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香澄ちゃんには、僕の部屋の合鍵を渡してあった。
なんとも気の早いことだと思われるかもしれないが、それくらい彼女を信用していたと言うことだろう。心を許していた。見られて恥ずかしいものがあるわけでもない。
だから、僕がバイトで、彼女が休み、という日は、香澄ちゃんが僕の帰りを待っているということも度々あった。梅雨時期の今となっては本当に助かる。記憶力が決していい方ではなく、学習能力も褒められたものではない僕なので、性懲りも無くしまい忘れた洗濯物を取り入れてくれるのはとても有難い。何度も下着を掴ませることには些かの申し訳なさもあったが、彼女はそんなこと全く気にもしていないようだった。
彼女と一緒に暮らしたいと思っていた。もっと一緒にいる時間が増えれば、もっとお互いのことをわかり合えるだろう。
同棲について、以前有村から彼の体験談を聞いたことがあった。もっとも、それからわずか三ヶ月で別れてしまったので、話の内容としてはマイナスな要素を多分に含んではいたが。
「今まで可愛いばっかりだった彼女の嫌な部分が一気に出るんですよ。最初の一ヶ月くらいはがんばってくれてたんでしょうけど、慣れだすとまず部屋が散らかり放題になりましたね。その次に、料理当番やゴミ出し、風呂の掃除などといった家事の分担に関して不満が出てきます。一人暮らしのうちはどうでもよかったことも、ふたりとなるとそうも行かなくなるんですよね。疲れて帰ってきても、彼女のために飯を作ってやらなきゃいけない。今日は自分が当番だから、外食も控えなきゃならなくなる。そんな生活が続くと、だんだんストレスたまってくるんですよ。サボればサボるほど、お互いに対して信用がなくなっていくわけで…」
僕は経験がなかったので、想像も満足にできないまま相槌を打っていたが、今となっては容易に想像がつく。そう思えば、この短期間でどれだけ僕の心境に変化があったかがわかる。有村は苦い経験として語ってくれたが、僕としては香澄ちゃんと一緒に暮らす未来について希望を抱かずにはいられない。
大好きな彼女とずっと一緒にいられる。どうしても都合のいい面ばかりが見えてしまうのも仕方のないことなのかもしれない。彼女との生活は、きっと楽しいものになるだろうという確信。恋は盲目とはよく言ったものだ。
しかしもちろん、香澄ちゃんも人間であって、僕も人間であることはいうまでもない。つまりお互いに綺麗な側面だけを見せ続けながら、あるいは見たくないものに目を瞑りながら生活することはできない。けれど僕は彼女のどんなところでも愛したいと思っていて、香澄ちゃんにも、僕のあるがままを受け入れて欲しかった。僕のすべてをさらけ出す必要があった。いくら僕が彼女を愛し、彼女の幸せを望もうとも、一方通行になってしまえばそれはただの独りよがりでしかない。自己満足でしかないのだ。これを「愛」と呼びたらしめるためには、僕も彼女に愛される必要がある。僕も、彼女に必要とされる男になるべきだ。
あの夜のことや、これからのことを、もう一度彼女と話したい。勇気を出して、香澄ちゃんと向き合うことが今は何より重要だ。
文明の発展めざましいというべきか。インターネットで購入した商品は、翌日の昼ごろには既に郵便受けに入っていた。世の中はどんどん便利になっていく。そんなこと、今まで意識すらしなかった。
丁寧に梱包された封筒の中に、遊園地の入場券が二枚入っていた。最近この近くにオープンした新しいテーマパークだ。以前香澄ちゃんとの話題に上ったこともある。なんでもオープンしたてのときは、その人気ぶりにチケットが手軽に購入できなかったほどらしい。それがネットで簡単に入手できたということは、そのときよりはいくらか入りやすくなったということだろう。
彼女はきっと喜んでくれるだろう。自然と表情がほころぶ。封筒を大事に鞄にしまってから、僕は待ち合わせをしている翌日を待った。
「どうしたんですか先輩。朝からずっとニヤニヤしてますよ」
休憩所で煙草を吸っていると、背後から有村に声をかけられた。
「この間のことがショックすぎて、ついに頭までやられちゃったんですか?」
心配半分、からかい半分といった様子で、いつものように憎まれ口を叩く有村に、僕は手に入れた遊園地の入場券を見せてやった。有村は「お!」と声をあげ、それを手に取った。
「いいじゃないですか! 僕も行こうと思ってたんですけど、なかなか買えなかったんですよ。どうやって買ったんですか?」
「普通にネットで買った。今ならちゃんと買えるみたいだぞ」
こんなセリフも、ニヤニヤしたままだとどうも格好がつかない。有村はそんな僕を横目に見ながら、「いいなあー」と言って、チケットを僕に返した。
「でもよかったですよ。こないだの先輩、死んで腐りかけた魚みたいな目してましたから、ちょっと心配してたんですよ」
腐りかけてまでいたのか、僕は。ちょっと落ち込んだが、そのことには触れまい。
「ああ、突破口が見つかったような気がするよ。ありがとうな、有村」
「先輩から素直に礼を言われるのも、なんだか気持ち悪いですね」
