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「時期尚早ってやつですかね」
その翌日、バイトが終わってから、僕は有村を休憩室に呼び出した。前日のことを相談するために。
途中までは楽しい夜だったのに、彼女を意識した瞬間から、どこか微妙に歯車が狂った。果たして僕は失敗したのだろうか? だとしたらどこで失敗したというのか。何をしたことで、彼女に拒絶されたというのだろう。正解が欲しかった。そんなものがあるとすればの話だが。
「でもおかしいんですよねぇ…」
そういって、有村は頭を掻いた。どうやら本人もかなり真剣に考えているようで、長くなった煙草の灰が落とされないまま先端から垂れ下がり、ほどなくして床に落ちた。しかしそんなことも気にかけず、彼は視線を泳がせたまま何事か考えていた。
おかしい、と、有村は言った。つまり、彼自身にとってもそれは予想外の出来事だったということだろう。僕が香澄ちゃんに拒絶されたのは想定外だった。それはなぜなのか。僕は尋ねた。
「いや、先輩こういう言い方したら怒っちゃうかもしれませんけど、僕も一応いろんな女の子とお付き合いしてきたわけじゃないですか」
にわかに羨望を誘う言い方だが、事実なだけに否定ができない。普段なら数回と舌打ちを繰り返すところだが、今はそういう気分にもなれない。
「でも大体の流れは、先輩のやったこととそんなに変わりありませんよ。だってそうでしょ? 先輩もそう思ったわけじゃないですか。お家で一緒に酒飲んで、シャワー浴びて、キスまでしたら、いやもう当然オッケーってことじゃないの? って。僕だってそう思いますよ。そこまでしたのになぜ香澄ちゃんが先輩を拒否したのか、わからないんですよ」
僕は思い出す。香澄ちゃんの横顔。キスをする前に抱き寄せ、髪を撫でていたとき、彼女は僕に身を任せていた。僕の行動のすべてに委ねられていたともいうべき彼女の姿勢。
けれど僕は拒絶された。間違っていた。結果だけ見ればそうなのだろう。彼女が拒絶した理由。僕の間違いとは一体なんなのか。そして百戦錬磨の有村でさえ、その答えがなんなのかわからずにいる。
「もしかしたらキスしたとき、先輩の口がものすごくクサかったとか?」
一瞬ぎくりとしたが、その可能性は否定しなければならない。入浴を済ませたあと、髪の乾かしたし歯も磨き、念入りにうがいまでしているのだ。自分で自分の口臭や体臭などははっきりとわからないだろうが、その辺においては念を入れてある。
「まあ、先輩はそういうことは超念入りにやるでしょうから、その可能性は低いでしょうね」
そう言って有村が笑った。半分僕のことをからかっているように聞き取れたが、そこには彼なりの、僕に対する気遣いも感じられた。あまりにも僕が沈痛な表情を浮かべていたということなのだろう。こういうときには、なんだかんだでこちらを気遣う優しさも持っているから、なかなか憎めない後輩なのである。
「じゃあ何が問題なんだ?」
有村はなかば苛立ったかのようにぼりぼりと頭を掻いた。
「だからわかんないんですってば…。強いて言うなら、さっきも言ったように、時期尚早だったってことじゃないんですかね。キスまでは許せても、身体を預けるには心許ない、みたいな? 僕も女の子なわけじゃないので、そういうビミョウで、デリケートな女心なんてわからないんですよ」
女心。言いえて妙な表現というべきか。
所詮僕らは男で、香澄ちゃんは女の子だ。男と女にはそれこそ絶望的な差異がある。単純に身体構造だけじゃない。精神構造にしてみても、そこに明らかな違いがあるのだろう。
では、男の僕が、女である香澄ちゃんの正解を理解するには、果たしてどうすればいいのだろうか。新しい煙草に火をつけ、ぬるくなった缶コーヒーをすすりながら考えた。
いうまでもなく、僕が女になることはできない。特殊な技術でそれが可能になるのだろうが、体は変えられても、心を変えることは難しいだろう。無論、そんな気だって微塵もない。論の外だ。
つまり、僕は男であるという前提条件下において、女性の感情、女性の心の内を知り、理解し、受け入れなければならないのだ。それは端的にいって、まったく別の生命体のことを理解することに等しい。高く厚い壁の向こう側を探索するようなものだ。見えることもなければ、触ることもできない。
もどかしさが募る。彼女と分かり合いたいと願っておきながら、僕は彼女の気持ちに何一つ気づくことができない。
「いっそ、香澄ちゃん本人に訊くかですかね…」
有村が唸りながら、渋々と言った一言に、僕ははっとした。そうだ、どうしてこんな簡単なことに気づけなかったのだろう。座右の銘はシンプル・イズ・ザ・ベストと言ったのではなかったか。
