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怪奇Drip  作者: 因島あおい
9/21

#08『九九』

 










  ガタンゴトンッ



 軽快な音に揺られながら、全体重をほんのり温かいシートに預ける。


 少しずつ寒くなりつつある朝が通勤の電車をいつも以上に憂鬱にさせる。


 でも今日は座れただけマシか。現在8:14。目的地まではあと40分はかかる。


 この通勤時間で体力を温存できるのは大きい。いつもなら読書をしているのだが、今日はうっかり忘れてしまった。どうやって時間をつぶそうか。車窓から流れる風景は天候が悪いせいか、はたまた私の心情のせいかぼんやり灰色がかっていた。


 本音なら寝てしまいたいのだが、以前それで寝過ごしてしまい大目玉をくらった。


 「はぁ〜」


 考えるだけで気が重い。


 頭の中で今日のスケジュールを思い起こしていると、横に座っていた少女が唐突に、


 「インイチガ’イチ’、インニガ’ニ’、インサンガ……」


 周りの目なんて気にする様子もなく、堂々と言い出した。


 なんだっけ? 九九だっけ? 懐かしい……


 昔は七の段が苦手でよく先生に怒られたっけ? 今でもちゃんと言えるかな?


 一度気になるところ無性に試したくなった。さすがにこの少女のように大声で言うのは恥ずかしいので、目を閉じて暗唱することにしよう。


 呼吸を整える。


 まるで儀式のように脳内で言葉を呼び起こす。


『インイチガ’イチ’、インニガ’ニ’、インサンガ’サン’、


 ……シサン’ジュウニ’、シシ’ジュウロク’、シゴ’ニジュウ’、


 …………シチロク’シジュウシ’、シチシチ’シジュウク’、シチハ’ゴジュウロク’、


 ………………クハ’シチジュウニ’、クク’ハチジュウイチ’』


 よし、言えた。


 なんだかんだで覚えているものだな。


 フゥと一息つく。


 満足感と同時にどっと疲労感がにじみ出てきた。


 なんか凄い脳を使った気がする。


 小学校以来かな? よくこんな呪文をスラスラ言えたものだ。自分でも少し感動した。


 妙な達成感と共に目を開けた。


 「ん?」


 眼前には不思議な光景が広がっていた。


 不思議と言っても、目を開いたら会社のデスクだったわけでも、実はまだベッドの中だったなんてオチではない。


 ここは電車の中、それは間違いない。


 さっきから変わらず、電車の揺れる音は変わらず続いていた。


 目を広げて驚いたのは


 そこには誰もいなかったからだ。


 ぶっきらぼうに車内を歩いていた車掌も、新聞を器用に読んでいたおじさんも、目を固く閉じたスーツ姿の若者も、無表情で携帯をつついていた中学生も、仲良く談笑していた高校生も、目を細め眠る老人も


 私の横で九九を唄っていた少女も。


 誰も……


 周辺を見回す。


 外は明るい色が流れ、同じような風景がずっと、ずっと続いている。


 しかしその風景は灰色のそれとは少し違う、少し明るい橙色のように感じた。


 夢?


 なに? どういうこと?


 立ち上がり、声を出そうとする。


 「ヒヒッ」


 「……!!」


 刹那。


 目の前のシートにさっきの九九を唄う少女が座っていた。


 背中から嫌な汗がじんわり滲み出る。


 見逃していた? いや、違う!


 だって、だって、目の前でそんな目に映らないなんてあり得ない!


 今まで、どこに?


 言葉では言い表せない嫌な予感というものがどんどん心を侵蝕する。


 その不気味な少女は笑顔でふんふんっと鼻唄を歌い、楽しそう。


 ニコッとこちらを見て笑う。


 その笑顔に何処か狂気じみたものを感じる。


  ガタンゴトンッ


 無機質な音が、リズム良く私を揺らす


 一刻一刻が過ぎていくのが分かる。


 じわり、じわりとくる焦燥感。


 緊張? な、なんで? 喉がすごく、渇く。


 ゴクリッとつばを飲む。


 不穏な均衡状態。


 覚悟を決め、声を出す。


 「ね、ねぇ」


 名前も知らない少女を呼ぶのに、それ以上の言葉を思いつかなかった。


 「……」


 少女は何も答えない。


 ニコニコしながらこちらも見つめているだけ……


 な、なんなの? いったい。


 目を逸らしたいが、どういうわけか目を離せない。


 何故だろう? なんだか、目を逸らしたら……


 逸らしたら……


 なにか、起こりそう。


 ……


 ふと


 「…………×、××」


 よく見てると少女の口が動いている。


 耳を傾ける。


 「なに??」


 これは…… 九九?


