レッスン6
地下鉄大通駅付近の待ち合わせ場所でよく使われる『ヒロシ』くん前。以前友達にそこを待ち合わせに指定されたとき『何?ヒロシって誰??』と聞き返したのを覚えている。
四越デパートの地下街入口の前に人溜りになるスペースがあって、そこに大きい広告用のマルチビジョンがある。その愛称が『ヒロシ』なのだ。
待合せ十五分前に改札を出ると、百インチもあるその大きなモニターの前にファッション誌から抜け出たようなあの人が立っていた。早いなっ!
焦って駆け寄る私に、彼はニッコリと微笑んだ。
わぁ、まっぶしーい……。
彼の周囲にも同じように待合わせしている人が沢山いて、チラチラこちらを伺っているのを肌で感じてしまう。ピアノの発表会以外で注目される経験の無かった私はその視線にソワソワと落ち着かなくなってしまうが、当の熊野さんは何処吹く風。まったく気にならないようだ。うーん『慣れてる』って事なのかなあ~。
「お待たせして、すいませんっ」
恐縮して頭を下げる。
「まだ待ち合わせ時間まで十五分もありますよ。俺も今来たばかりです」
微笑みを湛えたまま、熊野さんはフォローしてくれた。
うーん、優しい。
私はこんな優しい人に対して、ナンだってあんなにビクビクしていたんだ。
思い込みって、コワいな。
『人類の半分は男性!だからいつまでも小学校のいじめっ子、引きずってたら人生損だよ』
そういえば、これまで友人は何度となくそう忠告してくれた。
辛辣な物言いだけど、私のために言ってくれているっていうのは分かっていた。でも今回やっと、その忠告が身に染みた気がする。
本当に勿体無いことを今までしていたのかもしれない。嫌いな人とちょっと特徴が似ているからって―――中身まで全てが一緒な筈は無いのに。そういう出会いを切り捨てていた自分は、人間関係を学ぶ機会を自ら潰していたのかもしれない。そう改めて実感した。
「お、ちゃんとスニーカーで来てくれましたね」
熊野さんが私の足元を見て言った。
「はい。ご指示通りに」
「今日は下見で歩きますからね。誘っておいて振り回すようですいません」
「大丈夫です!汗掻いたほうが、断然ビールが美味しいですからっ」
「ハハハ、頼もしいなあ。じゃあ、行きますか。東から攻めましょう!」
熊野さんが連れて来てくれたのは、まず狸小路というアーケードの掛かった商店街と二条市場という観光客がよく訪れる市場の間にある狸二条広場という場所だった。ビア・ガーデンのメインとなっている大通公園より少し離れているので、穴場感がある。
「こんなトコでもビアガーデンやっているんですね」
大通公園に比べれば、比較的コジンマリとしているが、ほぼ満席だ。
「ええ、ここは小樽の地ビール専門のビアガーデンなんですよ」
そう言って、パンフレットを見せてくれる。用意がいいなあ。
「地ビールにドイツのソーセージ……あ、プレッツェルもある」
「ね?面白いでしょ。地ビールも六種類あって、ピルスナー、ドンケル、ヴァイス……チェリービールとか、どんな味なのかな。姫野先生は、何から飲みたいですか?」
「わぁ……どれも気になるなあ。チェリービールも良いし、この緑のヴァルトマイスターって言うのも初めて見ました。でも、まずはピルスナーかな?」
「やっぱりまずは、それですかね。俺も……と言いたいところだけど、飲み比べしたいから、ヴァイスにしようかな?先生、もし良ければ味見しませんか?」
えっ味見?
まさか……ジョッキを交換して……?
「あっ誤解しないでくさい。実はコップ持ってきました。口を付ける前に分け合いませんか?」
一瞬で強張った私の気持を見抜いたように、熊野さんは付け足した。
びっくりした……。流石に同じジョッキで回し飲みするのは、免疫のない私にはハードルが高すぎる。
だけどそれは、全くの誤解で。
構えてしまった自分が恥ずかしい……。私って自意識過剰だあ。
「あ、はい。ありがとうございます」
「では、行きますか!」
熊野さんが、嬉しそうに笑った。
天気は快晴!ビール日和!
少し縮こまった私の心を、彼の笑顔が引き上げた。
「はいっ!」
いざ、屋台へ!
