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初恋のひと(7)

「手を離せ、望月」




『ぶち殺すぞ』と言う脅し文句が聞こえるかのような殺気を籠めた凶悪な視線に、思わず呆気にとられ―――次の瞬間にはクツクツと腹の底から笑いが込み上げて来た。


馬鹿力め。

麗華ちゃんを奪還し、熊野がやっと解放した俺の手首はギシギシと痛んだ。


元プロ志望のアスリートが一般人に本気だすんじゃねーよ。


心の中で呟いたが、このタイミングで無神経な台詞を口に出すつもりは無い。サラリーマンの俺にとって、暴力沙汰は命取り。ここが引き際だと本能の判断に従う。

すると俺を押しのけるように熊野は歩み寄り、麗華ちゃんの手首を掴んで引き寄せた。


一切の抵抗なく、まるで寄り添うように引かれるままの彼女の体。

その手首はさっきまでこの俺の掌の中に確かに存在していた筈なのに。




「熊野も君を騙しているよ」




そう囁いたのは、悔しかったから。

一つだけ。―――彼女に呪いの言葉を送った。


君が俺の手に届かない存在なのだと言うのなら。

他の誰かの手によって変えられて欲しく無い。どうせ俺の物にならないのなら―――誰の物にもならないで欲しい。


眠り姫のように―――俺の言葉に呪われてしまえば良い。

城の扉を固く閉ざして―――現れる騎士、全てを拒んで眠り続ければいいのに。






そんな彼女と再び顔を合わせたのは、十数年ぶりの再会を果たす舞台となったあのパン屋だった。

細いシルエットと柔らかい曲線を描く肩で直ぐに彼女だと気が付いた。切りそろえられた黒髪は―――艶々と光の輪を纏っている。


パン屋でボンヤリとレジに並ぶ彼女を視線が勝手に捕らえてしまい、その瞬間ドキリと心臓が大量の血液を吐き出した。胸が苦しい気がするのは、きっとその所為だろう。

あの様子では俺が店に居た事に気が付いていないに違いない。既にレジを終えて店の外に出ていた俺は―――そのまま家路を辿ろうとして―――彼女の憂い顔に気が付いた。


まるで萎れた花のように見える。




俺は足に力を籠めて、パン屋の入口から出て来た彼女に歩み寄り―――肩を叩いた。




「遥人君……」





彼女は顔を強張らせた。


「なに?その嫌そうな顔」


すると、スルリと一歩下がって頭を下げる。


「では、さようなら」

「待て待て……」


がしっと手首を掴む。彼女がブルリと震えた―――全くヒドイもんだ。以前ここで再会した頃の懐かし気な笑顔は粉々に砕けて、何処かへ飛んで行ってしまったのかもしれない。


「顔見て逃げるの止めて。傷ついちゃうからさー。ちょっとお茶ぐらいいいでしょ?奢るから」


彼女はあからさまに渋面を作った。


「ええー……私、遥人君の『ハーレム』に加わる気、全く無いから―――じゃ、ごきげんよう」


思わずその辛辣な返しに、口が笑いそうになる。

麗華ちゃんってやっぱりスゴイ。何だか分からないけど、本当に面白すぎる。楽しくてますます手に力が籠った。このまま手放してしまうのは―――惜し過ぎる。


「……麗華ちゃん、熊野と付き合ってるの?熊野の方がよっぽど、酷いって分かってる?」


彼女は思いっきり眉を顰めこう言い放った。


「もしかして熊野さんのお兄さんの事?なら、全部聞いたから変な言い方しないで」


キッと視線に力を籠めて睨まれた。

けれども全く迫力が無い。かえってその顔が男の好奇心を刺激するって、分かってないんだろうな。


「何よ―――遥人君みたいな女っタラシに何言われたって、痛くないんだからね。嘘ばっかり言ってさ」

「嘘?」

「私が初恋だとか言って、騙そうとしたでしょ」


可愛いこと言うなぁ。

俺は可笑しくなって思わず微笑んでしまう。


