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怪奇Drip  作者: 因島あおい
7/21

#06『おいしいパンの作り方』

 










 「はぁ。今日も終電か」


 冷たい独り言が誰もいない夜道に響く。


 わざわざオフォスから離れたこの如月(きさらぎ)町にアパート借りるんじゃなかったと後悔することもあったが、もし近くに住んでいたら終電を言い訳に帰ることができなくなっていただろう。同僚はきっと今も残業をしている。


 そう思うととてもいたたまれない。


 こんな仕事辞めるべきなんだろうが、今から新しい職を探すのも難しいし、嫁ぐ相手もいない。なんとも悲しい。


 ぐぅ〜


 無意識におなかから悲鳴が(こぼ)れる。


 そういえば今日はお昼ごはんも食べてなかったっけ?


 今更何か作るのも面倒だし、しかたない。遠回りになるけど、コンビニによって帰るか。


 でも、あまり食べる気がしないんだよな。


  コツッ コツッ


 無機質な音が地面に転がる。


 昔はテンポ良くヒールを鳴らすことに少しだけ楽しさを見いだしていたが、社会人5年目ともなるとそんな遊び心はどこかへ消え失せてしまった。


 ただただ空しく、ただただ重たい。


 それに溜め息まで合わされば、自分ですらかける言葉がない。


 「はぁ……」


 駅から続く広い道を歩いているはずなのに、さすがにこの時間になると人通りはない。LEDの青白い街灯が不気味に私の行く道を照らす。


 俯き気味に歩いていると、ふと。


 「ん?」


 立ち止まる。


 別になにかがあったわけではない。いや、実際にはなにかがあったのだが見えるものじゃなく、なにか……


 なにかの……甘い香りがした。


 フルーツ系のほのかな甘い香り。


 日頃においに敏感な方でもないが、これだけ何もない時間帯だと嫌でも感じてしまう。


 「なんの香り?」


 次の角の方?


 香りのする方へ行ってみる。角の曲がった先を見てみると、町並みにある一件だけ、オレンジ色のライトが煌々と灯っていた。


 少し不気味に感じながらも香りの原因が気になって仕方がない。恐る恐る足を進める。


 建物の前まで来てみると、そこはガラス張りで中には何人か人影が見えた。扉の上には『Bakery Jam』という看板があった。どうやらパン屋さんのようだ。


 パン屋さん?


 こんなところにパン屋さんなんてあったかな?


 しかもこんな深夜に?


 時計は0:21を指している。


 でも、どう考えても香りの原因はここだった。


 中をすっと見てみると、白い帽子とエプロンを来た店員さんとお客らしいスーツ姿の男女が数人いた。


 意を決して中に入ることにした。


  ガランッ ガランッ


 ドアが開くとともに古いベルが鳴る。


 「いらっしゃいませ」


 優しい女性の声と一緒に焼きたての芳ばしいパンの香りが鼻腔に広がった。


 軽く会釈をし、店の中を見渡す。


 最近できたばかりなのか、壁も柱も新しく、はじめて来たのにクリーム色の壁や木の柱がとてもあたたかく居心地良かった。


 晩ごはんはパンでもいいか。


 トレーとトングを持ち、パンを選ぶ。


 イチゴジャムパンに、リンゴジャムパンに、アンズ、イチジク、レモン…… あれ?


 ジャムパンしかない……


 ベーグルや、クロワッサンや、食パンでさえない。


 「はじめての方ですよね?」


 気がつくと、首を傾げる私の横にエプロン姿の女性が立っていた。いつのまにか、彼女以外の人はいなくなっており、店内には彼女と私しかいない。


 丸顔、垂れ目で私よりも少し若く見える。


 「ウチはジャムパン専門のお店なんです。お気に召すものはありましたか?」


 「ジャムパン、専門?」


「はい。こんな時間に店を開いていると、仕事帰りのサラリーマンの方やOLの方が多く来店されるんで、少しでも甘いものでリラックスできればと考えまして」


 優しい笑顔でそう言われた。


 ジャムパン専門のパン屋。そんなの初めて聞いた。


 「なんて言ってますが、ただ私がジャム作るのが好きなだけなんですけどね?あ。自家製なんでカロリーも控えめですよ?材料はほぼフルーツだけですから。夜食べても太りません」