私達は、お目当ての列に並ぼうと歩き出した。
私の選んだピルスナーは、金色に輝いて白い泡がきめ細かい。用意の良い熊野さんが取り出した、透明の使い捨てコップに注いで分け合った。
普通サイズのコップなのに、体の大きな熊野さんが持つとミニサイズに見えるから不思議だ。
熊野さんの頼んだヴァイスはピルスナーより少し色が濃いような気がする。こちらも熊野さんがコップに分けてくれて、私の手元に収まっている。うん、普通の大きさに見える。ミニサイズに見えるのは目の錯覚だな。
「では、乾杯しますか」
「はい」
「乾杯」と言ってグラスをカチリと合わせた。
天気予報は、今日は一日快晴と宣言していた。ジリジリと太陽が照りつけるようだ。
こんな日に外でビールが飲めるなんて、なんて私は幸運なんだろう。そう思うくらい喉の奥を滑る冷たいビールは美味しかった。
「うーん、美味しい。サイコーですねっ」
ごくごくとビールを飲んでぷはっと息を吐くと、熊野さんが目を丸くして私を見ていた。
「?……何ですか?」
「いや、いい呑みっぷりだな……と」
なるほど。
「実は良く言われます。見た目に寄らずいい呑みっぷりだねって」
「言われますか」
私は大きく頷いた。
「地味で大人しそうなな外見の割に、ビールをごくごく飲むのが意外って言われます」
「……」
熊野さんの目がもっとまん丸になった。
そう言ってまたゴクリとビールを煽る私をマジマジと見て、サッと顔を逸らした。
その肩が揺れている。
「ぷっくくくっ……」
「熊野さん……?」
「ハハハハ、アハハ!」
熊野さんは爆笑していた。堪えきれず噴き出してしまったようだ。
「そんな可笑しいコト、言いましたか?」
首を傾げる私に、熊野さんは口を押えて「いえいえ……」と一応否定してくれた。だけど目が涙目になっているんですけど。
一体何がツボだったんだろうか。なんとか笑いを治めてくれたので、それ以上突っ込むのは止めにした。きっと聞いたところで落ち込むだけだと思うから……。
プレッツェルとソーセージを摘まんで、もう一杯違う種類のビールを頼んだ。それぞれまた分け合って呑む。熊野さんはできるだけ色んな種類のビールを確認したいようだ。すごく仕事熱心なんだな、と感心する。お休みの食事も仕事に役立つ場所を選ぶなんて。
「じゃ、そろそろ移動しますか。次行っても大丈夫ですか?」
「あ、はい」
「お酒、強いんですね」
いえ、そんなこと無いんです。
「顔に出ないだけなんです」
「今も全然赤くならないですね。酔うとどうなるんですか?」
「白くなります」
「え?」
「呑むほどに白くなって、いつの間にか酔っぱらってます」
「は……」
クルっとまた顔を逸らされた。大きな体が小刻みに震えている。
もういっそ、目の前ですぐ笑い飛ばしてくれた方がずっと気が楽だ。一所懸命堪えて貰っても虚しいだけです……。
笑われる度に気持ちがスっと冷める。
熊野さんって……要人警護のSPかって思えるぐらいしかめ面をしていたら厳つい印象なのに、結構笑い上戸なんだね……。
だけど私はその時気付いていなかった。笑われてスっと気持が冷める度に、私の警戒心の皮が一枚一枚剥がれていたコトに。気付いていれば気を付ける事ができたのに。警戒心が緩んだ私は熊野さんに心を開き始めていた。
そのことにあらかじめ気付いていれば―――きっと少しは違った筈だ。
もうちょっと自分を律するコトが、出来た筈なのに……。
その後私達は、大通公園に場所を移した。
「今日はビア・ガーデンの梯子酒ですね」
「そうですね、いろいろ味見してみましょう」
移動先は大通六丁目の大手ビールメーカーが開催するブース。お目当ては昨年から新商品としてお目見えしたアイスド・ビールと言う生ビール。氷点下マイナス2度の凍り付く手前のビールをサーブしてくれるという。前回のビア・ガーデンで大変話題になったそうだ。飲んだ人の実況報告を聞いて凄く飲みたくなったのだけれど、ビア・ガーデンまで繰り出す余裕が無く、結局足を運べずに夏は終わりを告げたのだった。
これは丸々味わってみようと意見が一致し、一杯ずつ頼むコトにした。
「アテは、ここから選びますか。北海道産の特別メニューがありますね」
熊野さんが用意していたパンフレットを取り出して言った。
本当に用意がいいな……!
こんなに気が利くのって社会人に当り前のスキルなのかな??
