初恋のひと(2)
俺は地下鉄琴似駅にほど近いマンションに住んでいる。まだ二十五歳だから、勿論賃貸だ。だけど何れは自社施工で郊外に戸建て住宅を建てたいと思っている。俺は人当たりと女性あしらいの上手さで若手では一番の売り上げを誇る、地元ハウスメーカー営業担当のホープなのだから、当然と言えば当然のことかもしれないけど。―――庭がある方が子育ての環境には良いと思うし、家庭菜園を趣味としている奥さんも喜ぶ筈だ。
まだマンションに住んでいるのは、仕事が忙しく駅近物件が楽だからと言う理由の他に、結婚が突発的なものだったと言うのもある。つまり奥さんとは今時はあまり珍しく無い『デキ婚』なのだ。
彼女は駅ビルに店舗を構えているパン屋がお気に入りだ。だからパンのストックを確認しておいて、切れていれば偶に好きそうなものをお土産に買って帰る。朝から晩まで授乳とオムツ替えで彼女は睡眠時間を取れず、常にウツラウツラしている状態だ。彼女は遠慮して俺に買い物をあまり頼まないのだが―――冷蔵庫を覗いていつも常備している物が切れていた時、駅ビルのスーパーが空いている時間帯であれば購入して補充して置く事もある。
自分でも結構マメな性質だなぁ、と思う。女性陣はこういう処を『気が利く』と言って喜ぶが、大人になった今ではもうそんな行動は体の一部になっていて、子供の頃誰かの気を引こうと意識してやっていた時のように、いちいち気を配って行っている訳では無い。
同僚の熊野などは見た目からしてゴツイし、きっと恋人にはキチンと応対するのだろうが、周囲の女の子に対して、誰彼構わずそう言う気配りをするタイプでは無い。
アイツとは何の因果か中学と大学が一緒だが、容姿も性格も俺と正反対。おそらく子供の頃から体格が良く見た目も中身も男らしかったんだろう―――中学で初めて奴を見た時、一見高校生に見えるくらい一際大きく目立っていた。俺が女子に囲まれている時、奴はいつも男子に囲まれていた。
俺がああいう風に生まれていたら……女子に虐められて心を痛めるなんて経験しなかっただろうな、と思う。精神的にも図太いと言うかかなり鈍感で、女子が下心を持って近づいても天然を発揮してスルーしてしまう。中学生の頃はまだ仕方が無いと思うが、卒業後カナダへアイスホッケーの為に留学をして―――プロ入り直前に怪我をしたとかで帰国した後も、女のアプローチに対する奴の鈍さは変わらず国宝級だった。
外国に行ったんだから、普通はもっと女慣れするだろうと思うが―――率直に言わない限り奴が他人の好意に気が付かないのは変わらなかった。彼女がいたこともあった筈だが、おそらくツマミ食いとか同時進行などは考え付きもしないのだろう。奴に気のある女の、思わせぶりな誘いには全く乗って来ない。あるいは本当にただ、気が付いていないだけなのかもしれない。
『あわよくば』と奴に近付いてスルーされ落ち込む相手を慰めるのは―――大学の頃から俺の役割だった。そう言う事には鼻が利く。奴には俺に感謝して欲しいくらいだ。『天然男』が平穏無事に暮らしていけるのは、俺の陰のサポートあっての事なのだから。
現に同じ会社に就職した今でも、そうだ。
同僚の伊吹は、いつも熊野を気にして突っかかって行く。それが気持ちの裏返しの行為だと、熊野は全く気が付いていない。単に好みじゃ無いのかもしれないけど。
伊吹は頑張り屋で気が強い、少し野心家なのが鼻に付く女だった。
見た目が良く、運動も勉強も得意で弱い人間を思い遣るスキルが少々低い。建築専門職で採用された同期の女は三人だけで、高橋は小っちゃいけど姉御肌でサッパリしたタイプ、林はおっとりのんびりしてるけど、芯が強いタイプ、そして伊吹は見た目もピカイチでハキハキと社交的なタイプだった。しかし彼女は万事言い過ぎるきらいがある。それは内面の弱さを隠す鎧であり牽制であるのだと言う事は―――ちょっと察しが良い奴なら直ぐに気づくに違いない。
当然そんな彼女は事務系の『普通』の女子に評判が悪い。
空気を読めずハッキリ物を言うし―――まあ『高学歴の綺麗な女』ってだけで嫉妬深い突出した所の無い女性陣にはただでさえ『受け』が悪いのだ。そう言う細かい事を気にしないサバサバした高橋や林とは仲良くやっているようだが―――常に牽制し合い固まって愚痴を言っている女達には、妬まれていた。