 まん丸の顔で、そう笑って言った。


 甘いもの、か。そう言えば最近食べてないな。


 というか、最近何を食べたかあまり覚えていない。


 どれも良い香りで、どれもおいしそう。


 イチジクのジャムパンなんて珍しいよね。


 折角なのでと、イチゴとイチジクとリンゴのパンをトレーに運び、レジへ行く。


 「ありがとうございます」


 店員さんは本当に嬉しそうにレジを打ち、パンを丁寧にビニール袋に詰めた。


 「またのご来店、お待ちしております」


 私はまた会釈をして店を出た。


 店を出たあとも、ビニール袋から良い香りが広がる。


 帰り道の自販機で缶珈琲買って帰ろう。


 パンを食べるのを楽しみに私は帰路を急いだ。

















  ジリジリジリジリジリ


 目覚まし時計の耳障りな音とともに目が覚める。


 うぅぅ…… 眠たい。


 必死に抵抗するが、慣れた身体は睡眠を放棄し上半身を起こした。習慣とは本当に怖い。


 まだ眠気が抜けきれない目で部屋を見渡す。すると机の上に昨日のパンの残骸が目に写った。


 今日の朝ごはんにとも思っていたのだが、結局すべて昨日の晩ごはんとして食べてしまった。パンもまだふわふわで、ジャムの味もそれぞれしっかりしていてとても美味しかった。


 また食べたいな…… 出勤前にちょっと寄ってみよう。


 シャワーを浴び、さっさと身支度をし、外へ出る。


 まだ7時前だというのに大通りはうるさく、人通りも多い。


「昨日の帰り道が嘘みたいだ」


 昨日は本当に静かだった。


 でも結局のところ、仕事行くのいやだな、というまっくろな感想に穏やかな感情が塗りつぶされる。


「はぁ〜」


 朝から溜め息。


 そんな暗い気持ちを封印するかのように玄関の鍵を閉めた。


  ガチャッ











 「そして、今日も終電っと」


 昨日と同じ(むな)しい独り言。


 この時間の電車で帰ることに慣れつつある自分自信に若干恐怖している。


 今朝だが、パン屋のカーテンは閉まっており、看板も片付けられていた。どうやら本当に夜だけやっているようで、知る人ぞ知るお店といったかんじだった。


 折角見つけたんだから、全商品制覇しよう。


 そんなちょっとしたコレクター心も感じつつ、パン屋の方へ足を進める。


 もともと、パンは嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。


 でも、あまりおなかが膨れないから社会人になってからおにぎりやパンでもベーグルのような食べ応えのあるパンを買うのが多くなっていたから、パン熱が冷めていた。


 再燃した。


 大燃焼だ。


 「あっ」


 甘い香りがしてきた。


 今日は何のジャムパンがあるかな、と楽しみな自分がいる。


 仕事帰りだけど、昨日やその前よりずっと楽だ。


 『甘いものでリラックスできれば……』


 店員さんの言葉がよみがえる。


 本当にそうだな。


 自分でも意外だったけど、甘いもの、というかジャムの力すごいと思った。


 パン屋のある角を曲がる。


 昨日と同じように明るく輝くお店。


 おなかもそれなりに空いていた。


 昨日の不安はどこへやら、私は少し足早に店の方へ歩いていった。

















 パン屋に通い詰めて一ヶ月が過ぎようとしていた時、事件が起こった。


 「きゃぁ!」


 まだまだ寝起きのまどろみも覚めない時間。


 朝ごはんにレモンのジャムパンを食べていると、部屋の隅をネズミが走っているのを見つけて、悲鳴をあげた。


 最悪だ。


 ネズミは大嫌いだ。


 実家に住んでいた時も、古い家だったせいかネズミがよく出てきて私を驚かせた。それから冷蔵庫や棚以外には食べ物はおろか調味料も出さないようにしていて、効果があったのか、それからネズミと出くわすことはなかったのに……


 ほぼ20年ぶりの再開だ。


 会いたくなかった……


 「えぇ? なんで??」


 頭の上にクエッションマークが飛ぶ。


 残飯も徹底して綺麗にしていたのに…… ここに住んで5年になるけどはじめてだ。


 隣のベランダから、かな?