ピアノ講師って仕事しかした事が無いから、こういう手際の良さが一般技能なのか特別に熊野さんが気が利くのか判断が付かない。
「俺は『鮭ジャーキー』と『増毛の蛸ざんぎ』がいいな。姫野先生、何にします?あ、道産メニューじゃなくても良いですよ」
「そうですか……じゃあ新商品って書いてある『オム焼きそば』と……もうデザートっぽいの食べても良いですか?」
「どーぞ、遠慮しないでください。その方が参考になるので」
「じゃあ、『夕張メロンの北海道カタラーナ』も」
さっきのちょっと離れた会場より、メインとなっている大通公園はやはりスゴイ混みようだ。二手に分かれて食べ物と飲み物を確保するコトにした。
「席、なかなか空かないですね」
あちこち目を配りながら席を探す熊野さん。
ふふふ……こんなコトもあろうかと準備して来た甲斐がありましたっ。
「熊野さん、私、敷物持ってきたので芝生で呑みませんか?」
私に目を向ける熊野さんの目が輝いた。
「良いですね!ありがとうございます!」
キラーン。
わぁ、良い笑顔~~眩しいです。太陽より。
思わず眩しすぎて目を逸らしてしまう。そんな私を熊野さんは不思議そうに見ている。
う~~もうっ
熱くなる頬を隠すように「さっ行きましょう!」と先頭に立って歩き出した。
本当に最近、自分のコトが自分で全く分からない。
こんな風に舞い上がったり、体が熱くなったり、怖がったり、落ち込んだり……熊野さんと出会ってから気持ちの上がり下がりが多すぎて、落ち着かない。
「~~美味しいっ、とっても飲み易くて」
「本当ですね。つい飲み過みぎそうだ」
芝生に敷物を敷いてオム焼きそばを突つきながらビールを傾けると、物凄くゆったりとした気持ちになる。
「すごく、気持ちが安らぎますね~~。お休みを満喫してるって感じがします」
「それは良かった。お誘いした側としてはそう言っていただけるとホっとします」
熊野さんもゆったりとした雰囲気だ。隣に腰を下ろして胡坐を掻いているのを見ると、何だか気を許してくれているような気がして嬉しくなってきた。
気を許してくれる様子が嬉しいのは――――
私も熊野さんに対して、気を許し始めているから?
自分でも、自分の中の急激な変化を不思議に思う。
一番苦手なタイプの人だったのに。
体格が良くて筋肉質で、厳つい体育会系って感じの。
耳に響く低音が如何にも男の人ってタイプで。
考え込む時の癖になっているらしい、しかめっ面は本当に凶悪で。
それが衝動的に身震いしてしまうほど怖いのに。
不意に笑うと笑顔がキラキラして。
難しい顔をしていたり、行動パターンが読めないから気付き辛いけど、さりげなく気を配ってくれて優しくて。
外見を見ただけで、苦手なタイプど真ん中だと思ったのに。
どういう人なのか、まだ把握できない。
男の人ってこんなに女の人と違うものなのだろうか。
今までずっと、特にこういうタイプの人を避けて来たから正解が判らない。
私が今まで少しでも関わって来た男の人達は、柔和な笑顔の中性的なタイプの人ばかりだった。そんな男の人とは―――見た目だけじゃなくて中身も違うように思えてしまう。
でも。こうして何度か熊野さんと接して来て分かった事も幾つかある。
熊野さんはそんなに悪い人ではない。
少なくとも、小学校のいじめっ子みたいに訳もなく何も言わず髪を引っ張ったり、突き飛ばしたり、私が傷つくような事を言うような人では無いって事だけは、分かる。
考えてみれば当り前かも。
だって、感情をぶつける子供と、色々な経験を経て来た大人とは……全く違うんだから。
私だって、そう。子供の頃とは違う。
ピアノ教室で沢山の子供たちと接して来て、十分にそれは分かっているハズだった。
ただ苦手意識を放置していたから、目を向けなかっただけだ。
怠慢……だったのかなぁ。
それにしても。
今日の私は無防備過ぎる。
すっかり鎧が剥がれて、熊野さんに親しみさえ感じている。横にいるだけで落ち着く気がするなんて……。
きっとこれは、ジリジリ照りつける太陽と、ビールのもたらす酩酊感のせいだ。
そうに違いない。
グっと、ジョッキを空ける。
「ぷはーっ」
「わ、一気に行きましたね」
熊野さんが驚いて眉を上げた。
「これ、気に入っちゃいました。もう一杯買ってきます。荷物見てて貰って良いですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
立ち上がる私を心配そうに見上げる精悍な瞳と目が合った。
私は余裕を込めてニッコリと熊野さんに笑いかける。
それからもう一杯、お気に入りになったアイスド・ビールを手に入れる為に大股でその場を後にしたのだった。