 ボソッと…… 微かに聞こえるような声で、リズム良く、迷いなく、呪文のように言葉を繋ぐ。次第に聞こえる声が大きくなり、九の段になったときには電車の音を掻き消すほど大声になっていた。どこか機械的なその発音に、まるで朗読のテープを聴いているかのように。


 生きている声ではなかった。


 「……クハ’シチジュウニ’、クク’ハチジュウイチ’」


 ニコッと。満足そうにこちらを見てくる。


 そして……


 「お姉ちゃん」


 「!」


 少女から発せられた初めての言葉。


 それに私はなにより恐怖を感じた。


 元気溌剌な声色の中に、どこか邪気に満ちた悪魔のような声。


 悪寒が止まらない。


 そして


 「『七の段』間違えた」


 静かに、ゆっくり、腕を上げ。


 ゆっくり、まっすぐ、指を指す。


 少女の右手人差し指。その一点から手が外せない。金縛りにあったような。その少女に全ての感覚を支配されるような。


  ニコッ


 少女が笑いながら言った。


 「やり直し」

















 「わっ!!」


 思わず声に出てしまった。


 慌てて口を覆うが、周りの誰も私を見ていなかった。


 聞こえなかったのか…… よかった。


 九九を言いながら、眠ってしまったのか? イヤな夢を見た。


 時計を見ると8:17。


 電車に乗って、まだ3分しか経っていなかった。ホッとため息が出る。


 電車はガタンゴトンッとリズム良く進んでいる。


 流れゆく景色は代わり映えしない。


 ふと、前の席に座っていたおばさんに目がいった。


 エプロン姿のそのおばさんは俯いてブツブツと何か言っている。


 次第にその声が大きくなる。


 なに??


 「ぇ?」


 嫌でも聞こえるその言葉に私は血の気が引いた。


 「……×××’××ュウ×チ’、シ××ガ……」


 「!!」


 聞き慣れたその言葉。


 念仏のような。まじないのような。


 呪いのようなその言葉。


 聞きたくない!!


 耳を両手で塞ぐ。


 意識をすればするほど、その声は大きくなった。


 たくさんの声色でたくさんの九九が…


 「……ハッパ’ロクジュウシチ’、ハック’シチジュウニ’、」


 「……シニガ’ハチ’、シサン’ジュウニ’、シ」


 「…………ゴゴ’ニジュウゴ’、ゴロク’サンジュウ’、ゴシチ」


 耳を塞いだまま辺りを見回し、唖然とした。


 そして気がついた。


 目の前に座っているおばさんだけではない。


 その横のおじいさんも、その横の少年も、その横の妊婦も、その横のサラリーマンも、その横の老婆も。


 みんな、みんな、みんな…… 俯いたままブツブツと機械のように『九九』を唱える。


 誰かに呪いをかけるかのように。


 誰かに救いを求めるかのように。


 みんな、みんな、みんな……


 グイッ腕を引かれる。


 「!」


 見るとそこには、さっきの九九の少女が座っていた。


 張りついた笑顔。


 でもそれは生きているその感じは一切なかった。


 「なに!? あなたは、いったい?」


 「さぁ、お姉ちゃんも」


 少女の笑顔の中に黒い、深いなにか、圧迫感のような、ずしずしと重いものが感じる。私も? 何を?