 そう思い、ベランダの方カーテンをあけた。


 「!」


 漆黒。


 一匹の黒いカラス。


 ベランダのそれは丸い目を動かずじーっと、こちらを見ていた。まるで、獲物を見つけたかのような、本能剥き出しの眼光で。


 思わずカーテンを閉める。


 心臓の鼓動が全身に響く。


 背中からもじんわりと冷たい汗が滲む。


 なに? なになに??


 怖い。


 カラスってこんなに大きかったっけ?


 ていうか、なんで私のベランダに。


 椅子に座り、ひと呼吸。レモンジャムパンを一齧りし、珈琲で流し込む。


 ……ふぅ。おいしい。


 「きっと、隣の部屋のベランダに残飯か、なにかゴミを置いてて、それで寄って来ただけ、だよね?」


 ネズミも、カラスも。


 それで辻褄があう。


 きっとそうだ。


 そうに違いない。


 「よし!」


 残りのパンを平らげ、スーツに着替える。寝起きのダルそうな顔も、スーツを着ただけで引き締まるから不思議なものだ。


 今日もがんばろう。


 なにかの呪文のように自分に言い放ち、部屋のドアをあける。そのまま少し早足で颯爽と駅に向かうのであった。


 電線にとまる無数のカラスに目もくれず。











 「くるみ、香水変えた?」


 お昼ごはんを食べていると、同僚の弓子(ゆみこ)がそんなことを言ってきた。


 「香水?」


 変えてないというか、そもそもつけていないと言うか。


 「なんか、ほんのりだけど良いにおいがしたのよ」


 そういって私の肩をクンクンにおってくる。


 「やめてよ、恥ずかしい。あ、もしかして……」


 食べているパンを千切り、弓子の口に放り込む。


 もぐもぐと絵に描いたように咀嚼(そしゃく)する同僚。


 「ん? なにこのパン、美味しい」


 弓子には珍しく、目を光らせた。そんなに喜ぶとは思わなかった。私が作ったわけではもちろんないが、少し照れる。


 「でしょ? 駅からの帰りに見つけたの。ジャムパン専門店なんだけど、すごい種類があって、どれもすごい美味しいの!」


 少し得意げに話す私。


 まぁ、見つけたの私だし!


 「へぇ。どこ? くるみの家の近く?」


 そして、私はあのパン屋さんのことを説明した。


 その結果、お昼休み時間をオーバーし、弓子と一緒に上司に怒られ残業を言い渡されたのは


 私の人生にとって、最悪のシナリオだった。

















 夜。というか深夜。


 というか、2:14。


 私はタクシーに乗り、家へ向かっていた。


 疲れた。


 まさか、終電の言い訳が許されないとは……


 それでも、会社やネットカフェに泊まる気にはなれず。タクシーで帰っているというわけだ。


 2,380円。


 一人暮らしの私にとってバカにならない金額だが、それでも帰りたかったのだ。もちろん慣れ親しんだベッドでぐっすり眠りたいというのが一番だが……


 「お客さん、着きましたよ?」


 そこは私の家の前ではなく、いつもの如月駅の前だった。


 私はお金と丁寧にお礼を言いタクシーを見送った。


 「さて……」


 薄暗い街灯の道を歩く。


 なんで家に直接帰らなかったか。


 言わずも知れたことだが、もはや日課となっているあのパン屋である。家に食べるものがないのもそうだが、そうではなく。


 なんでだろう。理由は分からないが、そこへ寄らずに帰るような気になれなかった。


 なんとなく。


 あのジャムパンが食べたくなったのだ。


 あ、良い香りがしてきた。


 いつものあの角。


 「あれ?」


 そこには、明かりの一つもない真っ暗な道が広がっていた。


 店の方まで歩く。


 微かに香りを頼りに行くと、店は暗く閉まってた。


 「そっか…… 2時すぎには閉まるのか」


 残念と思いつつ扉に手をかける。


 このとき、なんで扉を開けてみようと思ったのか、まったく分からなかった。ほんとに無意識に、勝手に、私の欲望に忠実に身体が動いた。


 ガランッ ガランッ


 「!」


 静寂な空間に古いベルの音が響く。


 開いた。


 そのまま何事もなく、扉を閉じて退散すればよかったのだが、私はゆっくり扉を開き、中へ入って行った。


 「お、おじゃまします」


 聞こえるか聞こえないかの小声で遠慮がちにゆっくり進む。


 いつもの陳列棚には、まだいくらかパンが残っていた。閉店したせいなのか、すべてのパンがビニールの袋にいれられている。いつものような芳醇な香りはしない。


 店内はいつものあたたかい雰囲気もなく、ひっそりと息を潜めていた。まるで別の空間のような、そんな冷たい空気が広がっている。


 まるで、すべてが眠っているかのように。


 静寂。


 やっぱり…… 出た方がいいよね?