僕にとって唯一、本当にただ一つ、頼りになるもの。頼りにするべきもの、と言い換えてもいい。それは香澄ちゃんの声だ。彼女の本音、本当の気持ちともいうべきか。それを頼りにすることができたら、手探りの暗闇にも光明が見えるのではないか。いや、そうしなければならない。それ以上に確かなことなど何もない。
いつかの夜に誓った決意が、僕の頭をもたげた。香澄ちゃんを愛する決意。香澄ちゃんの唯一になりたいと願った夜。彼女にとって安らぎを与えられる存在でありたい。
「…わかった。ありがとう有村」
言って、僕は吸いかけの煙草をもみ消し、立ちあがった。有村の心配そうな視線が僕の背中を追いかける。
彼女に訊いてみても、答えは出ないかもしれない。それでも、僕は彼女のことがもっと知りたい。傷ついても、どうなっても構わない。彼女の核心に触れなければならない。そう決意を固めた。
ふと、休憩室の入り口の方に振り返った。いつも香澄ちゃんはお弁当を抱えて、笑顔で入ってくる姿を思い出した。
付き合ってからずっと、香澄ちゃんとメールのやり取りをしていた。他愛ない話で終始するようなものがほとんどだったが、それでも香澄ちゃんからの連絡が途絶える日はなかった。起きてから眠るまで、彼女からの連絡を待ち、送り、また待つ時間だけが、僕らの間に流れていた。
週に一度か二度、香澄ちゃんが僕の家を訪問する。そして料理を作ってくれ、酒を飲み交わして帰って行く。それも日常になっていた。それはもう奇跡ではなくなっていた。
しかし、あの日からというもの、そのいつもの時間の中に少しずつ違和感を感じ始めていた。あれから彼女がシャワーを浴びに行くことはなかった。僕が彼女のすぐ真横に座ることも。僕らはいつでも、クーラーで涼しくした部屋の中で、テーブルを挟んで向かい合い、当たり障りのない話をした。顔を合わせても、メールの文面でさえも。それがどことなく、ぎこちないように感じられた。
訊かなければならないのに、いざ決意しても、あの夜の出来事を話す勇気が出なかった。拒まれたとき、彼女の目に灯った恐怖の光を忘れることができなかった。もし口にすれば、またあの色が彼女の目に宿るかもしれないと思うと、とてつもない恐怖に襲われた。
彼女を怖がらせたくない。そしてそれ以上に、彼女の口から何を聞かされるのか、僕の間違いがどんな風に糾弾されるのか、それがたまらなく恐ろしかった。そう思っただけで、呼吸を忘れてしまうほどに胸が締め付けられた。結局、どうしてもあの日の話題を避けがちになってしまう。そんな自分のことを情けないと感じることもまた、辛いことだった。
薔薇の、棘のない部分を撫でているようなものだ。恐る恐る、その茎に指を這わせる。棘を避けてゆっくりと花弁に到達することはできるが、それが薔薇の持つ美しさのすべてを知ることにはならない。いつかはその鋭さを知るときが来たとして、もしその棘に毒があったら? 美しさの片鱗に触れる代償、それが自分の命に関わるものだとしたら。大げさな比喩になってしまったかもしれないが、僕の心境を的確に描写するとしたら、これが恐らく、もっともふさわしい表現なのだろう。
こうして逃げていても何も変わらない。それだけは確かなことで、香澄ちゃんが帰ったあと、一人残される空っぽの部屋の中で、いつもそう考えさせられるのだった。あの日の覚悟が、いつまでも頭の中に、こだまのように鳴り響き続けた。呪文のように。呪文だとすれば死の宣告のように。強烈な力を持って、それは僕の胸をぎりぎりと絞め続けた。眠れない夜が何日も続いた。悪循環に陥っていた。
彼女との会話を何度も思い返すことになった。いつか有村が言っていたことを、心の中で何度も反芻した。
ーーーそういうことは彼女との会話の中から、あるいは仕草の中から、趣味嗜好を導き出して、ふたりだけの答えを出さなきゃなりません。
ふたりだけの答え。僕らだけの答え。香澄ちゃんにとって、僕ができる答えとは。
何日も考えた末、僕は彼女をデートに誘うことにした。
思い返せば、僕からはまだ一度も、香澄ちゃんにデートを申し入れたことはなかった。この間行った映画も、彼女から誘ってくれたことだ。今度は僕の方から彼女を誘わなければ。思い立ってみれば、自分でも行動は早かった。インターネットにアクセスし、気になっていたウェブサイトをチェックする。
そのとき、香澄ちゃんからちょうどメールが送られてきた。
「明後日のバイト終わり、ちょっと会えるかな?」
そろそろ彼女が家に来てくれる頃だったので、そのときに話をしてみよう。ベッドに横になると、なんだか久しぶりに、ゆったりとした眠りに落ちることができた。