表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怪奇Drip  作者: 因島あおい
8/21

#07『小羊』

 










 「おいっ、(いつき)……」


 世界は理不尽だ。


 この世は腐っている。


 別にボクは自分の誕生日に思い入れなんてないけれど、せめて、せめて、世間的にも特別の日と言われる誕生日ぐらいは平穏に暮らしたいと、普通に思っていた。


 「おいっ、樹、聞いてるのか? 金だよ、金。今週中に準備しますって言って、もう何日たってんだよ? おかげでこっちは全然遊びに行けねぇんだよ」


 それさえ、どうやら神様は許してくれないらしい。


 「おいっ、樹、シカトしてんじゃねぇよ」


 しびれを切らしたのか、庸平(ようへい)はボクの胸ぐらに掴み掛かる。体格で圧倒的に不利なボクは成す術もなく宙に持ち上げられる。


 「おいっ、樹、いい加減諦めろよ。俺に逆らう気か?」


 中学生になり、少しは楽しい学校生活を送れるかと思った。でも、現実はまったく逆だった。同級生の渋谷(しぶや)庸平。こいつが現れて、ボクの全てが終わった。誰もボクに近づかない。誰もボクを心配しない。誰もボクを……


 「シカトしてんじゃねぇぞ! ゴミが!!」


 そう言い放ち、庸平はボクを突飛ばす。ボクは勢いのまま地面に激突した。全身に衝撃が走る。その拍子にカバンの中身が辺りに散乱した。


 朦朧(もうろう)とした意識の中、痛みからか視界がぼやける。


 庸平のシルエットのそれが散乱した中から黒い何かを掴んだのが分かった。はっきりとは見えなかったが、たぶん財布だろう。


 「××っ、樹、持って××ゃねぇ×、手間××××がって」


 揺れ動く意識に、庸平の言葉がうまく聞き取れない。


 あぁ、もっとボクに力があったら……


 そんな後悔。だが、今更遅い。


 「またな」


 聞きたくないセリフだけしっかり聞こえた。


 庸平の人影が少しずつ離れていった。


 クソ、クソ、クソ。


 小さくなる憎い人影をボクは睨みつけることしかできなかった。


 痛い、寒い、辛い、辛い、ツライ……


 全身の痛みがどんどん増してきた。


 意識が遠のく。


 もうほとんど見えない庸平の背中。


 「……クソ」


 最悪の誕生日だ。


 そんな負の感情を抱き、ボクの意識は暗闇に溶けていった。

















 「まったく、心配ばっかり掛けてんなよ?」


 タバコを吹かせながらぶっきらぼうにそう言う母さんの姿を思い出しながら、ボクは朝食を取っていた。


 目を醒ました時、ボクは見慣れないベッドの上に寝ていた。


 帰りが遅いボクを心配した母さんが、公園の隅でぶっ倒れているボクを見つけて、自宅近くの診療所まで担ぎ込んでくれたらしい。


 幼い頃からよく通っていた診療所だったためか、診療所の先生も事情を聞かず、黙って痛み止めを二粒くれた。


 軽い脳震盪(のうしんとう)だったらしい。絶対安静と言う先生の言葉もあり、今日は学校を休むことになった。


 母さんも何も聞かなかった。


 何も聞かず、「弱ぇやつは無理するな」とだけ言って仕事に出かけていった。


 父のいないこの家庭にとって、収入源は母さんの稼ぎのみであり、ボクもそれは理解できていた。少し寂しい気がしたが、仕方がない。


 ボクは母の用意した朝食をすごすご食べ、薬を飲み、今度は自分の慣れ親しんだベッドに潜る。


 何もない天井に向かい、思考を巡らせる。


 もう13歳。


 まだ13歳。


 「なにも、変わらない」


 そうボソリと呟き、ボクは夢の中に落ちていった。

















 深い深い、白い闇の中に。


 真っ白な公園。


 ブランコが二つ。揺れている。


 ボクは一人。誰もいない。


 空も木も地面もモノクロの世界。


 音も風も何もない。


 あるのはブランコが二つ。


 ここはドコ?


 あ、そっか。夢の中か。


 何故かそんな確信がある。


 一歩前に進む。地面を踏む感覚はない。


 それでも風景は一歩ブランコに近づく。


  ギィ ギィ


 微かに聞こえるブランコの軋む音。


 ブランコなんて久しぶりだ。


 乗りたい。そんな衝動。


 前へ、前へ、前へ。


 ケケケッ キキキッ


 ん?