 不安や焦燥感からそんな気分に襲われていた。


 でも、心のどこかでこの陳列してあるパンを買って帰りたいという、欲望に駆られていた。店員さん、偶然帰ってこないかなぁ、というご都合主義の欲求。


『イチゴジャムパン』


 そうラベルしてあるパンを一つ手に取る。


 ×××


 ふと


 ×××


 「……?」


 耳を澄ます。


 なにか、声がした。


 パンを手にしたまま、おそるおそる、声がする方に行ってみる。


 レジの後ろにある通路。


 奥を見てみると、うっすら光の漏れている扉が見える。


 通っている時は気づかなかったが、どうやら奥が工房のようだ。


 うっすら、あの良い香りがする。


 そこから何か音がする。


 漏れている光を頼りに、ゆっくり扉の方へ向かう。


 音をたてないように。


 ゆっくり。


 ×××


 何を言っているかまでは分からないが、あの店員さんの声に間違いなかった。誰かと話しているのか、とても楽しそうな声のトーンで。他の誰かと一緒に仕込みでもしているのかな?


 でも、確か一人で切り盛りしているって。


 そんな思考を巡らせていると、すぐに扉に到着した。


 音が鳴らないように、ゆっくりドアノブに手を掛ける。


 ゆっくり。


 ゆっくり。


 扉が少しだけ開き、室内が少しずつ露わになる。


 刹那。


 「ぅ!」


 隙間からいっぱいに(あふ)れ出す匂い。


 甘い、甘い、煮込んで水分がなくなった果実の匂い。


 それは食べる物とは言いがたい、腐乱臭のようなものだった。


 思わず鼻を覆う。


 なに! この匂い!!


 なんの果物なのか、分からない。


 ただただ甘い。


 鼻腔にねっとり粘着して残っている重い重い空気。


 呼吸をする度に肺に広がる不快な臭気。


「……これが」


 これが、


 これが、あの美味しいパンの匂いなの?


 錯乱状態でいる私に追い打ちを掛けるかのように、


 女性の、


 いつものあの店員さんの、


 笑い声がした。


  フフフッ


 店でお客さんの相手をしているときと同じトーンで。


 優しく静かに笑っていた。


 誰か他にいるにせよ、いないにせよ。営業中と同じ声色にどこか恐怖し、どこか現実離れしたものを感じた。


 なにを、しているの?


 鼻を覆いながら、扉をもう少し開けると、中の様子が少し見えた。広いキッチンは白い蒸気で溢れていてはっきりとは見えなかったが、数え切れないほどのコンロと、煮えたぎっている鍋がぼんやり見えた。


 それと、店員さんの後ろ姿。


 お玉と鍋が当たるカンッ、カンッという音。


 やっぱり、仕込み中? でも……


 でも……


 肝心な果物がない。


 よく見えないが、テーブルの上には材料らしきものがどこにもない。ミキサーや泡立て器といった調理器具のシルエットも見当たらない。パン屋の工房なんて見たことはないが、でも。


 どうしようもない違和感。


 そうこうしているうちに、店員さんは鍋をかき混ぜる手を止める。背中が見えるだけで、表情は見えない。


 いつものエプロン姿で、


 でも、どこか楽しそう。


 後ろ姿だけでも、何故かそれが伝わってきた。


 すると、いつのまにか右手には包丁を持っていた。


 あ、これから材料を刻むのかな?