そう言いつつも、有村は照れたように頭を掻いた。アドバイスする立場であった手前、やはり気にかけてくれていたのだろう。こういうところを見ると、真面目な後輩の称号を少しは与えてやってもいいかと思えてくる。
「今日、バイト終わりに待ち合わせしてるんだ。そのときに渡してみるよ」
僕がそう言うと、有村は無言で頷いて、ようやく煙草に火をつけた。そして煙に混じらせながら言う。
「どうだったか教えてくださいね、遊園地デート。面白かったら僕も行きます」
なんだか毒味に使われているみたいだな、などと考えながら、有村とふたりでコーヒーを飲み、コンビニのパンをかじった。最近はバイトがかぶることも少ないから、香澄ちゃん手製の弁当を食べることもできていない。次はいつ食べられるかな、と考えていると、
「先輩、口元からジャムこぼれてますよ」
と有村に突っ込まれた。
帰りの時間になって、僕は傘を手に歩き出した。朝から雲行きが怪しかったので、忘れずに傘を持ってきたのはどうやらいい選択だったようだ。空を覆う一面の雲はその色合いを濃くし、ぽつりぽつりと小ぶりの雨が降ってきている。これはもうすぐ本降りになるかなと思いながら、僕は足早に歩いて行った。
いつもは僕の家に先に行っているはずの香澄ちゃんだが、今日は帰り道で待っているという。
先に家に行ってていいよと言ったのだが、今日は待っていると言って聞かなかった。こんなことは初めてだったが、何か理由があるのかもしれないと思って、あまりしつこくは聞かなかった。とはいえ、もうすぐ土砂降りになろうとしている雨空の中に、彼女を一人待たせているわけにもいかない。早く迎えに行かなければ。なかば駆け足になりながら先を急ぐ。水たまりも構わず足を踏み出しながら、香澄ちゃんに渡すつもりの遊園地のチケットだけは濡らさないように気をつけた。
いつもの帰り道。曇り空の下では一層暗い道。街灯の寂しい明かりだけに照らされながら、水の匂いが満ちている森に入った。どこかで蛙がぎいぎいと鳴いている。もうそんな季節かとふと思った。香澄ちゃんと初めて帰ったときは、五月の終わりくらいかと覚えている。月日が経つのは早いものだ。しかし僕にとっては、これまでに人生で最も輝かしい期間だった。楽しい時間ほど早く過ぎるものということだろうか。
香澄ちゃんは分かれ道のところで待っていた。街灯の下で、ぼんやりと道端に咲く紫陽花を見下ろしていた。
「ごめん、お待たせ」
僕は彼女にそう呼びかけた。香澄ちゃんはゆっくりとこっちを見る。そのとき、僕はここに来て初めて、その不自然な様子に気が付いた。
振り向いた彼女の表情。
僕は訝しんだ。いつもの彼女なら、僕が現れたら、即座にぱっと笑顔を見せてくれた。花が咲くのを見るような気持ちになったものだ。一気に幸せな気持ちになったものだ。
今の香澄ちゃんは、どこかぼんやりとした表情をしている。それは端的に無機質と言っていいほどで、表情らしい表情を浮かべているとは言い難かった。表情はなかった。まるで人形のようだった。
僕は彼女と少し距離を置いた状態で立ち止まった。と言っても決して遠すぎるわけではない。普通の距離、といえばいいか。出会った頃と同じくらいの距離。手を伸ばしてもギリギリ触れられないほどの距離。
いつもならもう少し近くに行くのだけれど、そうするのが躊躇われた。少し離れた距離から、僕らはお互いの目を一瞬だけ見つめあった。
「どうしたの?」
先に口を開いたのは僕の方だった。謎の沈黙。それが孕む違和感について、問いたださずにはいられなかったからだ。しかし、彼女は何も言わなかった。
「何かあったの?」
間髪入れず問いを投げた。その声は彼女の黒い瞳に吸い込まれていった。その深い黒に消えていった。ようやく、香澄ちゃんの唇が動いた。何か言葉を発しようとしていた。しかしそれは明確な言葉を紡ごうとしない。その唇が小刻みに動いた。震えていた。
その震える彼女の唇を見て、僕は漠然とした既視感を覚えた。どこかで見たことがあるような気がする。それを思い出すまでに時間がかかった。おそらく、僕はそれを思い出すのを無意識のうちに恐れていた。記憶が呼び起こされることを拒否している。それを防衛本能と呼ぶことにすら、少しの戸惑いが生じた。
次第に、彼女の唇の震えが表情全体に伝播した。急速に全身へと伝わっていった。頬が震え、瞼が震え、肩が震え、胸が震えていた。既視感が大きくなる。見覚えがある。けれどそれを思い出せない。思い出したくない。
香澄ちゃんはその場に崩れた。座り込んだ。さしていた傘が開かれたまま濡れた道を跳ねた。少し勢いを増した雨が、彼女の肩に染みを作る。泣き出したのはそのすぐあとだった。悲痛な響きが静寂を切り裂いた。
初めて、彼女が泣くその顔を見た。
一度めはこの場所。抱きしめていたので顔は見えなかった。二度めは僕の部屋。手で顔を覆っていたから見えなかったし、何よりこの子が泣く表情を見まいと努めていた。
今は違う。僕はその表情を、ただ黙って見つめていた。放心していたというべきか、香澄ちゃんが泣き出した理由はおろか、目の前で何が起こっているのかさえわからなかった。なにしろ突然の出来事すぎて、僕の頭はすっかり混乱していた。ぼんやりとした頭で、ある意味他人事のように、これまでのことを順序立てて思い返していた。
バイト終わり、ちょっと会えるかな?