 軋む音の他に何か聞こえた。


 こどもの笑い声のような、悲鳴のような。


 誰かいるのか?


 ブランコに近づく。


 ————おいっ


 後ろから声がした。聞き覚えのあるあの声が。


 振り返ると庸平の姿があった。


 なんでだよ! ここは夢の中だろ、なんで、こいつが。


 声がでない。


 後ずさり、後ずさり。


 庸平も進んできており距離が離れない。それどころか、どんどん近づく。


 クソ、クソ、クソ。


 憎悪。憤慨。絶望。


 頭がグルグルする。


 ケケケッ キキキッ


 今度こそ、はっきり聞こえた。


 振り返るとそこにはブランコがあった。


 揺れるブランコに小学生なりたてぐらいのこどもが2人。


 ブランコを漕ぎながらこちらを向いてニコニコ笑っている。


 ボサボサの白髪。そのサイドには羊のような丸まった角。


 なんだ? こいつら??


 ————おいっ


 はっ、となり振り返ると真後ろに庸平がいた。


 いつものようにぬるりとボクを見下し、ギョロ目とした目でじっと見ている。


 やめろ! やめろ! そんな目で見るな!


 ボクが、何をしたって言うんだ!!


 やめろ、やめろよ。


 「やめろぉぉぉぉぉ!」


 はっ。


 見覚えのある天井。


 色がない部屋。


 「はぁ、はぁ、はぁ」


 自分の呼吸の音。


 首だけ動かし、辺りを見回す。


 自分の、部屋??


 手で自分の顔を触れてみる。汗でべっとり、感触がある。


 じゃあ、現実? 夢から醒めたのか?


 起き上がろうにも、力が入らない。


 急に現実に引き戻されて、まだ身体の感覚が夢から返ってきていないみたいだ。


 呼吸を整え、夢を思い出す。


 普段夢なんてまったく覚えていないんだけど、今回のはやけに鮮明に覚えていた。何故だろう。分からないけど、嫌な夢だったからか?


 「庸平……」


 ボクにとって、恐怖の対象でしかない。


 あと数ヶ月経ったら、学年が変わる。その時クラスが変わったら、少しは良くなるかな?


 いや……変わらないかな……


 クソ……


 悪態をつきながらやっとのことで身体を起こす。


 見ると、携帯のバックモニターが光っていた。


 時刻を見てビックリことが二つあった。


 一つは、もう16時を過ぎていたこと。


 もう一つは、着信7件と表示があったこと。


 着信の件数には驚きはしなかった。どうせ庸平からの電話だと思っていたからだ。そんなことを思い、携帯を開き驚いた。携帯の画面には『母さん 着信7件』となっていた。


 なんだろう、仕事が長引きそうだからごはんは勝手にしろってやつかな? だったら、メールで済ますだろうし……


 「なんだろ?」


 そんな気持ちで電話を掛け直すと、同僚と名乗る男性が電話に出た。


 そこからのことはあまり覚えていない。


 ただ覚えていることは、


 『母が事故に会い、弥生ヶ丘病院に運ばれたこと』


 『ついさっき母が息を引き取ったこと』


 ただ、ただ、それだけだった。

















 母はトラックの運転手だった。


 トラックと言っても、工事現場に資材を運ぶだけ仕事で、長距離どっか行くとかはほとんどなかった。朝早く出て、夕方には帰ってくる。そんな毎日だった。


 あんな性格だからか、「だりぃ、だりぃ」と言いながらも仕事の不平不満は言わなかった。だからその仕事がどれほど大変だとか、どれほど危険かなんて考えたことはなかった。


 ましてや、大きな事故に巻き込まれるなんて思ってもいなかった。


 「こんなことになるなんて……」


 現場監督を名乗る人物と警察官がボクの伯父さんに説明をしていた。ボクも横に付き聞いていたが、まったく頭に入ってこない。


 現実味がなかった。


 あの母が、死んだ?


 そんなこと……あるのか? まだ夢の中なのか?


