初恋のひと(3)
珍しく定時で帰った日。地下鉄琴似駅を出て駅ビルの一階に出てから思い出した。
(そう言えば食パンのストック、切れていたな)
朝出る前に一応確認している。今日奥さんが買ってしまった可能性も無い訳では無いけれど……最近買い出しは休みの日に一緒に行くのが定番になっている。もしブッキングしても一斤冷凍しておけば問題ない筈。
何故俺がこういう事に気が回るのかと言うと、大学時代ずっと一人暮らしをしていたからだ。父親の転勤に母が付いて行ってしまい、難関大学に合格した俺は一人マンションに残された。以来一通りの家事は経験しているし、その辺の女の子より余程手際よく料理も掃除もこなせるようになったと思う。サークルやゼミの集まりを俺の家でやる機会も多かった。俺がチャッチャッとツマミを用意すると、男子よりも女子の方が驚いていたな。親のいない広い家の気軽さから、そのまま泊まって行く奴も結構いた―――まあ、泊まって行くのは女子が圧倒的に多かったけれど。
ある時同じ講義を受けていたメンバーで打上げをしようと言う事になり、成り行きで二次会会場が家になった事がある。その会には俺とそれ程交流がなかった熊野も参加していた。二次会に行くのは気が進まなかったようだが、奴に気がある女子と奴を気に入っている男子に両脇を固められ強引に引っ張られ、苦笑しながら参加していたと思う。
二次会はかなり盛り上がって、人数も多く居間はザワザワと人の話し声が交錯し五月蠅かった。拉麺の話題が出たので、以前行った豊平区にある行列が出来る店の写真を探していると―――隣にいた熊野に突然ガシリと腕を掴まれた。
「何?」
俺は訝し気に眉を上げた。熊野と俺は全く親しく無い。と言うかむしろ親しくしたくない。
「その子……知合いか?」
「は?どの子?」
すると熊野が俺のスマホをスッと奪い取り、画面を操作しこちらに向けた。
「この子」
それは、俺がピアノ教室で顔を合わせていた麗華ちゃんの写真だった。中学生の時に発表会で二人で一緒に撮った写真。レッスンの時間帯が変わって話す機会が激減し、発表会で久し振りに会った時に俺から提案して撮らせて貰ったのだ。かなり昔の物だが、ラーメンの画像が見つからなくて随分後戻りし過ぎていたらしい。
「……何で、そんな事聞くの?」
俺は慎重に言葉を選んだ。
発表会用に髪を編み込み、清楚なワンピースを着た彼女は美女とは言えないが十分愛らしい。ただその写真の彼女が熊野の好みで気になると言うだけなら、情報を与えるつもりは無かった。ピアノ教室を辞めてから久しく、もう会う事も無くなった彼女だが―――俺がまだこんな風にすれていなかった頃の大事な想い出の人だった。他の男に教えてやる気なんて毛頭ない、ましてや引き合わせるなんて事は有り得ない事だった。
彼女と何か約束した訳でも、特別な気持ちを交わした訳でも無い。ただ俺達はピアノ教室でちょっと顔を合わせていただけの関係。
会いたいような気はするけれど―――麗華ちゃんももう、昔の少し恥ずかしそうに笑う無垢な彼女とは違っているかもしれない。俺が変わってしまったように、彼女もきっと自分を守り何かを手に入れる為に変わってしまっただろう。そんな彼女を知って、想い出の中のあの子を汚されるのは……気が進まない。
それにもし彼女が昔と全く変わってなかったとしたら―――それこそ俺は彼女に胸を張って顔を合わせられるような気がしない。
だけど他の男にホイホイ紹介する気にはなれなかった。
ましてや、熊野。
俺はコイツが気に入らなかった。
才能に恵まれ真っすぐで鈍感で、人に貶められる事も人を貶める事も無いような男。
中学生の子供の頃ならまだ理解る。
けれども普通は誰もが諦めてしまうような、アイスホッケーのプロ選手になると言う夢を追いかけて中学卒業後すぐ海外へ飛び出し、尚且つプロ試験に合格した男だ。―――そして夢を叶える直前で怪我を負った男。さぞかし捻くれて悪い方に変わってしまっているだろうと思いきや、熊野は昔以上に真っすぐ直球の公明正大な人間になって俺の目の前に現れたのだ。
人付き合いや要領はあまりよくない。―――が、実直に取り組みキチンと成果を形にする姿勢を教授連中に評価され、特に目を掛けられている。厳しい仕事や課題を与えられるのは―――決まって奴で。それを愚痴ればまだ可愛い所もあるのだが、文句も言わず淡々と仕事をこなしているらしい。本当に全く何処から何処までも、気に喰わない奴だ。
ある日彼氏の浮気に悩むサークルの後輩と会っていた所で奴と鉢合わせし、数日後にゼミの同級生の悩みを聞いて腕に縋られて二人で歩いている所を見られて―――講義で顔を合わせた熊野は次の日俺を呼び止めて「あまりフラフラしないで勉強に集中した方が良いんじゃないか」と言ったのだ。俺は鼻で笑ってやった。
「できる範囲で必要な勉強はやっている、人付き合いのスキルを学ぶ方が社会に出た時重要なんだ」
「人付き合いと言っても、節操があるだろ?相手もお前も傷つく事になるぞ」
「ルールなんて守らない奴が多いのに、こっちだけ律儀に守ってどうする?表面上でも尊重してますって態度さえとっておけば、問題無い。別に誰にも迷惑はかけてはいない」
そう、こっちだけルールを守って大人しくしていればいいってもんじゃない。
多少白線から足を踏み外しても、地下鉄のホームに転落しそうな人間の手を引っ張れるなら―――慰められて救われる人間がいるのなら、良いじゃないかと思う。それが俺にとっても、益になるなら問題なんか無いと思う。弱い人間には慰めが必要で、別に国が定めた法律を犯している訳でも無い。
倫理を犯していると言うのなら―――その『倫理』は誰の為のルールで、どういう線引きなのか誰に対しても明確に熊野は示せると言うのか?
