこで息を呑まずにはいられなかった。
これほどまでに美しい女性を今まで見たこともなかった。周囲の音が一瞬静止した。心にたれこめていた絶望の雲が、一瞬吹き払われたように思えた。それだけの魔力を秘めた美しさだった。
透けるような白い肌が、黒い髪と相俟ってモノクロのコントラストを織り成し、どこか非現実的な印象を彼女に与えていた。その大きくて無垢なものを湛えた双眸が、息を忘れ続けていた僕の瞳を覗き込んでいた。
その表情がいくらか気にかかった。まるでかくれんぼで、誰にも見つかるはずのないところに隠れたはずなのに、それなのに見つけられてしまったような、驚きに満ちた表情。
「風邪ひくよ。こんなところにいたら」
自分でも、なぜこんな風に声をかけたのかわからない。呆気に取られて思考が麻痺していたからか、絶望を思い返して自棄になっていたからなのか。若い女の子に声をかけるずぶ濡れの変質者と思われても仕方がない。
しかし、僕を変質者と言うならば、目の前にいるこの女の子にしてみても、申し訳ないがそれほど違いはない。土砂降りの中、傘もささず、階段に腰掛けている姿は端的に異質に過ぎると言わざるをえない。
この世界において、今この場において、僕たちは異質同士だった。同じような色の悲しみを共有している。この世界に、同じ悲しみを分かち合える人がいる。迷惑極まりない同族意識だっただろうが、そう思い込むだけでも僕にとっては救いだった。
女の子は、驚いた表情のまま僕の顔をまじまじと見るだけで、何も言おうとしない。文字どおり穴が開くほど、僕の瞳を凝視している。その美しい瞳に射すくめられると、言葉が出てこなくなった。しかし何とか弁明しなければならないと少し焦った。
「あ、あのこれ」
僕は無理やり、女の子の手に傘を握らせた。お互いずぶ濡れなので意味はないかと思ったが、せめてこれ以上濡れないようにと思ったのだ。
そして、もう片方の手に、ポケットから取り出した遊園地のチケットを握らせた。有村の話だと、どうやら女の子に人気のテーマパークらしいから、きっと喜んでくれるかもしれないという浅い考えからの行動だった。
「楽しいらしいから、よかったらもらって」
無意識にそう口走り、僕は足早に階段を降りた。視線を逸らすとき、女の子は何か言いたげだったように思えたが、急に気恥ずかしさを覚えてきて、振り返ることもしなかった。
雨の中を家まで走った。その女の子の手の、氷のように冷たい感触がしばらく残っていた。しかしそれもやがて、絶望の暗雲に飲み込まれてしまった。
それから一週間ほどが過ぎた。
部屋に残った香澄ちゃんのかすかな匂いは、食べ散らかしたインスタント食品の容器と、ビールの空き缶が発する据えた匂いに掻き消されてしまった。殺風景な中に咲いていた花柄のエプロンは、三日ほど経ったあと、可燃ゴミの袋に突っ込んだ。それを捨てることは、香澄ちゃんの喪失を決定的なものにするような気がしたが、目を覚ませば嫌でも目に入ってくるその色があまりにも辛すぎたのだ。
部屋が荒れれば荒れるほど、香澄ちゃんの残した雰囲気も失われていく。一週間経つ頃には、もう元の、香澄ちゃんと出会う前の状態に戻っていた。所詮、香澄ちゃんが僕に残したものはこの程度のもので、香澄ちゃんと付き合っていたという事実を裏付けるものは僕の記憶しかなくなってしまったと思うと、今までの出来事が本当に夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。長い長い夢。それが良い夢だったのか悪夢だったのか、今となっては判断がつかない。考えても詮なきことだった。
不意に、マナーモードにしていた携帯電話がぶるぶると鳴った。それを香澄ちゃんからの着信かもしれないと思い、わずかな希望と共に画面を見ては何度突き落とされたことだろう。バイト先の店長と有村からの着信は、一週間で数え切れないほどの回数に及んでいた。
もうずっと、無断欠勤を続けてしまっている。
女にフラれたくらいでこの有様とは非常に情けない。きっと店長も有村もそう思っていることだろう。落胆していることだろう。わずかながら心配もしてくれているかもしれない。そのことに申し訳なさを覚えずにはいられない。しかし、今の僕にとっては、そんなことさえどうでもよかった。些細なことに過ぎなかった。