嫌味を言われたり細かな悪意のある噂を流されたりと、ターゲットになった伊吹は薄々周囲の悪意に気付きながらも、元来の頑張り屋の気質を発揮して、愚痴も言わずにそれに耐えていた―――が、幾つかのミスが続いた後に担当していた客にセクハラを受け、それを嫌味な女達に「どーせあの子が色目使ったんでしょ」と揶揄されたのを切っ掛けに、少々心を病んでしまった。
アイツは熊野に慰めて貰いたかったようだが、真っすぐ常に正面衝突が信条の天然な熊野の男目線のアドバイスは―――すっかり弱ってしまった伊吹の傷を抉るだけだった。女子の同僚も慰めてくれるが、それだけでは彼女の傷は癒されない。なるべくして、俺の出番になってしまった。
曖昧な関係の女は何人かいたが当時俺には表だって付き合っている相手がいなかった事も、伊吹には良かったのだろう。まあ、愚痴を色々聞いてあげる内にそう言う関係になるのは早かった。何より彼女の気分を上向かせるのに、セックスは一番効果的だった。今思うと単に伊吹は欲求不満だったのじゃないかと思う。今までさしたる障害を感じた事の無い人生で、これほど恋愛も仕事も上手く行かない経験は無かったらしい。
それからより一層彼女は何でも素直に俺に話すようになった。そこに恋愛感情は殆ど無いように思う。それこそ熊野に対する片思いも、仕事の愚痴も職場の人間関係も俺に明け透けに打ち明けるのだから。
そしてそう言うゴチャゴチャした話を聞くのはそれほど俺にとって苦にはならない。俺の中に自然発生しない猥雑な女性心理を耳にするのは、意外と勉強にもなる。営業の仕事で、こういう女性の機微を敏感に察知する能力が役に立つ事もある。
と言うか俺はこういう事が好きなのかもしれない。何故、人が過ちに近い自滅的な行動を起こすのか―――それを突き動かす切っ掛けや心の動きがどういったものなのか、と言う事を観察し、追及する事がきっと好きなのだ。
小学生の頃、好意の裏返しで俺を虐めたクラスメイトの女子達。子供達の本音に目を向けず表面上穏やかなクラスを維持する事を自分の手柄だと勘違いする担任教師。幸せを惚気る友人の彼氏を欲しがる女。同僚や出来る上司を妬み裏で脚を引っ張ろうと陰口を言う職場の男―――心の弱い人間が、他人を恨み妬み陥れようとする闇に手を伸ばす時、足元には大きな落とし穴が拡がって行く事に気が付かないのが殆どだ。何故人がその事に気付かないのか、昏い動機故に盲目になり結果、自分の首を絞めるまで気が付かない―――その心の仕組みに興味があるのだ。何故ならそれは俺にも当て嵌る事だから。
他人の心理を読み、弱い人間に寄り添い慰めるのは―――俺の足場を固める為だ。二度と侮られないように、人から惨めに貶められて傷つかないように先手を取る。きっと俺の動機はそんな単純な自己防衛だった。既に俺は誰に脅かされる事も無いくらい、大人になったのだけれど―――しっかり今までの習慣は身に付いてしまって、それらの行動は俺の人格と日常生活にピッタリと張り付いてしまっている。
大人になって、皆強くなる代わりに何かを失って行くのだろう。
それは俺に限った事では無くて―――だから、それを悔やんだり恥に思ったりする事は無いのだけれど。
ふと、昔好きだった女の子を思い出すとき。
その時だけ、少しだけ苦い気持ちになる。
小学生の優しくて純粋だったあの彼女の前に出て、今の自分について胸を張れるかと言うと―――それは難しい。
男のくせに弱い自分が嫌いだった。
虐げられているだけの存在でいるなら、例え汚ないと言われても相手をコントロールする事ができる力を持つ今の自分の方が、数倍マシだと思う。
けれども―――それでも初恋のあの子の前では、彼女が親近感を抱いてくれた、クラスの女子が苦手な見た目も心も弱い……自分のままで居た方が良いような気がするんだ。
まあ、そうは言っても。
きっとあの子も変わってしまっているのだろう。
中学校で通う時間帯がずれてしまい、発表会でしか顔を合わせなくなった時―――その時までは確かに柔らかな笑顔の、まっすぐなままの彼女であったような気がする。
だけど俺が二十五歳と言う事は―――現在彼女も二十五年の時を生きて来たと言う事なのだ。
流石に彼氏も出来ただろうし、色んな経験もして自分を守る為に少しズルい事も駆け引きも覚えるようになったに違いない。
そんな彼女ともし再会する事があったのなら。
俺は彼女に対してどんな気持ちを抱くのだろう。
喜ぶ?懐かしむ?失望する?同情する?―――それとも……。
そんな事をボンヤリ考えていた時。
俺は偶然、その『彼女』に再会したのだった。




