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初恋のひと(8)【最終話】

『初恋のひと』最終話です。


六つ切り食パンの入った袋をキッチンに置き、ネクタイを外しながら俺はリビングへと足を運んだ。


少しふっくらとした奥さんが、ラグの上で倒れるように眠っている。

彼女が抱え込むようにしている更にふくふくした存在が、同じように規則正しい小さな寝息を立てていた。その傍にしゃがみ込み、艶々した乳幼児の頬っぺたに指先で触れる。




「もっちもち」




自然に笑みがこぼれる。

子供は良い。

お日様の光を浴びて笑い、オムツが濡れれば不機嫌になり、お腹が空けば泣く。

余計な事を考えずに、ただ生きている。


俺と暮らすようになったばかりの頃ガリガリだった奥さんの体は、すっかり丸みを帯びて彼女が好きな六つ切り食パンと、同じくらいふわふわになった。




彼女と結婚する事になったのは、ほとんど同情だった。




派遣社員として営業部に配属された彼女は、いつも自信なさげで危なっかしい。そんな彼女が上司にセクハラを受けている現場に出くわしたのがそもそもの切っ掛け。

自尊心が発育不良で、強い人間に付け込まれやすい。助けた俺に彼女は無条件に懐いてしまった。

だけど寄せられる好意は控えめで、決して押し付ける事は無い。彼女は最初から諦めているようだった。……自分が誰かの特別な存在になるなんて事は、頭から考えていなかったに違いない。


他の寂しい女性達と違って……彼女は俺に何も求めない。ただ美味しいお菓子を上げれば極上の笑顔を見せてくれる、ちょっと可愛い職場の華。その時はまだ、彼女は俺にとって見ていてハラハラする妹のような存在だった。

窮地を救った俺に、憧れの視線を向けている。それはヒシヒシと伝わって来た。けれども望まれてもいない相手に、手を出すつもりも無く。

一歩踏み出す事になったのは、彼女の境遇を知ってからだ。

彼女の実家はどうやら彼女にとっては居心地の良い場所では無いらしい―――いや、どちらかと言うと家の外の方が中よりずっと……人間らしい気持ちを保てる、彼女にとって安全な場所であるらしかった。


決して大事に尊重する事をせず―――かと言って簡単に手放そうともしない彼女の実家から、彼女を解放するのに一番手っ取り早い手段を選んだ。責任を取る形で彼女を混沌から救い出した時は、自分が何だかとても良い事をしたような気になって気分が良かったのを覚えている。手強い相手とやり合うのは、かなーり大変だったけれど……。


結婚し同居する事となっても、彼女の俺に対する態度は変わらなかった。


遠慮と尊敬―――彼女はこう、思っている。

俺は彼女の救世主だと。そして俺は弱っているどの女にも優しく、偶々境遇のヒドイ自分を見るに見かねて、特別に手を差し伸べただけだと。


それはあながち間違いとも言えない。

もう長らく―――否、小学校の初恋以来、俺は女性に対して恋心と言うものを抱いた経験が無かった。


俺は実際、中学校以来沢山の女性と付き合ってきた。その動機は恋心とは―――少し離れた所にある。


子供ガキの頃は、優越感と復讐心が勝っていた。そして少しのゲーム感覚―――狩猟本能と言うヤツかもしれない。

今では慣れと習慣、加えて少しの同情……ほぼボランティアの感覚に近い。孤独な女性の心を癒す事が、何となく社会に貢献しているような錯覚を起こさせるのだ。こんないい加減な俺でも、誰かの役に少しは立っているのかもしれない―――と言う気分を味合うのが、今の俺にとって、女性と付き合う主な動機となっていた。


俺の奥さんは、詮索をしない。

何かを俺に求める権利を、最初から放棄している。


彼女が俺に対して純粋に感謝しているのは―――日々の態度、目線、微笑みと声音からこれでもかという程、伝わって来る。俺も出来る限りの範囲で、彼女を気遣うし優しく接している。すると彼女は嬉しそうに笑う。けれども―――それは、まるで商店街の福引でたまたま旅行券をゲットしたような―――棚ボタな幸運を享受する事に対する喜びのようなものだ。