ルールを守っている正しい人間がいつも尊重される訳では無い。真面目な人間は弱い人間とみなされ、悪意のある相手に舐められて足を掛けられる事も多い。そうやって弱い人間に付け込むような奴は、本当は心の弱い奴だ。そんな事は熊野に言われなくても重々分かっている。―――だけど俺はそう言う奴らに貶められるのはもうゴメンだった。熊野のように元から心も体も強く生まれていれば、ルールの範囲内で真っ当に生きていても誰かに傷つけられる心配をする必要は無い。
俺は熊野は果てしなく傲慢で、救いようのない能天気だと思った。
何の因果か卒業後、同じハウスメーカーに採用され、同じ営業職になってしまった。
俺は奴に負けるのだけは絶対嫌だった。だから必死に数字を上げた。
家を買うとき一番発言権があるのは、お金を稼いでいる夫では無く家を取り仕切る妻だ。女性あしらいが得意な俺には、住宅の営業はピッタリの仕事だった。
元々熊野は営業を希望していないし、向いていない。けれども実直な人柄と豊富な知識は男性の顧客の心を掴み、奴はある程度堅調な実績を残す事に成功しているようだ。そんな処もますます真っ当過ぎて気に入らないが。
まあそんな訳で俺は「知合いに似ていて」と言うハッキリしない奴の言葉に「ふーん」と言うだけで返事をしなかった。
その時奴は引き下がったが、どうも様子がおかしい事に気が付いた。
公明正大、いつでも直球勝負―――がウリの奴とは思えない態度が、何かに引っ掛かる。案の定奴は暫く時間が経って酔いが回った後、諦めきれずにわざわざ俺に近付いて来てまた麗華ちゃんの事を訪ねて来た。
俺の誘導尋問に引っ掛かり、奴は自分と麗華ちゃんの関わりを一部分だけ漏らした。
どうやら奴には双子の兄がいて、何故か違う小学校に通っていたらしい。
そしてその兄貴は麗華ちゃんのクラスメイトで―――麗華ちゃんに嫌がらせをしていたらしい。そしてその後転校してしまった彼女がどうしているか気になっている、と。
其処まで聞いて俺に迷いは無くなった。
熊野は麗華ちゃんの敵だった奴の身内なんだ。彼女の情報を敵陣に売り渡す訳には行かない。元々熊野が気に喰わなくいから教えるつもりは無かったのだが―――麗華ちゃんの為にもキッパリはねつける事にした。勿論その時も満面の笑顔で「さぁ?あんまり昔の事だから覚えていないなぁ」と惚けてやった。
その時の熊野の顔ったら。
視線だけで人を殺せるような凶悪な顔をしていて、腹を抱えて笑いそうになった。
熊野の傍を離れまたバカ騒ぎの輪に加わった。その後宴会は更に盛り上がり皆ベロベロに酔っぱらってしまっているようだった。そろそろ終盤になった頃、俺は少し良い感じになったクラスの女の子と何となくそんな雰囲気になって廊下でキスしていた。するとトイレに入ろうと廊下に向かう扉を開けた熊野とまた鉢合わせしてしまった。そしてまた―――凶悪な顔で睨まれたっけ。
熊野は分かってないんだろうな。その子は熊野を強引に引っ張って来た子で、熊野に気があったのにケンもホロロな対応をされて落ち込んでいた。俺は熊野の後始末をしていただけなのに。
まあそんなこんなで入社しても俺は今までの流儀を変えず、熊野に冷たい目で睨まれ、それなのに熊野に惚れて空回りしている伊吹のような女の子を慰めたりして、また奴の後始末をしている。熊野が恋愛トラブルに巻き込まれないのは、偏に俺のお陰と言っても過言では無い(かもしれない)。
もし同じ会社に熊野が入社しなかったら―――俺は意地みたいにこの姿勢を貫き通していたかどうか、分からない。
俺は自分が間違っていると、思いたく無かったのかもしれない。
俺がもし熊野みたいに生まれていたら―――と言う事は決して考えるまい、と思うたび。……熊野を自分が内心肯定してるような気がする……が、そう言う非生産的で余計な思考はすぐに頭の中から追い出すようにしている。
(確か六つ切りだったよな)
俺はたくさんの種類の食パンが並べられた棚に手を伸ばした。
すると同時にスッと伸びて来た白くて細い指と出会いがしらにぶつかってしまう。
「あ、スイマセン」
咄嗟に謝ると、白い指の主から「こちらこそスイマセン」と逆に謝られた。軽やかな響きが鼓膜を揺さぶる。俺は信じられないものをそこに見つけ、息を呑んだ。
そこに居たのは―――俺が会いたくて会えなくて―――時折そっと懐かしく思い出していた―――ピアノ教室で出会った優しい存在、麗華ちゃんその人だったのだ。




