初恋のひと(4)
慌ただしくレジで会計を終え、まだレジに向かっているほっそりとした女性を見守った。
彼女は笑ってしまうくらい、当時の面影を残したまま成長していた。
あんなにモヤモヤと葛藤を抱えていたと言うのに、その同い年にしては妙にあどけない表情に、どうしようもなく嬉しさが込み上げてしまう。
「麗華ちゃん……麗華ちゃんでしょ?」
名前を呼ぶと彼女はピタリと立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
肩より少し短いボブスタイルと落ち着いた装いが、彼女の優しい人柄にピッタリだと思った。
一目見て直観した。彼女は変わっていない―――少なくとも俺が心配するような類の変化は彼女には起こっていない、と。
しかし残念な事に、やはり俺の方は変わってしまったらしい。
彼女は戸惑いつつ、俺をじっくりと見上げて思考を巡らしている。
「もしかして……遥人君……?」
気付いて貰えた嬉しさに、自然に笑顔が零れてしまう。
「すっごく綺麗になっていたから、すぐには分からなかったよ」
少し嘘を吐いた。
『綺麗だ』と思ったのは本当。だけど俺は直ぐに『彼女』だと分かったから。
「遥人君の方が変わっているよ。全然分からなかった。背も高くなったし、男の人っぽくなったから……」
確かに―――彼女に会わなくなってから、俺の身長は更に伸びた。それにきっと、俺は彼女が認識していたピアノ教室に通っていた頃の少年と随分外側だけでなく中身も、変わってしまったに違いない。
けれども自分を貶めるような後ろ向きの台詞を、俺は決して口には出さない。女性の前……ましてや好意を寄せていた彼女の前ではそんな事おくびにも出したくない。
「そう?小学校の頃はよく女の子に間違われたしね。麗華ちゃんも最初、俺の事女子だと思って声掛けて来たよね」
「あ、そうだったね!……ゴメンね。でも私男子が苦手だったから、勘違いしていなければ遥人君と話す機会無かったかも」
「じゃあ、俺にとっては幸運だったのかな。麗華ちゃんと仲良くなれたから」
麗華ちゃんが首を傾げた。
その昔とあまり変わらない可愛らしい仕草に思わず息を呑んでしまう。が、長年鍛えた面の皮でもって努めて穏やかな表情と物言いを崩さないよう、心掛けた。
「俺、あの頃見た目が女っぽいのがコンプレックスでさ。女子が苦手だったの。けっこう小学校高学年の女子って容赦ないからさ。クラスの女子にからかわれて女の子が苦手だったんだ。でも、麗華ちゃんはそういう事全然無くて普通に接してくれたでしょ?だからあの頃仲良かった女子って麗華ちゃんくらいだったんだ」
けれどもツルリと本心が口から滑り出してしまった。
情けない話はしたく無かったのに。でも彼女の目の前にいて、変わらない優しい様子でクルクルと表情を変えて話すのを目にしていると―――擬態や武装する気が全く削がれてしまうんだ。
「え!……そうだったの?」
案の定、彼女は俺の告白に目を丸くして驚いた。
他の女の子には絶対俺は弱みを見せたりしない。女の子に対して、俺は警戒し、出来るだけ守りを固めて弱みを握られないよう細心の注意を払っている。その事実を今鮮明に認識してしまう。―――こんな風に自然に本心を晒してしまう相手を目の前にしていると、どうしても。
「うん。そういえば、こういう話した事無かったね。……俺も男だから格好付けてたのかなぁ、細かい事気にしてる人間に見られたく無かったのかも」
すると彼女も堰を切ったように、打ち明けてくれた。
「私も……私も一緒だったよ!クラスのリーダーの男子が乱暴で、三つ編み引っ張ったりからかったりされて……男子が苦手だったの。でも遥人君だけは普通に話せたんだ。遥人君、いつも優しかったしニコニコしていて……隣にいても安心できたから」
俺は一瞬息を呑んだ。
頭の端に押し込めていた記憶がコロリと引っ張り出されて、目の前に転がった。
「そっか。そうだね―――俺は少なくとも髪の毛を引っ張ったりはしないかな」
笑いながら、コーヒーを一口飲む。
けれども俺は微かに動揺していた。
そうか。
熊野が言っていた兄貴の『嫌がらせ』ってそう言うこと。
髪を引っ張るなんて、嫌がらせの範囲を超えている。彼女は柔らかく誤魔化しているけど、同じような体験をしていた俺にはすぐ理解った。
きっと彼女は熊野の双子の兄貴に虐められていたのだろう。
そしてそれが原因で―――転校する事になったのではないだろうか?
やはり熊野に彼女の情報を与えなくて良かったと、内心胸を撫で下ろした。
正義感の高い熊野が、彼女を害するつもりが無いのは分かっている。もしかして兄貴と彼女の間を取りもとうなんて馬鹿な事を考えて、俺に麗華ちゃんの消息を尋ねたのではないだろうか?―――想像してみて、かなり有りそうな答えだなと自分でも即座に納得してしまう。
そんなのは有難迷惑以外の何物でも無い。
奴が考え付きそうな浅はかな計画だと―――俺は勝手に決めつけ憤慨していた。
彼女と連絡先を交換したのは、ただ単に懐かしかったから。
遠い頃温めていた密かな思慕は―――そこには作用していなかったと思う。
けれどもほとんど変わっていない優し気な眼差しを見て―――俺が心から安堵していたのは、変えようがない事実だった。
連絡先を交換した時の僅かに緊張した様子を目にし、ますます俺の心は歓喜に湧いた。
男慣れしていない彼女は―――やはりあの頃の麗華ちゃんと同じ女の子なだと、実感できたような気がしたから。
今の彼女は物腰も話し方もずっと成長して、ナチュラルな化粧を施した顔は確かにちゃんと大人の女性なのだけれども。
その時俺は。まさか熊野が麗華ちゃんに接触しているなんて、露程も想像していなかった。ただ同僚の熊野には決して麗華ちゃんの情報を漏らすまい―――と新たに決意を固めていた。後になってなんて自分は呑気だったんだろう、と腹を立てる事になるとは、この時は全く考えもしなかったのだった。