「嘘なんか言ってないよ、俺の初恋は麗華ちゃんだ。何で嘘なんか吐く必要あるの?」

「それは―――私を騙して、一緒に泊まろうって……」

「俺、女に困って無いから。騙してまで連れてかないって」


ぷっと噴き出すと、ポカンとした顔で俺を見上げて来る。

それは半分嘘で、半分本当。

女には困ってない。だけど君を騙してまで手に入れようとしたのは……本当の事。




強引に飲み物を頼み、イートインの席まで彼女を引っ張って行く。

こういう時に遠慮しては駄目だ。やや強気に振る舞って、相手に考える隙を与えないのが―――営業の基本。


「別に取って食いやしないよ。ちょっとお茶するくらいなら、いいでしょ?」

「……」


ムッツリしながらも―――諦めたように力を抜く彼女に目を細め、内心ひっそりと安堵の息を漏らす。

自分のコントロールが聞かないほど、強引に事を進めようとした。衝動的にそんな風になってしまったのは俺には初めての経験で。まるで思春期なりたてのガキみたいに―――彼女を手に入れたくなってしまったんだ。でも決して―――嫌われたい訳じゃ無い。


「ここのパン、好きなんだね」


オズオズと話題を探すような口振りに、俺はふっと口元を緩めた。


「奥さんが好きなんだよね。だからよく買って帰る」

「奥さんが……そ、そう」


彼女は口籠り視線を落とす。そして意を決したように―――顔を上げた。


「遥人君は―――伊吹さんとも付き合っているんでしょう?」

「ん?ああ……まあ、付き合っているって言うか、彼女が落ち込んだ時に慰めているだけだよ」

「慰め……って、ただ話を聞くだけじゃあ……無いよね?」


こんな事で真っ赤になっちゃって―――可愛いなぁ。

思わずクスリと笑いが漏れる。


「俺がどんな風に慰めているかって、具体的に聞きたい?」


ぶんぶんぶんっと、激しく首を横に振るから―――俺は一瞬その激しいアクションにポカンとしてしまい。

次の瞬間。




「ぶっ……ハハハ!アッハハハ!」




耐えきれずに、お腹を抱えて笑ってしまう。


「ハハハ、ハ~……うっ……ちょっと腹、痛え……」

「笑って無いでさ……」


あまりの可笑しさに痛む腹を押さえていると、不機嫌に腕組みをする彼女が居た。


また怖い顔して。

でも全然、迫力無いし可愛いだけだっつーの。


「……奥さん大事にした方がいいよ……」


苦々しい顔で、絞り出すように言われた台詞にチクリと胸が痛んだ。

その痛みに気が付かない振りをして―――俺は反論を述べる。

君の嫌味なんか、全然胸に刺さらないよって伝えたくて。


「相変わらず真面目だね」


そう言うと、溜息を吐いて彼女は目を伏せた。

それから再び息を整えるように、暫く押し黙って―――漸く本題を切り出したのだ。




「あのさ。熊野さん……会社でどうしてる?元気かな?」




そうか。麗華ちゃん―――だから君はここに座っているのか。

おそらく顔も見たくないに違いない、傍に居るのも嫌になっている筈の俺の隣に。




「……知らないの?熊野なら、退職したよ。一週間前に」

「え……?」

「聞いてなかった?」

「うん……実は、メールが繋がらなくなっちゃて」




ポロリと彼女の唇から漏らされた本音。

渋々俺の隣に腰掛けてくれた意味を改めて突き付けられて、胸が引き絞られるように疼いた。


―――これは嫉妬だ。


経験した事の無い痛みを、麗華ちゃんは俺に与え続ける。

彼女の憂い顔。ずっと見ていたいけど、見たくない。

熊野の為にそれほど感情を動かしているのだと知るのが辛かった。


君は男の人が苦手だったんでしょ?男っぽい男は特に。

熊野はその典型だ。しかも男性嫌いを作った現況と同じ顔をして、同じ遺伝子を持っている男なのに。そんな相手の為に、何故そんな顔をしているの?


