ちょっとそこまで……(カウンセリング日記)
その先生はいわゆる産業カウンセラーで、働く人々がつつがなく会社の業務を遂行できるように心のケアを行っている。
私の働く会社と契約しているので、正社員であれパートであれ、その会社で働く者なら、誰でも無料でカウンセリングを受けることが出来るのである。
対人恐怖症と軽いうつで、心療内科にも通い、薬を貰っている私ではあるが、先生のカウンセリングを受ける対象とは少し異なるような気もする。何故なら会社には毎日通っているし、行けば私の座る席と仕事はあるし、誰も私に意地悪なんかしないのだ。
私の心の不安定さは、仕事や会社の人間関係に起因している訳ではなく、私が生来持ち合わせている性格、プラス二年前の離婚によるものなので、このカウンセリングを受けるのは、ちょっとお門違いではないかと思う。
「かまわないのよ別に。何の相談でも」
カウンセリングを私に勧めてくれた、会社の保健室の女性は優しく言う。
「でも、もう何回も通っているし、結論が出る訳でもなく、ただ喋っているだけだし」
「だからいいのよ、それで。先生もいいって言って下さるんでしょ?」
「うん。渡瀬さんが来たいだけ来ていて下さいって」
「じゃあ、いいじゃない。無料なんだし、カウンセラーには守秘義務あるから、内容は外部に知られることもないの。会社にだって漏れる事ないから、安心して何でも聞いてもらうといいのよ」
彼女は私の背中を子供にするように撫でた。
駅前のマンション、五〇二号室。
ここはいわゆる病院ではない。おそらく会社が借りている部屋ではないかと思われる。
呼び鈴を押し、名前を告げると、インターフォンから「どうぞ」と言う声が聞こえる。
部屋に入ると、ワンルームの作りで、玄関に白いスリッパが用意してある。
奥の方で、カウンセラーの先生が椅子に座って待っている。
対面に座るのではなく、長机に向かって横並びに座る。他人と視線がかち合うのが苦手な私にとって、その座り方は有難かった。
「どうですか?渡瀬さん」
椅子に座ると、先生は最初に必ずそう言う。おそらくは同い年くらいの、やけに真ん丸い顔をして優しさを滲ませた男性である。
どうですか?と聞かれても……私はいつも返事に困ってしまう。自分の考えをうまく言葉で表現できないからだ。
「何でもいいんですよ。思いつくままに喋って下さい」
いつもそう言われるので、何の脈絡もなく、その時心に浮かんだまま、そのまんまを喋る。
だから日によっては、前回と話が正反対の時もある。
先生もそんな事は心得ているのだろう。特に気にする様子もなく、メモを取りながら熱心に耳を傾けている。
もっとも、それがカウンセラーと言う職業がなせる業なのだと言うことに、何回か通っていてわかった。たくさんの患者?いわゆるクライアントを診ているのだ。いちいち細かい事まで覚えていない筈。メモもたんなる儀礼的なもの。あなたの話を真剣に聞いていますよ、という形だけに過ぎない……と、いうことに最近気づいた。
そりゃあそう。こういう所に来る人は、みんな一様に暗いのだ。訳のわからぬ不安をグチャグチャ話すに違いない。いちいち気持ちを入れ込んでいたら、先生の心の方がどうにかなってしまう。
だからきっと一回終わる度に、頭から全て離してしまうのだろう。
それでも、その与えられた一時間だけは、先生は私の話を聞いてくれる。その時間だけは私の事だけを考えてくれる。
私は話すことで、不安の一つを自分の中から放出し、その軽減という利を得て、逆に先生はそれを受けとめることによって、金銭という利を得る。いわば需要と供給の関係。利に叶っている。だから、その日も 自分の心にずっと澱んでいた物を吐き出した。
「私、劣等感の塊なんです。何にも出来ないんです。
子供の頃から勉強もできなかった。対人恐怖症がひどくて就職活動もまともにできず、あんな超バブリーな時代に就職浪人した。
結婚も失敗し、子供も出来なかった。今のパート仕事さえ満足に出来ない、ミスばかり……この前なんか会社で倒れて救急車で運ばれちゃったし」
それは本当の話だった。先々週の夕方、仕事中急に、足元から何かが襲ってくるような感覚に襲われ、震えて倒れてしまったのだ。運悪く、会社の保健室が不在で仕方なく救急車で運ばれる羽目に……