 そんな虚ろな浮遊感が拭い去れない。


 自分の目が醒めない。


 しばらく話をして、伯父さんがボクの身を気遣ったのかロビーで待つよう促した。ボクは静かに頷き、席を立つ。


 病院のロビー。


 薄暗く、全てが灰色のロビー。


 受付には人がいるみたいだが、ボクの方を見向きもしない。ボクの心境を慮ってか、それとも本気で気づいていないだけか。


 ボクはボーっと宙を見る。


 同僚の男の人と電話をした後、ボクはどうしたらいいか分からず、とりあえず伯父さんに連絡をした。伯父さんもその事故のことを聞いていたらしく、すぐにボクを拾い病院へ急行してくれた。


 病院に着くとすぐに叔父は「お前は少し待ってなさい」と言い、母を確認にいった。


 その間、ロビーで待たされていたボクに知らない男がやってきて、ボクにずっと謝ってきたので、「すまなかった」「申し訳ない」等々そんな言葉だが、ボクはやはり現実味がなかった。そのままさっきまでの事情説明となっていた為、ボクはまだ母に会えていない。


 「母さん、会いたいな」


 ケケケッ キキキッ


 「!」


 思わず身体が反応する。


 この笑い声、夢の……


 ロビーの先の廊下。


 ぼんやりとした白い影が二つ。


 気のせいか? いやでも……


 こっち こっち


 やはり声がする。ボクは立ち上がり、廊下の方へ駆ける。


 その白い影はボクを見るや小走りでボクから逃げる。


 「待って」


 悲しい言葉が暗い廊下に反響する。


 クソ、おちょくりやがって……


 と悪態をつくも、思い出すかのように全身に痛みが走り、思うように足が前へでない。どんどん突き放され、とうとう白い影は見えなくなってしまった。


 「ハァ、ハァ……」


 身体中が痛い。


 クソ、あいつら、どこに?


 辺りを見回す。


 ふと。


 『安置室』


 そんな室名札が見えた。


 まさか……


 扉に手をかける。どうやら、鍵が開いているようだった。


 おそるおそる、扉を開ける。


 部屋に広がる線香の渇いた香り。


 暗闇に鈍く光る線香の芯。


 電気をつけると、やはり……顔に白い布がかかった人型があった。


 ゴクリッと唾を飲む。


 ゆっくり人型に近づき、布に手を掛け静かに捲る。


 「……母さん」


 そこには綺麗な姿の母がいた。


 ただ、眠っているだけのような。そんな姿。


 死んだとは、思えなかった。


 「……ぅう」


 思わず嗚咽が零れ、それを皮切りに今まで我慢してきた気持ちが爆発する。目から溢れんばかりの涙が流れる。


 止めどない想い。


 遣り切れない現実。


 変わってしまった日常。


 正直、我慢している気なんてあんまりなかったんだが、気づかない内にしていたのか、どんどん感情がグルグル巡る。


 不安、困惑、喪失、絶望。


 言葉じゃうまく言い表せない感情がどんどん沸き出てくる。


 クソ、なんでこんな。


 「……こんな」


  プルッ プルッ プルッ


 「!」


 携帯が鳴った。マナーにするのを忘れていたか?


 もしかしたら伯父さんかもしれない。しまったな、何も言わず来ちゃったし。


 ボクは急いで電話に出た。


 だが、それが最悪の間違った選択だった。


 「おぉ、樹」


 その声は紛うことなく、アイツだった。


 「ょ、庸平」


 いま、一番聞きたくない声だった。


 心の奥底にあるドロッとした気持ちが増幅する。


 なんだって、いま、いまなんだ? なんの為に電話なんて……


 「樹、大変だったみたいだな、お袋さん」


 「な、なん」


 なんで知っているんだ?


 「俺の親父な、土木の会社の社長してるんだ。管轄してる現場で事故があったってバタバタしてたもんだから色々聞いてたら、事故にあった女が[[rb:八白 > やしろ]]って言うっていうからまさかと思ってな」


 なんだ? こいつ……俺を心配して電話?


 「いま病院か? じゃあまた落ち着いたら話そうや、力になれることもあると思うし」


 「え?ぁ」


 なんて言った? 力になる??


 心の奥に詰まった泥が流れ落ちるようなそんな感覚だった。驚きを通り越して、今の状況が理解できなかった。


 まさか、こいつからそんな言葉が聞けるなんて。


 「それでな。俺の親父も訴訟やらなんやらになったら面倒って言うから、良いようにしてくれよ。その分の金は出すって言ってるから」


 「え……」


 何を、言って。


 「こういう事故って大変なんだよ。行政からケチついたり、訴訟とかになったら時間も金もかかるって、そもそも信頼問題なんだよ。管轄責任みたいな? 俺も親父の仕事手伝ってるから分かるんだ。やれることは早目にしておいた方がいいって」


 全身から血の気が引いた。


 「ぉ……」


 お前!