 「ちゃんとできるまで、帰さない」


 「い、『インイチガ’イチ’、インニガ’ニ’、インサンガ’サン’」


 ぇ? なに? 口が、勝手に……


 「『……、サザンガ’ク’、サンシ’ジュウニ’、』誰か、タスケテ」


 「ほら、いろいろ考えてると、また間違っちゃうよ」


 「誰カ、誰「クカ、ダレ「シチ「シジュウニ’、ロクハ’シジュウハチ’、ロック’ゴジュウシ’、————」

















 「まったく、黒谷くろたにさんにも困ったもんス」


 昼過ぎの如月(きさらぎ)駅のホームで、悪態をつくスーツ姿の男。


 タバコを吹かせながら、ため息と不満を吐き続けている。


 電車のホームでは、電車が来るのを待つもの。


 そんな当然のことは、当然のことのように知っているんだけど、なかなか電車が来ないことに苛立ち、その当然のことも忘れそうだ。


 「矢崎(やざき)、お前あの電車乗ってこい」


 そんな上司の思いつきのような命令で俺は今電車が来るのを待っている。


 34名。


 この駅から乗車して行方不明と通報があった人の数。


 もちろん報告があるものだけで、だ。


 失踪、行方不明、神隠し。


 まぁなんでもいいが、そんなことこの日本じゃあよくあること。報告があるだけで年間5千人くらいが見つかっていない。


 どこかに行ったまま、帰ってこない。


 そんなこと、ネットでも言われているよくあること。


 だが……


 「この小さい町、しかもこの駅からで、これだけの人数ってのはやっぱ異常ッスよね」


 最近失踪した人々の写真を眺めながら、改めてそう思う。


 年代はバラバラ、失踪時刻もバラバラ。消えてるのは小学生から爺さんまで駅の利用者は無作為に、だ。


 「だったら快楽殺人者?」


 だとしたら、こんな同じ駅ばかり狙う意味がわからない。なによりリスクが高すぎる。ボロ駅だから監視カメラは無いが、駅員ぐらいはいる。いくらなんでも怪しい奴がいたら分かりそうなものだけどな。


 「あぁ〜分からんス」


 という結論で、俺は実際この電車に乗込むことになった。


 黒谷さん曰く、別に変質者を捕まえるというよりは、この駅から電車に乗ること。それがこの事件解決の糸口、らしい。


 「お、来た来た」


 電車がやってきた。


 時刻通り。


 おなじみの茜色の車体は少し古ぼけ、なんともレトロを感じる。


 この電車自体はよく見るが、よくよく考えたら乗るのははじめてか?


 「こんなん早く終えて帰りてぇ」


 タバコの火を消し、ため息と一緒に汚い灰皿に捨てる。


 そのまま吸い込まれるように車内へ歩いていった。

















  ガタンゴトンッ



 電車が不愉快に揺れながら次の目的地へ向かう。


 電車に乗込みまだ2分足らずしかたっていないのにもかかわらず、矢崎はものすごく退屈していた。あくびを噛み殺し、貧乏ゆすりも止まる気配がない。


 車内は生暖かく、シートの妙な温かさが睡魔を増幅させる。


 なんもない。


 平和そのものだ。


 そんな言葉が一番しっくりくる。


 「こんなんだったら、家で1時間仮眠取る方が正解ッスわ」


 車窓に流れる風景も日常のそれとなにも変わらない。


 こんなところじゃ事件は起こらない。


 俺が刑事だからではない。昼過ぎのこんなガラガラの車内でどうやって人を攫うんだって話。


 「とりあえず、黒谷さんにメールでも送るか」


 黒谷さんの返信によっては次の駅で降りて署へ帰ろう。


 こんな仕事、給料泥棒と言われても言い訳できない。


 「はぁ〜、のどかッスね」


 同じ車内には誰もいない。


 田舎といえば田舎だか、昼間でもこんなにいないものか? 一緒に数人乗っていた気もするが、なんともどうにも見当たらない。俺が刑事とでもバレて車両移したか?


 ま、嫌われるのは慣れっこっちゃ慣れっこ。


 そんな悪態。


 悲しいぼやき。


 車外を見ると電車の軽快な音に合わせゆらゆら景色が流れる。


 なんだかなぁ〜


 黒谷さんからの返信もまだ来ない。


 ため息と一緒に顔を上げると


 「わ!」


 目の前の席に小学生低学年くらいの少女が一人座っていた。ニコニコと気持ちの悪い笑顔でこっちを見ている。


 びびった、なんだ? さっきまではいなかったけど……


 なにはともあれ、失踪者が量産されているこの電車で、こんな幼い少女が一人でいるのは不味いんじゃないか?