「それは何故倒れたのですか?」
「わからないんです」
本当に分からなかった。病院に着く頃には症状が治まってしまい、結局原因は不明だった。
「うーん、渡瀬さん、僕はその場に居たわけではないから状況はわからないけれど、渡瀬さんいつも緊張感が強いから、一時的に脳貧血を起こしたんじゃないかな」
私は首を傾げた。
「わかりません。でも会社で倒れるなんて最低ですよね?」
「うん?どうして?」
先生はメモを取る手を止めて訊ねた。
「だって会社ですよ」
「会社で倒れるのは駄目なことなのかな?」
「絶対駄目ですよ!会社は仕事をする場所ですよ。仕事も満足にできないのに、倒れやがって……って絶対思われただろうし」
「絶対なの?」
「絶対です!」
先生はほんの少しため息をついた。
「本当にそうですか?」
「そうです。私、本当に駄目なんですよ。人が当たり前のように飛べるハードル、私だけ跳べないし、こんなに生きているのにこの手の中に何にも残っていないし」
「渡瀬さんてマイナスな事になると、すごく自信を持って言うんだね。絶対とか駄目とか出来ないとか……そのハードルさ、本当に他の人が跳べて渡瀬さんだけが跳べないのかな?」
「絶対、跳べないです」
「絶対なんだ?」
「えっ?あっいや絶対って訳じゃないかも知れないけれど」
先生は優しそうに笑いながら、
「そもそも人生って何か残さないといけないものなのかなあ」
先生はおそらく私のかたくなな心を解きほぐそうとしてそういう言い方をするのだろう。
「でも、せっかく生きてきたのに何か一つくらい残さないといけないような……生きた証みたいな」
「たとえば?」
「だから、仕事で成功するとか、仕事してなくても、家庭を守るとか子供を育てるとか、そういう何か一つでも……みんな何かしら残しているのに、私だけ何にもない。何にも出来ない」
「それも絶対必要なの?」
先生は俯いた私の顔を覗きこんだ。
えっ?そう言われると考えてしまう。
「何も出来ない人ってこの世にいると思う?渡瀬さんが自分でそう思っているだけでしょう?
周りの人もそう思っているっていうのも思い込みでしょ?」
先生はのんびりした調子でそう言った。
「でも……」
私が黙り込むと
「ん?」
と、先生は話を促した。
「あの、確かに人に言われたりもします。あなたは仕事もキチッと出来るし、人当たりもいい。どこででもやっていけそうなのに、何で……何でそんなに自信なさそうにしているの?って」
「ほら!」
「でも、みんな勘違いしてますよ」
「それは自分じゃない?」
先生は、私が言わんとしている事が、わかっているかのように聞いた。
「そう!それは私のことじゃないですよ」
先生はやっぱり……という顔をした。
「そうじゃないでしょう。渡瀬さんはいろんな事ちゃんと出来ているんですよ」
「違いますよ。私、六十パーセントくらいしか出来なくて、みんなそこだけしか見てないんですよ。後の四十パーセントが全然出来てないんです」
「うん?じゃ、出来ているんじゃない?」
「六十じゃ駄目ですよ。無いと同じです」
私はきっぱりと言い切った。
先生は、莫迦にするでもなく真面目な顔で、
「なるほどね。渡瀬さんみたいな人居ますよ。完璧主義、百じゃなきゃゼロ、白か黒、味方じゃなきゃ敵、オールオアナッシング、中間や曖昧が無いんでしょう?」
全てを言い当てられた気がした。
「私、もちろん頭ではわかっているんです。完璧な人や人生なんて無いことくらい。でも、そう、先生が今言ったように、全部出来ていなきゃゼロと同じなんです。気持ちがついていかないんです」
寄る辺の無い子供のように私は訴えていた。
「そうですか。渡瀬さんみたいな人は、生きづらいんですよね?だからいつも窮屈なんだ?」
「え?」
「じゃね、中間を作って下さい。五十を作って下さい。自分の中に」
簡単なことですよ、とでも言いたげに先生は言った。
「どうやって?」
「意識すればいいんですよ。思えばいいんですよ」
「何を?」
「五十の自分をですよ」
彼は頷いた。それが簡単にできれば問題ないではないか。私の表情を読み取ったのか
「渡瀬さん、ゆっくりでいいんですよ。何でも少しずつでいいんです。一つでも二つでも出来ていたら、それを五十と意識しましょう。意識しないと出来ませんよ。