 ボクの、ボクの、ボクの!


 母さんの命をなんだと思って!


 「じゃあな、お大事に」


  ツー ツー ツー


 ……電話が切れた。


 「どぅし…… どうして……」


 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして……


 「どうして?」


 どうしてこうなる? ボクが何をした? 何か悪いことした? 迷惑掛けた? 失敗した? 壊した? 嘘ついた? 人のせいにした? 怒らした? 嫌った? サボった? 約束を破った? 殴った? 無視した? 手を抜いた? 傷つけた? 人を嘲笑った? 裏切った? 人のものを盗んだ? 諦めた? 奇跡を信じた? 死のうとした?


 なんで、なんで、なんで


 「ケケケッ」「キキキッ」


 後ろを振り返る。


 そこには2人の羊角白髪のこども。


 今度ははっきり姿が見えた。


 夢でもない。そこにいた。


 あどけない笑顔。真っ黒な目玉。


 じっとボクを見つめている。


 「なにが欲しいの?」「なにがいらないの?」


 そう聞いてきた。


 だから、ボクは答えた。


 ためらいなく、答えた。

















 ボクは部屋から外を見る。木枯らしに揺れた木々が葉っぱを飛ばし、少しずつ寂しい姿になっていく。


 参考書を読んでもなかなか頭に入ってこない。自分に言い訳しても仕方ないんだが、本当に仕方ないと思う。


 あれから、一週間。


 色んなことが起こった。


 いや、起こりすぎた。


 一つ目、母が息を吹き返した。


 あの後、魂が無理矢理入れられたようにバッと意識を取り戻した。


 医者もまさかと飛んできたが、心臓も肺も他の臓器も正常に動きだし、数日の経過入院のあと退院できるまで回復した。


 奇跡だ。まるで生まれ変わったようだ。


 医者は口々にそう言った。


 母は「あははっ」と笑っていたが、元気になって良かった。


 元気過ぎるぐらいだ。


 本当に良かった。


 二つ目、庸平がいなくなった。


 正確には自室に大量の血痕を残し消えてしまったという方がより正しい。


 事故の処理をしていた人とは別の警察官がボクのところへ事情聴取に来た。すごく感じの悪い刑事だった。その話だと、部屋には誰かが出入りした痕跡はなかったらしい。


 まるでその場で庸平が消えたとしか言いようがない。


 生死は分からないが、あの血の量だと間違いなくこの世にはいないだろう。


 要約するとそんな感じだった。


 おかげで、学校へ行くのが楽しい。庸平がいたせいで話しかけてこなかった同級生もすこしずつ声を掛けてくれるようになった。


 三つ目は……


 「ケケケッ」「キキキッ」


 羊角白髪のこどもたち。


 こいつらは今、ボクの部屋にいる。


 母には見えていないらしい。


 こいつらに願った数日後、学校から帰ってきたらさも当たり前かのようにボクの部屋にいた。


 一人はゲーム機で遊んでいた。もう一人はベッドで寝ていた。


 すげぇビックリした。


 それとよっぽどおなかが減っていたのか、ボクが隠していた美味しいチョコはすべて食われていた。


 「甘いもの好きなのか?」


 そんな呼びかけに、首を縦に降っていた。


 まるでこども。


 だけど、こいつらいったいなんなんだろ?


 「分からないけど、まぁいいか」


 とりあえず名前でもつけてあげるかな。


 「なんてね」


 さてさて……


 こんなご都合主義的な結末を、誰もが望んでいたんだろうか?


 少なくともボクは救われたが、救われなかった人だってきっといたんだろう。


 運命とか、シナリオとか、つじつまあわせとか。


 誰が死ねばよかったとか、誰が生き残ればよかったとか。


 そんな小悪魔的な発想を、誰しも場当たり的に思っている。


 思っているし、想っている。願っている。


 その結果の幸不幸なんて、誰も責任取らないくせに。


 「みんな、勝手だね」


 窓を開けるとひんやりとした肌を刺す風。


 それはすっかり冬の匂いを感じさせるものだった。


 空は清々しいほどに真っ青だった。

















 「赤ん坊が見ると泣くものって知ってますか?」


 薄暗い店内。苦く芳ばしい香りが漂うカウンターには珈琲の丁寧にドリップする(よすが)あおいと、珈琲ができるのを楽しそうに見つめる学ランを着た高校生くらいの少年の姿があった。