女にフラれたくらい、普通の男ならば平静さを装うべきで、むしろそちらの方が些事と言われても仕方ない。その意見も正論だとは思う。人である以上、大人である限り、辛い感情を押し殺すべき場面は数え切れないほどある。いちいち絶望してなどいられない。人は義務を全うするのに忙しい。それは残酷とも言えるし、時に希望にもなり得ることも、僕は知っていた。
けれど今の僕には、そんなことすらもどうだってよかった。絶望という表現すら生易しい。それこそ地獄のどん底に叩き落とされたような気分だった。
自分の人生観を変えてくれた、大切な人との別離。自分の人生において最大といえる決断の腐敗。まるで自分を構成する大事な部品を、突然奪われたような感覚。喪失感と欠落感は、他人が想像出来る範疇を大幅に超えていた。
少しずつ自分のことを好きになれていた感覚は、その大きさをそのままに別のものへと表情を変えた。自己憐憫、自己嫌悪、自己批判、自己喪失。それらはこれまでとは比べものにならないほどの速度で急成長し、僕の心を蝕んでいった。その痛みに悲鳴をあげたくなったが、そんなことすらできるほどの力は残っていない。満足に眠ることもできず、十分に食べることもできず、目だけを開けたまま布団に横たわっていた。形容も比喩もいらない、意味そのままの死体。僕は腐った思考を持て余す屍に成り下がっていた。
そのとき、インターホンが鳴った。今の気分に不釣り合いなほど軽快なメロディ。そして立て続けに、聞き慣れた声がドア越しに僕を呼んだ。
「せんぱーい…? 生きてますかー…?」
有村の声だ。しかしいつもの小憎たらしい口調ではなく、さながら真っ暗な洞窟の中を探るような呼び声だった。そこから何が飛び出してくるかわからないというような恐怖すらも感じ取れる。察するにどうやら本気で、僕が部屋の中で死んでいるかもしれないと思っているようだ。ドアノブががちゃがちゃ回された。鍵がかかっているので開くわけもなかったが、それでも執拗に何度も繰り返した。しかし僕は鍵を開ける気にはなれなかった。
「せんぱーい…? いないならいないって言ってくださいよー…」
今にも消え入りそうな声だった。インターホンを鳴らしては、ドアノブを回し、声をかけてくる。そうやって数分が経過した頃、ようやく申し訳なさを感じ始めて、僕は玄関の方へと向かった。
「生きてるよ」
自分の喉から出た声は無残にしゃがれていた。そのことに自分でも驚いた。なにしろ一週間ぶりに声帯を使ったのだ。それまでは、叫ぶでもなく泣くでもなく、ただ黙したままビールとカップラーメンばかり摂取していたわけだから、そうなるのも無理はない。しかし、扉の向こうの有村は「先輩!」と嬉しそうに声をあげた。
「ちょっと、いるなら開けてくださいよ。てゆーか生きてるならバイト来てくださいよ。先輩いないから厨房結構大変なんですよ」
いつものように有村は言う。いつものように装っている。隠し事が得意な性格とは言い難い。その口調はどこかぎこちなかった。苦いものが混ざっていた。
「すまん、今日はこのまま帰ってくれないか」
そんな彼に、今の自分の、こんな姿を見せるのは偲びなかった。単純に格好がつかないからではない。今の僕は死体と変わらない。死者は何も語らない。語れない。語りたくても、語る言葉が見つからない。
「バイトは明日からきっと行く。迷惑かけて申し訳ない」
辛うじて言うことができたのはこれだけだった。睡眠も足りていないので、立ち続けていることすら疲れてきた。僕はそのまま、ドアにもたれかかる格好でその場に座り込んだ。情けなくて、有村にわからないように、独り自虐的に笑った。
有村はしばらく黙っていたが、やがてこれ以上は何をしても無駄だと判断したのか、「わかりました」と呟くように言った。
「じゃあ僕はこれで帰ります。生存確認できただけでも収穫でした。差し入れ持ってきたのでドアにかけときます。食べてください」
ビニール袋のかさかさという音が聞こえた。それが止んで、そして短く間を置いて、
「最後にとりあえず、これだけ伝えときます」
有村がそう言って伝えてくれた言葉を、最初はただの音としてしか認識できなかった。一週間思考を停止させたままだったから、処理速度が追いつかなかったのだろうか。それとも、その名を聞くことを無意識に精神が拒否していたのか。それは本当にどちらでもいいことで、意味などない考察だったから、それについて考えることはすぐにやめた。
香澄ちゃんは四日前にバイトを辞めていた。これで本当に、彼女の行方は僕の知るところではなくなった。
有村の持ってきてくれた菓子パンをかじりながら、僕は泣いた。しばらくそうして泣き続けていた。僕の初めての恋は、文字通り夢となって消えた。