たとえば渡瀬さんは毎日会社に行っているのでしょう?それはそれだけで、もう百ではありませんか?」
私は目をつむり、俯いて考えた。意識する、思う、中間の自分を、ゼロじゃない自分を。そして首を傾げる。
「確かに私、物事を一つ一つとらえたら、それなりに出来ていて、もしかしたら全部中くらいなのかもしれません」
先生は深く頷いて
「いいじゃないですか」
「でも私、性格が、最低なんです。すごく心が醜くて嫌な事ばかり考えてしまうんです。
もちろん他の人だってそんなにいい人ばかりじゃないことくらい、頭ではわかっています。でも私はきっとそれ以上に醜い。
そういう自分を意識すると、それ自体がマイナス百五十で、たとえ他が五十だとしてもトータルで考えると、もうマイナス百なんですよ」
「渡瀬さん」
「嫌なんです。そいう自分が嫌で仕方ない。私、本当に嫌な性格なんです。無神経で人を傷つけてばかり、だって別れた夫を、すごくすごく傷つけたんです。
優しい人になりたい。人の幸せを一緒に喜んであげられるくらい優しい人になりたい。優しいフリは出来るんです。でも、所詮フリだから直ぐ素の自分が出てしまう。そうするともう、マイナス百の自分ですよ」
一気にまくし立てて、思わず興奮して泣きそうになってしまった。
「渡瀬さん、僕は言いましたよね。少しずつ、ゆっくりでいいって」
「でも、私……」
先生はペンを置いて、一呼吸置いて言った。
「渡瀬さんは、回りで自分が理想としているような人、優しくて素敵な人?何でも出来る人?成功している人?を見ると、うらやましくてしかたがない。でも、その人がそうなるまでの努力とか裏の事情を少しも見ていない。結果しか見ていないんだ」
「そんな事ないですよ」
「いや、少しも見ていないよ。知識としては知っているだろうけど、少しも見ていない」
「そんな……」
私は憮然とした。先生は意に介さず続けた。
「渡瀬さんは、こうこうこうなりたいと、理想としている自分像があって、そういう人になりたいと思っている。けれどそのための努力はしたくない。すぐなりたい、夜寝て朝起きたら、そういう人になっていたい。だから、僕にどうにかしてくれと言ってるわけだ?」
「えっ?」
私は何もそんなことは……言っていたのだろうか。少しの間沈黙が走る。急に何だか可笑しくなって笑ってしまった。先生も苦笑して、
「渡瀬さんは、自分の事が好きなんだよ」
「嫌いです」
「じゃあ言葉を変えよう。自分に執着しているんだよ。渡瀬さんは、今、自分のことで精一杯なんだ。他のことを考える余裕がない。そうでしょう?」
言われてみれば、そうかも知れない。最近は自分の事ばかり考えているような気がする。なんて自己中心的なんだろう
「決して悪い事じゃないよ。自分のことをそこまで考えるのはね。全然考えない人だっているのだから。ただ、何度も言うけど、少しずつでいいんだよ。なりたい自分を意識して、少しづつ変わっていければいいんだよ。優しいフリでもいいじゃない?失敗したり、余裕が無くて嫌なこと言ったりやったりしてしまったって、それはしょうがない」
「しょうがない……?」
「そう、しょうがない!離婚してしまったことだってしょうがない。先生がしょうがないと言っていたからしょうがない!と、思いなさい」
先生は笑った。それから
「渡瀬さんよく考えてみて。きっと自分で思っているほど何も出来ない人じゃないですよ。
それにね、人間はね、出来ないとか駄目だとか否定的な事ばかり考えていると、自然にそちらの方に行ってしまうものだよ。だから、出来る、大丈夫といつも思うようにしましょう。そうすれば自ずからそうなります。大丈夫、変われますよ。ゆっくりでいいんです!」
と、言った。そして最後にもう一度
「大丈夫、大丈夫」と、頷いた。
一時間の話が終わって部屋を出た。青い空が眩しくて眩暈がしそうだった。いつもここを出るとグッタリしてしまう。
けれど、同時に何となく可笑しくもあった。
まるで私は小さな子供のよう。ああだのこうだの、先生に駄々をこねてばかり。先生も心得ているのか、子供に言い聞かせるかのごとく、大丈夫だよを繰り返す。
それでも、吐き出した後の心は、少しだけ軽く元気になっている。
「大丈夫、大丈夫」
私は上を向いて、そう自分につぶやいた。