 だからまだ何も出していなかった…… とか? そんなプラス思考をしてみても、やはり心にある靄は晴れない。


 すると。


 店員さんが、左腕の袖を肘まで上げ、


 当たり前かのように、


 静かに、


 そこに包丁を当てた。


 「!」


  ッーーーー


 白い肌から、赤い赤い血液が流れる。真っ赤なそれはまるでイチゴジャムのように、トロトロと重力に身を任せて腕を伝っていく。


 そのまま。


 血は煮え詰まった鍋に落ちていった。


  グツグツグツッ


 その瞬間、そこにあった甘ったるい匂いが更に強くなる。


 「ぅ、っ……」


 息をするのが苦しい。


 なに? なんなの? これ。


 血で真っ赤に染まっていく腕。


 赤いそれは止めどなく鍋へ吸い込まれていく。


  グツグツグツッ


 鍋は、まるで餌を欲する犬のように五月蝿(うるさ)く音を立て鳴いている。


 まるで生きているかのように。


 「フフフッ」


 店員さんの笑い声。


 静かに、静かに。


 優しく、優しく。


 こどもを見守るかのように。


 赤ん坊を寝かしつけるかのように。


 鍋にむかって微笑みかけた。


 「こんどはどんな味になるかしら」











 暗い道を走った。


 どこにむかうでもなく、道がある方へ一心不乱に走り続けていた。


 店員さんのあの言葉。聞いた瞬間身体が反射的に動き、店を飛び出した。店員さん気づかれるかもしれないなんて、関係なかった。


 全身がそこにいることを拒否した。


 なにも分からないまま、真っ白のまま、走り続けた。


 走った。


 走った。


 走っ……


 「あっ……!」


 全力疾走に足がついてこず、身体のバランスが崩れる。咄嗟に腕で顔をかばい、前のめりに倒れ込んだ。


 「痛っ……」


 そのまましばらく動けなかった。


 街灯に照らされ、腕や膝からは赤い血が出ているのが分かった。


 痛み、疲れ、そして。


 店で見た光景。


 走るのを止めて、さっきの悪夢が脳内にフラッシュバックする。


 なに? なんなの?


 いつも店で見ていた店員さんのあの笑顔。


 煮え詰まった鍋。


 静かな笑い声。


 血。


 ジャムパン。


 「ぅ、っ……」


 吐き気がした。


 私が毎日、美味しい美味しいと食べていたあのジャムパン。


 あれは、あれは、あの人の血液。


 頭を振り、考えを飛ばす。


 考えたくない。そんなわけない。


 見てしまった光景を頭が拒否をする。


 考えたくない。


 嘘だ。


 あんな。あんな。あんな……


 「あんなおいしいパンにあんなもの入っているわけない!」


 静かな道に私の声が木霊していくのがわかった。


 思わず、声が出てしまった。


 やばい。


 誰か来るかもしれない。早く離れよう。


 辺りを見回すとさっき転んだ拍子にバックがふっとんでしまっていた。冷たいアスファルトの上に化粧ポーチやら財布やら中身が散乱している。


 急いで中身を拾う。


 「……あ」


 数メートル先。


 店で手に取ったイチゴジャムパンが落ちていた。


 街灯に照らされ、袋が白く光る。


 そっか。


 持ってきちゃったんだ。


 あんなに好きだったジャムパン。でも、もうそれは拾う気にも見る気にもならなかった。


  カァー


 突然の声に驚き、声がした方をみる。街灯の上にカラスが数羽止まっていた。


  カァー


 威嚇するかのように私の方を見ている。


 なに?


 パンから離れるように数歩後ろにさがる。


 すると……


 一羽のカラスがパン目掛けて下りてきた。不気味に首を傾げながら(くちばし)でつつき、無理矢理ビニールの袋を破った。


 「うっ!!」


 まただ。


 刹那。


 袋から一気に匂いが漏れだす。


 あの甘い匂い。


 「前は、前はこんなにひどい匂いじゃなかったのに……」


 そんな匂いは気にもせず、カラスはパンをつつきはじめた。そこへ、一羽、二羽とカラスが群がってきた。


 一つのジャムパンを一心不乱につつき合う。


 なに? なんなの??


 「しってますか?」


 「!」


 後ろを振り向く。


 そこには笑顔の、店員さんが立っていた。


 いつものエプロン姿で。


 片手に包丁を持った姿で。


 「あ、あ……」


 足に力が入らず、そのまま座り込む。


 逃げようとするが、身体がまったく力が入らない。


 怖い。


 怖い。


 目から涙が溢れ出てくるのがわかった。


 どうしようもない恐怖。逃れられない現実。


 「あ、いや……」


 しゃべろうにも、口から言葉が出てこない。そんな私に、店員さんは微笑み、そして、ゆっくりこちらにむかってくる。


 やだ! 来ないで!!