そう、彼女も俺に感謝しこそすれ―――恋をしている訳では無い。


だから嫉妬心など最初から抱く理由が無い。だから俺が誰と付き合おうと気にならないのだろうし、そんな事を探る気も起きないのだろう。

俺は彼女に他の女性の影を匂わせるような事は敢えてしないけれど、調べようとすれば、結婚以前から付き合いのある女性と関係が続いているかどうか確認するのは簡単な事だ。―――けれど彼女は、そんな行動を取る気は一切ないらしい。


歪だけど、居心地の良い我が家。

傍目には、何ら普通の新婚家庭と変わらないように見えるだろう。




『……奥さん大事にした方がいいよ……』




苦々しい顔で、絞り出すように言われた台詞を思い出す。

全くの正論で、これまでそう言った事を忠告された事が無い訳では無い。


だけど熊野に何を言われても、俺は馬耳東風に聞き流し、何故か現状浮気相手となっている伊吹にも―――逢瀬の際にそう呟かれ、首を捻った。


熊野が何を言おうと俺の胸には響かない。これは昔っからだ。恵まれたアイツに対する嫉妬心や対抗心から―――熊野の台詞を素直に受け取るなんて馬鹿な行動を選択する事態は、俺には今後も一切怒らないだろう。

伊吹は自分の気持ちを持て余しているのかもしれない。俺を手放さないのは、伊吹の方なのに。複雑な気持ちは分からないでは無い―――素直になれず捻くれまくった俺も、ある意味伊吹と同類だから。




だけど麗華ちゃんの苦し気な声は、尖ったキリのように俺に突き刺さった。

その痛みから、わざと目を逸らしたばかりだと言うのに。

彼女が俺に開けたのは―――見つけるのが困難なほど小さいけれど、深い深い傷だ。別れた後も時限爆弾のように……じわじわと痛みが俺の全身に広がりつつある。

それが何だか嬉しいような気がするのは一体何故なのか?―――俺に隠れた被虐趣味があるって証拠だとでも言うのだろうか?




何となく嫌な予感がして、俺は呻き声を上げた。

するとフクフクした奥さんが身じろぎを始め―――ゆっくりと瞼を開けた。

二人を覗き込んでいる俺を認め、嬉しそうに目を細め微笑む。


「お帰りなさい」

「パン買っといたよ。キッチンに置いたから」

「……ありがとう」


はにかむ彼女に、俺も微笑みを返した。




きっと俺は今後。―――同僚の伊吹との関係を、円満に終わらせるだろう。

それから可哀想な自意識の強い女達に同情を示し慰めはしても、深い関係になるのを避けるようになるだろう。

そして目の前の奥さんと娘を可愛がって……そのうち周囲が羨むような良い旦那さんになってしまうに違いない。




『奥さん大事にした方がいいよ』




それは麗華ちゃんが与えた、俺に突き刺さる呪いの言葉。


俺がよこしまな心で与えた呪いは、まっすぐで強い彼女には効かなかった。

けれども純粋に俺と奥さんを思って零された、彼女の『呪い(ねがい)』には―――どうやら怖いくらい強力なパワーが秘められているらしい。




「まったく、敵わないなぁ……」

「?」

「何でも無いよ。寝不足ツラいでしょ?もうちょっと寝てな?」

「うん、ありがとう……」




ゆっくりと瞼を閉じた彼女の頭を優しく撫でて、俺はラグに横たわる零歳児とその母親に上掛けを慎重に掛ける。そしてスーツから着替えるべく、クローゼットへと足を向けたのだった。






【初恋のひと・完】



遥人視点の後日談、終了致しました。


捻くれてしまった遥人も、麗華の『呪い返し』で少し真っすぐになると良いのですが。

アイロン掛けても頑固なクセは完全には取れないでしょうが、見掛けだけでも整えば大きな進歩(?)かもしれません。


主人公にするには少し書き辛いキャラクターでした。

お付き合いいただいた方、最後まで読んでいただき有難うございました。


次は熊野が誘う予定の彫刻公園デートか、豪太視点の後日談を追加できれば良いなと思っています。が、まだプロットはありません。少し間を置く事になりますが、また投稿できた時ご訪問いだだけると嬉しいです<(_ _)>

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