レッスン8
私はトボトボと地下鉄駅までの道のりを歩いていた。
ショックが大きくて、どうしても俯きがちになってしまう。
一歩一歩進む自分の足の先を見ながら、悪い想像が溢れだすのを止められなかった。
……もしかしてこの失態の所為で、このままレッスン、キャンセルされちゃうかも……。
悲しくなる。
何故ここまで悲しくなるかっていう事に考えが及ぶと――――益々悲しくなる。
私――――熊野さんのコト、少し好きになりかけている。
って言うか、もう既にちょっと好きかも。
比べる対象がいないから、今いち確信持って宣言できないけど。
それなのに。
小学校の小さな事に拘って、男性との付き合いを避けていたツケがここで出たんだ。だから、失敗しちゃった……苦手なコト避けて逃げていたから。
浮足だって余計なコトばっかり言って、舞い上がって緊張してお酒の力を借りて――――結果、熊野さん……気になっている相手に失礼な振る舞いをしてしまった。
男か女かなんて関係なく。
私の行動は全く、褒められてモノでは無い。
『男なんか』と言っていた私の方がよっぽど、酷い奴だって言う……。
「は~~」
私は溜息を吐いた。
そして地下鉄駅の入口を併設しているショッピングセンタービルに入る。
ぐぅ。
お腹が鳴った。
落ち込んでいても腹は減る。
そんな健康な私の体が恨めしい。
私の体は私の気持ちに関係なく通常営業に戻ろうとしているらしい。
今日はやらかしちゃった後初めて熊野さんに顔を合わせるレッスン日の筈だったから、緊張で食事が喉を通らず朝も昼もロクに食べていなかった。
ショッピングセンターの一階に、イートインを併設したパン屋がある。お値段が手頃で種類が豊富なそのパン屋さんは、そこそこの人気店でいつも人の列が途切れる事は無かった。私はトレーとトングを持って、体の要求に応える事にした。
「腹が減っては戦はできぬ……か」
私がやっているこれは『戦』……なんだろうか。
だとすれば、何に対する戦いなのか。
疲れているからいつもの定番ラインナップを、頭を使わずトングでゲットする。
シナモンロールに、ちくわパン。
イートインで食べよう。飲み物はココアにしようか、ミネストローネにしようか……。
列に並んで横を見ると、様々な種類の食パンが並んでいる。
そうだ。食パン買っていこう。明日の朝ごはんはトーストが良いかも。
私は『道産小麦キタアカリ・六つ切り』と表示された食パンに手を伸ばした。
「あ、スイマセン」
そこで同時に手を伸ばしたらしい、列の前に並んでいるスーツの男性と手がぶつかってしまった。律儀に謝る相手に私も謝罪を返した。
「こちらこそ、スイマセン」
「……あ」
咄嗟に手を引っ込めた私の顔を、その人はマジマジと見つめていた。
え、謝り方……変だった?
「次の方、こちらへどうぞー」
ちょうどその時、空いたレジカウンターの店員さんがその人に声を掛けた。スーツの男性は食パンの袋を一つ手に取ると、そのまま振り返ってレジへ進んだ。そのすぐ後に呼ばれた私も食パンの袋を掴んで、違うレジへ向かった。
結局ココアを選んで会計を終えた後、イートインコーナーに向かった。
視線を感じて顔を上げると、先ほど私の前に並んでいたスーツの男性がこちらを見てニコニコと笑っていた。
背は高くもなく低くもなく、安心感を抱かせるような柔和な笑顔。男性と言ってもこういう人に対してなら―――私はそれほど拒否反応を抱かずに済む。
しかし何故私を見ているのだろうか?いや、後ろに知り合いがいるかもしれない。
よくそういう事がある。私に手を振っていると思ってこちらも降り返すと、後ろから私を追い越した相手と「久しぶりっ」と言って笑いあっていたり……とか。
私は関係ないような顔をして、その実「私?私のコト?」とアンテナは張りつつその人の前をトレーを持って通り過ぎようとした。
「麗華ちゃん……麗華ちゃんでしょ?」
名前を呼ばれてピタリと立ち止まる。
やっぱり私だった――――自意識過剰で無かった事にホッとして、振り返る。じゃあ、やっぱりさっき私を見ていたのは、食パンを取りあった相手を威嚇していた訳では無かったのね……などとどうでも良いコトを考えた。
「えっ……と」
会った事ある人……?
「覚えてないかな?少ししか話した事無かったけど、ピアノ教室一緒だったでしょう?」
「ピアノ……あ」
私もジロジロと遠慮なく男性の顔を見上げた。そう言われれば、少し見覚えがあるような……。
「もしかして……遥人君……?」
それは小学校の頃、同じピアノ教室に通っていた『初恋の男の子』だった。