 そんな想いもまったく口から出なかった。自分の身体が、自分のものじゃないみたいに。


 まったくそこから動けない。


 目の前で見下ろしてくる店員さん。その笑顔はもう、この状況を楽しんでいるかのようにしか見えなかった。


  フフフッ


 怖くないよ、と。


 諭すような優しいまなざしで私を見る。


 店員さんも私と同じ目線にしゃがみ、手をのばしてくる。


 その指で、さっき転んだときの傷口を触る。


 身体がビクンっと動く。痛かったはずなのに、何故かまったく痛くなかった。


 私の血がついた指。


 その指をそのまま。


 私の口へ運んできた。


 「!」


 わけがわからなかった! でも、拒否する拒否する力もなく、そのまま。


 私は。


 その指をなめてしまった。


 「ぅッ……!」


 反射的に、


 私は店員さんを突飛ばした。


 彼女は尻餅をつき、その場に倒れ込む。


 えっ?


 あ、え?


 なに?


 なんで?


 涙は止まらない。


 もはや恐怖でもなんでもない。


 ただただ意味不明で、なにがなんだかわからない。


 どうして??


 私の血。


 お姉さんの指についた私の血。


 それは、ジャムのように甘かった。


  フフフッ


 突飛ばされた店員さんもその指をなめていた。


 笑いながら。


 楽しみながら。


 そして。


 「自分のにおいって、自分じゃわからないんですよ」


 彼女は笑顔で。


 そう言った。


 背後でなにかの気配がした。


 後ろを振り返ると、ジャムパンを堪能したカラスたちがこちらを向いている。


 まるで、獲物をみつけたかのように。


 赤い丸い目で。


  カァー


 街灯の上。


 気がついたら、無数のカラスがとまっていた。


 強烈な匂いに誘われてきたのか。


 全員赤い目をこちらにむけている。


  ザクッ


 え?


 カラスに気をとられているあいだに。


 店員さんが私の前に立っていた。


 持っているほうちょうが濡れている。


 あたりがあかく染まっていく。


 あれ?


 わたしの胸から、噴水のようにあかいものが出てきていた。


 ドロドロと。


 まるでジャムのように。


 からだは動かない。


 そのままうしろに倒れ込む。


  カァー


 カラスの声が聞こえる。


 無数のこえ。


 それも近い。


 おなかの上?


 からだが揺れる。


 なにかにつつかれているような。


 でも、痛みはない。


 なんだろう。


 よくわからない。


 逆さまの店員さんの顔が見える。


 笑ったその顔。


 まぶたが重い。


 やっぱり、ざんぎょうはよくないな。


 すごく、ねむい。


 あぁ……


 おやすみなさい。

















 「くるみのやつが言っていたの、この店かな?」


 弓子の目の前には『Bakery Jam』という看板が薄暗く光っていた。


 同僚のくるみが行方不明になって、1週間が経過した。


 最初は過重労働への抗議の意味を込めてボイコットしたのかと思ったが、その次の日も、その次の次の日も会社に来ることはなかった。


 数日前、黒谷と名乗るどこか不機嫌そうな警察に事情を聞かれ、はじめて行方不明なのだと知った。


  なにか変わった様子はありませんでしたか?


 そんなことを言われたが、まったく思い当たらなかった。あるとしたら、前日の帰りが遅かった、それぐらいだった。


 そのまま手がかりもなく、休みの日にアパートまで行ってみても、黄色いビニールテープが張られていた。電話も通じない。実家の住所も連絡先も知らない。


 素人の私にはお手上げ状態だった。


 プライベートの情報もなく、あるとしたら……


 『ジャムパン専門店なんだけど、すごい種類があって、どれもすごい美味しいの!』


 正直、この店以外手がかりはなかった。


 でも本当にこんな店あるんだ。


 こんな時間なのに、すごいにおい。


 はじめは良いにおいと思ったが、何故だろう…… どこか不気味。


 まぁ、いいか。


 扉を押す。


  ガランッ ガランッ


 「いらっしゃいませ」


 優しそうな女性の声がした。


 どうやら店員のようだ。


 丸顔で、おっとりしてそうな人。


 この人以外、誰もいない。まぁ、こんな深夜だしな。


 「あの。つかぬ事を伺いますが、くるみ…… いえ、最近これぐらいの時間に身長は私と同じくらいで、茶髪で、髪はボブより少し長いくらいの30歳手前のOLが来てませんか?」