「遥人君、熊野さんは退職して今どうしているの?」

「……知りたいの?」

「知りたい!」


俺の誘いの言葉にアッサリと頷く麗華ちゃん。

熊野の為なら、嫌いな俺と距離が近づくのも厭わないんだ。

疼く胸をやり過ごしながら、俺はニヤリと笑った。


「教えてもいいけど―――後悔しない?」

「え?」


おれの言葉に端を発した、彼女の百面相。

本当に彼女は分かり易過ぎる。色んな感情が―――通り過ぎて行くのが見て取れる。

そうして逡巡した後、キュッと掌を握りしめた彼女は俺を睨んだ。


「後悔なんかしないよ!遥人君、何が言いたいの?早く教えてよ!」

「なんか―――変わったね……麗華ちゃん」

「変わりますとも」


精一杯の強気発言。


ああ熊野も―――彼女にすっかり夢中なんだろうなって、唐突に理解した。


そんな顔をして、俺が怯むと本気で思っているのだろうか。

思わずクスリと笑って軽口を言った。


「じゃあ―――俺に一晩付き合ってくれたら、教えてあげる」


ほんのつい数分前まで。嫌われきってしまう事に内心ビクついていた自分が嘘みたいに、彼女の顔まで二十センチを切る程の距離に近付いて―――その濃いチョコレート色の瞳の奥を覗き込んだ。


すると彼女はワナワナと震え出し―――怒りを込めた低い声で言い放った。




「今までの悪行、全部まとめて奥さんにバラすよ。私高橋さんと連絡先交換したの。情報残らず調べて、言いつけてやる」

「……」




思わず固まってしまった。

彼女の脅し文句に怯んだ訳では決してない。

今更そんな事で俺を脅せると思っている―――彼女の純真さに呆気に取られてしまったのだ。


彼女は全然―――不自然なくらい、子供の頃と変わっていない。

まるで子供が絶対有効な凶器だと思って振りかざす『絶交!』と言う言葉を使うのと同じ口調でそう言ったのだ。俺をそんな言葉で傷つけられると―――本気で考えているようだった。


この瞬間。俺は熊野の兄貴に感謝してしまった。

彼女はトラウマで恐怖症に近いくらい男性が苦手になってしまったと言う。

だけどその恐怖心がバリアになって―――彼女の不自然なまでの純真さが十数年経った今でもキラキラ光る化石みたいに彼女の体の中に保存されている。




駄目だ、限界!




俺は嬉しさの余り、笑いを堪えられなくなった。

ついさっき笑う俺に不快感を示した彼女の前で爆笑するのは避けたい。フイッと視線を外す。しかしヒクヒクと笑いが腹の奥から込み上げて来て―――俺は堰を切ったように肩を揺らして笑い始めた。


「なっ何がおかしいのよ……」

「ククク……アッハハ……あー、おっかしい……」


暫くそうして笑い転げ、目尻の涙を拭って顔を上げると―――心底ドン引きする彼女の冷たい視線に行き合った。


「冗談、冗談だって―――こわいな~もう……」

「じょ、じょうだん~??」


如何にも怒り心頭と言った、彼女の様子が可愛くて自然に口元が緩む。


「あー面白かった。笑わせてくれたお礼に、教えてあげる。熊野ね、海外に行ったんだ」

「え……海外?」

「どこだったかな?アジア―――シンガポールだかインドネシアだか、その辺りだった筈」

「熊野さん、何で急に……」

「兄貴の仕事を手伝うために行ったらしいよ」

「お兄さんのお仕事を……?」


途端にスッと顔を白くする彼女に苦笑を零す。

彼女は本当に―――熊野に夢中なんだ。




ゴツイ大きな掌が彼女の白くて細い手首を優しく掴み―――大人しく連行されていく様子が苦味と共に思い出される。全てをゆだねるように、ホッとする彼女の柔らかい表情に嫉妬を覚えたのが、つい昨日の事のように鮮明に思い出される。