 「嬢ちゃん、一人ッスか? お父さん、お母さんは?」


 そんな言葉を気にする様子もなく、少女は笑顔で言った。


 「お兄ちゃんは、九九言える?」


 「は? 九九ッスか?」


 なんだこのガキ、気色悪い……


 九九なんてガキの頃以来だから、言えるかな? わからない。


 ……


 悪寒。


 おかしい。


 刑事の経験なんてまだまだだが、やはりおかしい。


 この少女が迷子で両親を探すのを手伝おうかとか、実は家出少女でどうにか説得して保護するかとか、そう言う話ではない。


 刑事の直感。胸騒ぎ。不穏な空気。


 そんな言葉でしか片付けられないが、どうにもこうにも違和感がある。


 「嬢ちゃん、こんなところでなにしてる?」


 この少女、おかしい。


 携帯をチラッと見る。黒谷さんからの返信は来ていない。


 「……」


 嫌な沈黙が流れる。


 右目で少女を、左目で携帯を。視線をずらさないよう集中する。


 背中に一筋汗が流れる。


 選択肢は二つ。


 制圧するか、逃げるか。


 制圧……できる気がしない。こんな幼い少女に何を言うという感じだが、嫌な予感が治まらない。


 こいつは、不味い。


 それが分かってしまっていた。


 なら、逃げるか? どこに?


 考えろ。考えろ。考えろ。


 「ヒヒッ」


 少女が笑った。


 刹那。


 「!」


 車内が一瞬で息苦しくなった。


 一瞬の出来事で何が起こったかよく分からず、俺は目を疑った。


 ガラガラだった車内。


 それが、一瞬で満員になった。


 ところ狭しとヒトが現れた。


 「く、……」


 ざっと100人くらいか、ヒトが溢れる。少女との視界の間にも無数のヒトが出現し、視界が遮られる。それと一緒にその人々が口から発している言葉が車内に一気に広がる。


 「……クニ’ジュウツチ’、クサン’ニジュクシチ’、」


 「……ゴガ’ジユウニ’、ゴサン’ジュウゴ’、ゴシチ」


 「…………シク’ヨンジュウハチ’、ムイチガ’ム’、ム」


 そこはすでに狂気に溢れていた。


 それは『九九』か、それにも似つかわしくない呪文か。


 そこにいるヒトビトは老若男女問わず、九九を唱え、みんな狂っていた。


 笑っているヒト、泣いているヒト、表情がないヒト。


 「おいおいおいおい」


 最悪だ。


 その狂気の中には、知ってる顔もいくつもあった。


 最近見た。ほんの数分前に見た。


 乗車直前に見た


 失踪した人々。


 なんだ、なんだ、こりゃ


 「帰さないよ」


 耳元で声がした。


 気がつくと真横の席にさっきの少女がいた。


 引っ張り上げたような口元。そこから漏れる笑い声は、この世のものとは思えないほどに、冷たく、楽しそうで、狂っていた。

















 矢崎は夕暮れに染まった駅のベンチに座っていた。


 息は切れ、スーツもところどころ擦り切れている。


 片手には拳銃が握られ微かに震えていた。


 「ハァ、ハァ、クソが」


 とは言っても命があっただけマシ、か?


 ……本当にマシか?


 あのときのことは、よく覚えていない。


 勢いで少女を撃ち殺した。その拍子かなんなのかよく分からないが、電車が止まり、そのすきに扉をこじ開け、外へ飛び出した。


 来た線路道を、走って、走って、走った。


 途中で黒谷さんに連絡しようと思ったが、携帯をどこかで落としたらしい。


 電車内か、線路のどっかか……


 分からない。


 「ケッ、クソ! なにが平和だ! 最悪じゃねぇか!」


 そんな叫びも虚しく、誰もいないこの空間に無慈悲に木霊するだけ。


 乗客も、駅員も、動物一匹もいない。


 誰もいない、この駅で。


 クソ。


 この駅から出て、人を探すべきか?