 「赤ん坊? なんですかなんですか? なんかのなぞなぞですか?」


 少年は無邪気に笑いながら聞き返す。


 そのあと、考えるような格好をするが、すぐにギブアップなのかわざとらしく首を傾げる。


 「いえ、まったく皆目検討もつきませんね。何なんですか?」


 少年の表情は不気味なほどに明るい。


 「地獄の絵です」


 「地獄? 地獄というと、死んだら行けると言われる血の池だったり、針山だったりの場所ですか? それの絵を見ると赤ん坊が泣くんですか?」


  コポコポコポッ


 興味津々と聞き返す少年を気にせず、縁はドリップに集中している。サーバーに落ちる黒い水滴は漆黒に輝き、まるで生きているかのようだった。


 縁は手を止め、あたためていた珈琲カップに淹れたての珈琲を注ぐ。


  ドボドボドボドボッ


 瞬間、店内に芳醇な香りが一気に広がる。


 「どうぞ」


 「お〜美味しそう! ありがとうございます!」


 少年はお礼を言い、出された珈琲に躊躇(ちゅうちょ)なくミルクをたっぷり入れ、小瓶から角砂糖を1つ、2つ、3つ摘み入れ、スプーンでかき混ぜる。


 その姿を何も言うことなく静かに見つめる縁。


  ズズズ


 わざとらしく音を立てて、珈琲を啜る。


 「うわぁ〜美味しいですねぇ〜」


 「ありがとうございます」


 マネキンのように無表情でお礼を言い、そして続ける。


 「地獄の絵ですが、いわゆる地獄極楽絵図というものです。閻魔大王、熱湯釜、赤鬼、舌切り等々地獄の題材の絵は多々あります」


 「実際に見たことはないですけど、歴史の資料集かなんかで見たことはありますね。なんか黒ずんでて古汚い、怖い絵ですよね〜」


 あっけらかんと言う少年に、縁は淡々と続ける。


 「そんな多々種類があるなかで、どの絵を見ても生まれたての赤ん坊は泣いてしまうのです」


 「へぇ〜、知らなかったな。なんでですか? あ、やっぱり顔が怖いからとか?」


 この少年のせいなのか、店はいつになくに落ち着きがなく、厳かな雰囲気は消え去っていた。しかし、縁はいつものペースで話を続ける。


 冷静沈着に、続ける。


 「いえ、そうではありません。前世の記憶、というか転生の記憶と言った方が正しいのでしょうか? 転生は一説で、地獄で改心した悪人の魂が輪廻の輪に戻されるという説があります」


 少年は表情が冷静になった。ふ〜んと、静かに頷く。


 「だから、生まれたての赤ん坊には地獄で苦しんでいた記憶がまだ残っている」


 「へぇ〜」


 面白いですね、マスター。


 ニヤリッと嫌に笑う少年。小悪魔的なその表情はどこか現実味がなく、今までの少年の無邪気さは消え去っていた。


「まぁ、すぐに忘れてしまうんですけどね」


 生きていたら、死んでいたときのことなんてどうでもいいですからね。


 一瞬、沈黙が走る店内。


 しかし……


 「いや、面白いですよ。マスター」


 先ほどまでの落ち着きのない話し方が一変した。


 代わりに不気味なほど静かに言う。


 「だって、その話が本当なら……」


 少年の口元は笑っている。


 「地獄があるってことですよね」


 表情は笑っていない。


 「行ってみたいな、地獄」


 静かな店内。空気がみるみる凍り付いていくのが分かった。縁は表情を変えず、その状況を静かに見守っている。


 まるで臨戦態勢を取るかのように、静かに……


  ガランッ ガランッ


 店の扉が開いた。


 そこにはスーツ姿の男が一人。


 凍り付いた空気が一気に溶けていく。


 少年はニコニコ笑いながら言った。


 「いやぁ〜、マスターの話面白かったです。また是非是非お聞かせいただけたら幸いです。また時が来たら、来ますんで。あ、そうそう。少しお願いがあるんでるけど。いえ、無理なお願いではないですよ? ここの角砂糖、もしよろしかったら一袋くらいいただけませんか? 甘いもの好きな小動物飼っておりまして、是非是非お願いします。お金は払いますので」


 気がつくと、いつの間にか角砂糖の小瓶は空っぽになっていた。


  ケケケッ キキキッ


 そんな小悪魔な笑い声。


 微かに聞こえた気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