序
雨が降ると思い出す。
特にこんな冷たい雨だと。
雨粒が傘を打つ音と、梢の揺れるかすかな音。
夕暮れが薄暗さを濃くするに合わせて、寂しさを増す静けさ。
世界は残酷なほど移ろうのに、現実は冷酷なまでに革まるのに、思い出だけはいつまでも変わらない。
雨が降ると思い出す。
こんな冷たい雨の日に、僕は君と出会った。
どうしようもないほど寂しくて、どうにかなってしまいそうなほど惨めで、打ちのめされたような気持ちだった僕の前に、君は現れた。
あの瞬間のことを、今でもはっきり覚えている。その小さく丸まった背中が、濡れそぼった髪が、うなだれた表情が、そのときの自分とあまりにも似ていたから。
君と過ごした日々。
すこしずつ縮まる距離。
はじめて握った君の手は、すこし暖かかくて、かすかに震えていた。
けれどその手を離そうとしなかった君のことが、愛しくてたまらなかった。
すこしずつ、すこしずつ分かりあった。
ひとつ分かるたび、どんどん君が好きになる。
思わず笑みがこぼれて、幸せな気持ちに胸が痛くなった。
恋をするこということは、水を飲むことに似ている。
寂しさに渇いた心を潤してくれる。心の渇きを癒すために恋をする。
降る雨を見上げるようにして、潤いに満たされようと望む。
それは生きるため、という極めて本能に近い行動なのかもしれない。
あのとき、僕も水を飲んだ。
けれどもそれは、”生きる”ということとは真逆のベクトルにあって、
死と生の境界が、僕の中で曖昧なものに成り下がる結果を生んだ。
君のせいじゃない。
君のことを言い訳にして、僕は自分の「生」から逃げただけだった。
何が大事なものかもわからない愚かさ、どうしようもない弱さ、呆れるくらいの脆さが生んだ罪。抱えきれないほどの重い罪。
罪人であった僕は、水よりも毒を求めていたのだろう。
甘い毒。
醒めやらぬ夢へと導いてくれる眠り薬。
価値を見出せない現実なら、いっそ幸せに満ちた死へ。
そんな幻想を本気で信じた。
若き頃の幻想、そういえばあまりに陳腐だろうか。
今から語るのはその話。
現実味がなくて、現実ではなくて、
甘くて、苦くて、
切なくて、永遠に忘れられない出来事。
一夏だけの、幸福な夢。