茫然とする彼女を慰めるように、俺はできるだけ柔らかい声音で注意深く声を掛けた。


「そんな、悲しい顔しないで」


彼女の頬に手を伸ばして、覗き込むように顔を近づける。


「熊野はもともと今まで君を騙していたんだ。アイツの兄貴に虐められて学校を変わったんだろう?熊野はそれを黙って君に近づいたんだ」

「騙して……?」

「そんな奴がいなくなったからって、悲しむ必要があるか?むしろいなくなって清々するだろう?」


うつろな瞳が逡巡するように、彷徨った。

『もうひと押し』

そう心の中の誰かが呟き、背を押した。


「大学の時偶然知ったんだよ。俺のスマホで別の写真を探していて、それを偶然目にした熊野が麗華ちゃんの写真を見て動揺していたんだ。『この子は?どんな関係?』ってね。話す代わりに聞き出したんだよ、熊野の兄貴が君に嫌がらせをしたんだってね」

「でも熊野さん、私の名前知らないって言ってた……」


ショックだったのか、心細げな声で呟くように言う。

俺は彼女をどうしようもなく慰めたくなった。彼女を勇気づけたい。細やかでも力になりたい。可哀想な彼女の頬を―――そっと両手で包み込む。


「ああ、教えなかったんだ。俺、君の事、好きだったって言ったよね?熊野が麗華ちゃんの事気にしていたからアイツの事情だけ聞くだけ聞いて、俺はダンマリを決め込んだ」

「……遥人君って……」


残念な事に、彼女はその途端、ハッと我に返ってしまった。


「……下種げす!……」

「え?そう?」


パッと体を引かれてしまう。掌から熱が奪われて、置いてきぼりの気分を味わう。

けれども彼女が真剣な顔をして言った台詞が、またしても俺の笑いのツボを刺激したのだ。


「そっか……こうやって、慰められている内にいつの間にか深みに嵌っていくんだね……こっわ!」


自分を抱きしめるようにして体を擦る彼女の仕草に苦笑し―――また笑いが止まらなくなってしまう。

ああ、君って本当に―――




「ほんと、普通の女の子と反応が掛け離れているよね。麗華ちゃんって」

「遥人君に言われたくないんですけど……」




俺は彼女の呟きを聞き流した。

漸く笑いが収まったので敢えて真面目な顔で続ける。そうじゃないとまた笑い出してしまいそうな気がしたから。口を尖らせる彼女が―――あまりにも可愛らしくて。


「熊野の兄貴が麗華ちゃんに嫌がらせしていたっていうのを覚えていたからさ、それからここで麗華ちゃんに再会した時、麗華ちゃん言っていたでしょう?『クラスのリーダーの男子が乱暴で、三つ編み引っ張ったりからかったりされて男子が苦手だった。俺だけは普通に話せた』って。だからてっきり君にとっては熊野は苦手なタイプだと思っていたんだけど……好みが逆転しちゃったかな?」

「好みが変わったんじゃなくて―――『熊野さん』が好きなだけなんですっ!!」




「……」




「―――あっ」




彼女が自分の失言に気が付いて、咄嗟に口を噤んだ。




「へぇー……」




テーブルに肘をついて首を支え、目を細めた。

正直言って、全然全く面白く無い。


「つまんないの」

「へ?」

「何でもない。熊野の実家の住所なら知ってるよ。それでもいいなら後でメールしてあげる」


俺は子供みたいにソッポを向いた。

もう幾ら繕ってもしょうがない。どうせどんなに格好付けても、手練手管を使って言い寄ったとしても―――彼女の心はこちらには靡いてこない。それが嫌って言うほど分かったから。


「あ、ありがと……」


なのに君はいきなり素直になって、頬を染めてそう言った。

俺は溜息を吐いて、首を振る。


何となく感じていたんだ。

小学校の頃の麗華ちゃんは―――俺に好意を持っていてくれた筈。きっとその頃……俺は君の『特別な男の子』だった。だけどもう―――君の『特別』は違う男の物なんだね。


だったらせめて。君の事をこう呼ぶ事を許して貰えないか……?




「いーえ。麗華ちゃんは俺の……初めての『女友達』だからね。これくらいお安い御用ですよ」




飛び切りの営業スマイルで、ニッコリと笑い掛けると―――毒気が抜けたような微妙な表情で、彼女はペコリと頭を下げたのだった。



次話で遥人視点『初恋のひと』は最終話となります。

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