 いや……


 なんとなくだが、分かる。


 外へ出ても、無駄なこと。


 人を探しても、無意味なこと。


 直感だが、きっと。


 手に握る拳銃が鈍く光る。


 電車の扉をこじ開ける時に何発か撃った。あと何発残っているんだろう。


 一発でも残っていたら……


 ……


 やめよう。


 「絶対に、生き残ってやる」


 そう決心し、俺はホームで電車を待った。


 電車のホームでは、電車が来るのを待つもの。


 次来る電車が、俺を元居たところに連れ戻してくれることを信じて。

















  ガタンゴトンッ



 電車は軽快に音をたて揺れている。


 その振動に注意しながら、(よすが)あおいはおそるおそるタンブラーを傾ける。


 一口分の珈琲が縁の口に流れ込む。


 「……美味しい」


 タンブラーからほろ苦い香りが溢れる。


 満足そうな縁は丁寧に蓋を閉め、それをトートバッグにしまった。その代わりに厚めの古びた本を取り出し、膝の上に広げる。


 出掛けることが珍しい縁であるが、普段の格好からエプロンが無いだけで、他は大して変化はない。


 いつもと違うところと言えば、よく分からない言葉の書いてあるトートバッグを持っているということぐらいだ。


 縁は静かに本を開き、それに目を落とす。


  ガタンゴトンッ


 この時間に電車を使う人は少ないのか、同じ車内には数人しか座っていない。


 人が少ないに越したことはない。


 きっとそんな気持ちでいるだろう縁の横に、小学校低学年ぐらいの少女が腰掛けた。見たところ大人の姿はない。


 それどころか、さっきまでいた数少ない乗客も誰もいなくなっていた。


 「ねぇ、お姉ちゃん」


 その言葉に縁は静かに本を閉じ、少女を見る。まるでそうなることが分かっていたかのように落ち着いた様子で、少女の次の言葉を待っている。


 少女は満面の笑みで言った。


 「お姉ちゃん、九九言える?」


 無邪気に溢れたその言葉。


 悪魔のようなその言葉。


 縁は無表情を少し崩し、丁寧に笑顔で言った。


 「私それは知らないな。良かったら教えてくれる?」


 「うん!」


 縁の問いかけに[[rb:爛漫 > らんまん]]に答え、少女は大きな声に九九を唄いはじめた。


 その様子を静かに見守る縁。


 しかし、その表情は優しいというよりは厳しいものだった。


 「……クハ’シチジュウニ’、クク’ハチジュウイチ’!」


 九九を満足げに言い終わると、まるで褒めてもらうのを待っている子どものように縁に向く少女。目を輝かせて次の言葉を待つ姿はまるで子犬のようだった。


 害があるようには……見えない。


 「すごいね。キミは九九が好きなの?」


 「うん! 大好き! これ言うとお母さんがいつも褒めてくれるの!」


 そんな平和なやり取り、微笑ましいような、異常なような、そんなやり取り。


 「じゃあ、キミにこれをあげる」


 そう言うと縁はトートバッグから一冊の冊子を取り出した。


 それには大きな字で『計算ドリル』と書いてあった。


 「これでもっと勉強できるね」


 「わー!ありがとう!」


 少女はそのドリルを本当に嬉しそうに受け取る。そのドリルを早速はじめようと表紙を捲る。そんな少女に、縁は一言。


 たった一言、言った。


 「はじめる前に名前書かないと」


 「う? なまえ?」


 表紙の下の方に『おなまえ』という欄があった。


 縁は微笑み、少女に鉛筆を渡す。


 素直に受け取る少女。


 しかし


 「おなまえ、おなまえ、おなまえ、おなまえ…あれ? あたしのなまえ? なに? なまえってなに? あたしはなに? だれ? なに?? あれ? あれ?」


 少女の表情から笑顔が消え、ブツブツと、なにか言っている。


 少女の手からドリルと鉛筆が落ちる。


 「おなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえおなまえ」


 少女はガクガクと全身震えだし、顔面蒼白になっていく。


 思い出してはいけないものを思い出したような。


 すべてを見失ったような、そんな表情。


 刹那。


  ギギギィィィィィィィィィ


 電車のブレーキ音。


 衝撃。


 気がつくと、そこには少女の姿はなかった。


 車内には人が戻り、日常のぼんやりとした雰囲気がそこにはあった。


 縁は残された計算ドリルを拾いトートバッグにしまう。


 そのまま何事もなかったかのように電車を出る。


 その表情は少し寂しそうで、どこか心残りがありそうなものだった。


 そんな背中を無視し、無情に電車の扉が閉まる。


 お姉ちゃん


 そんな声が微かに聞こえた気がした。


 静かに次の目的地へ向かう電車に縁は振り返らず、改札の方へ向かう。


 その改札を出たところ不機嫌そうな刑事に呼び止められたのは、また別の話。

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