 こんな顔なんですが、とスマートフォンで写真を見せる。


 店員はじーっと写真を見る。少し考えるような仕草をしたが、すぐに。


 「いえ…… この方はたぶん、いらっしゃってません。すみません」


 「そうですか……」


 そう言うと店員はすぐに目をそらした。


 何か知ってそうという印象ではあった。でも、私にはどうすることもできない。正直『知ってますよ』と言われても、何もできなかっただろうが。じゃあ、何をしに来たんだってかんじだが、まぁ何もしないよりは良いと思った。


 今度警察が来たときに、この店のことを教えようか。


 そんな暢気なことを考える。


 店内を見渡した。確かにくるみの言う通り、ジャムパンしかないみたいだ。


 イチゴやら、オレンジやらいろいろある。


 ふと。


 そこに一つ、気になるパンがあった。


『クルミジャムパン』


 ポコッと、頭に不気味な思考が浮き上がる。


 店員を見ると、ニコッと笑っていた。


 あぁ、なんか嫌な感じだ。


 私はそのまま店を出た。


 何も買わなかったけど、いいだろう。


 嫌な気分を振り切りたかったからか、何気なく空を見た。


 電柱に数羽のカラス。


 赤い目のそれはじーっと私の方を見ていた。


 こんな夜中にカラス?


 においに誘われたんだろうか?


  カァー


 カラスの鳴き声が静寂な夜道に木霊する。


 まるで警戒音のように響き渡るそれを聞き、私はこの店には二度と近づかないと、心に決めたのであった。

















 「甘いものって、身体に毒ですよね」


 間接照明に照らされた薄暗い店内。誰もいないせいか流れているBGMはいつもより少し大きい気がする。いつもの独り言もあまり気にならない。


 (よすが)あおいはカウンターに腰掛け、横文字の、意味がよく分からない古く分厚い本を読んでいる。


 その傍らには、湯気を立てて揺れる黒い珈琲と小皿に転がった飴色の角砂糖。


 縁はその角砂糖を一つ摘むと、それを口へ運ぶ。


  ゴリッ


 口の中で角砂糖が崩れる音。


 砂糖の甘みをゆっくり味わい、それを打ち消すように静かに珈琲を啜る。


 「……美味しい」


 ため息のように吐き出された感想は、どこか嬉しそうで店内の薄暗い雰囲気を少し明るくした。それでも、やはり暗い、なにか物足りない。そんなどうしようもない空気が漂う。


 小皿には角砂糖があと1個となっていた。


 「糖分を摂取しすぎると、肥満になるとか身体的にどうこうとも言われるけれど、それ以上に……」


 珈琲カップを右手で静かに回す。中で黒い水面がゆらゆら揺れ、映り込んでいる世界の輪郭がバラバラにぼやける。


 その様子を物悲しそうにぼんやり見つめる。


 「食べ過ぎると、自分の意志じゃ止められなくなる」


 そう言って、最後の一個を口に運ぶ。


  ゴリッ


 甘味の余韻を最後まで楽しむように、ゆっくり口の中で咀嚼する。


 すこし間を空け、店の入り口の方に目をやる。


 時刻はあと数分で午後6時になるところ。日が落ちるのが徐々に早くなるこの季節、外はもうすっかり暗くなっていた。


 「気がついたときには、もう手遅れ」


 街灯はまだ点いていない。


 溜め息まじりに放ったその言葉は、過去の懺悔からなのか、はたまた純粋な戒めからなのか。誰もいない店内にしっかり存在感を残していた。


 カップを覗き込む縁。


 黒い水面には黒い二つの目。


 「何事もやり過ぎは良くないです」


 そう言って、沈んだそれをすっと飲み干した。


  ガランッ ガランッ


 店の扉が開いた。


 そこにいた人物を一瞥(いちべつ)すると縁の固かった表情が崩れ、複雑そうな作り笑顔で言った。


 「いらっしゃいませ」

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