遊園地のチケット。
忘れなかった傘。
バイトを終え、急いで帰る道。
曇り空。暗い道。
蛙の鳴き声。
色あせた紫陽花。
そして泣き崩れた彼女。
思い返す中に、あのときの光景がフラッシュバックした。一度めに彼女が泣いたとき。壊れかけてしゃがんでいた彼女の姿。あのときと同じように、彼女のことを救わなければ。そう思って歩み出そうとしても、その足はとうとう動いてくれなかった。
「ごめんなさい」
その言葉にも聞き覚えがあった。どこか遠く、虚空の彼方から聞こえた音のように感じられた。幻聴。残響。そう思いたかった。
彼女は泣き続けた。その、ひどく物悲しい泣き声を、僕はさながら歌のように聞いていた。歌というならば鎮魂歌だろうか。鎮魂歌だというならば、一体誰の魂が慰められるべきなのだろう。動揺していたのか、冷静を保っていたのかわからない。微妙な心境だった。そのときのことを、残念ながらあまり覚えていない。
やがて、泣き声は次第に小さくなっていった。減退していった。雨の音が、蛙の鳴き声が、風の音が、ひときわ大きく感じられる。その中に、彼女の小さな声が混じっていった。涙に震え、形を失った声が、不安定なまま地面に落ちた。
「大好きだったのに…。ごめんなさい。本当にごめんなさい…」
また、聞いたことのあるような言葉。その言葉はかつて、僕の知らない別の誰かに向けられていた。今は僕に向けられている。僕に向けて言っている。それが僕の胸を何度も刺した。冷たくなった血が傷口から溢れ出した。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい…。
何度も反響した。執拗に繰り返された。何度も何度も、僕の胸を貫いた。傷口が膿んだように疼き、痛みに全身が戦慄いた。
「何度も忘れようと思ったのに…」
手料理を美味しいと食べた表情。お弁当を手渡されたときの感謝。初めてのデートで、必死に自分のことを楽しませようとしていた姿。そこに重なっていた、別の男の表情。
そして、僕を拒んだ夜に、香澄ちゃんの中で、気持ちが一気に噴き出した。肩を抱かれた感触が、キスしたときの暖かさが、彼のものとまったく同じだったから。
そして、目の前の僕ではなく、忘れたはずの、離れたはずの男のことを見つめるようになった。
そんなことをただ、意識の外で僕は聞いていた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい…」
話し終えた香澄ちゃんは、また先ほどと同じように、何度も何度も、僕に向けて謝った。何度も繰り返した。僕にはもう、その言葉は届いていたかったにもかかわらず。
僕はただ、何も考えられないままそこに突っ立っていた。視界には何も映っていなかった。香澄ちゃんの姿も、仄暗い街灯も、びしょ濡れのシャツも、茂みも、木々も、紫陽花も。
自分は今何をしているのだろう? 自分は今何を目の当たりにしているのだろう? 僕は当事者としてではなく、第三者のようにその場に立っていた。今目の前で泣いている彼女は、一体誰なのだろう? そんな具合に、僕の精神は自分を守ることに全力を振り絞っていた。僕の心は限界まで追い詰められていたと言ってもいいだろう。
そんな僕に、彼女へかけるべき言葉が見つかるはずもない。いっそ口汚く罵った方が、彼女は救われたかもしれない。しかし僕の思考はそんなところにすら至ることもできずにいた。そんな余裕すらなかった。そんなことは最早どうでもよかった。
僕が何も言わないでいると、香澄ちゃんは突然立ち上がり、地面に転がった傘を引っ掴むと、とうとう僕の方を一度も見ることもなく、どこかへと走り去っていった。消えていく彼女の後ろ姿を、ただ呆然と見つめた。僕の家の方とは違う、分かれ道の違う方を、彼女はただ必死に駆けていった。そしてすぐに、呆気なく見えなくなった。
取り残された僕は、しばらくそのまま立ち尽くしていた。雨の音しか聞こえなくなった、薄暗い夜道の上。雨の勢いは先程よりも増し、気づけば傘をさすことすら忘れていた僕の髪から、大粒の雨が滴って服を濡らした。
ポケットの中で、遊園地のチケットが二枚、かさりと乾いた音を立てた。それ以外のすべてはことごとく雨に濡れそぼっていた。