旅行日和(7)
「あの……この人は『梶原』と言う人では無いです」
姫野さんがおずおずと否定の言葉を口にすると、髪の長いお嬢様然とした女は眉を上げた。
「ああ、貴女もなの」
そして面白がるような、少し小馬鹿にするような表情で顎を上げた。
「梶原さんは遊びたい時は偽名を使うらしいわね。本名を知られて素性がバレたら付き纏われて困るから」
浩太はそんな理由で俺の苗字を名乗ったと言うのか?まさかな。
偽名を名乗るにしても中途半端過ぎやしないか?顔のソックリな双子の俺の名前を使うなんて。
使うなら使うで全く関係の無い名前を使えば良いのに。―――というか偽名を使ってまで遊ぶな!と言いたい。
「貴女程度の女に本名を名乗る訳ないじゃない?梶原さんはね、貴女が考えるよりずっと地位のある人なの。本名を教えて貰っていないと言う事は貴女がその場限りの相手だと言う証拠よ」
あまりに失礼な物言いに俺の中で何かがプチッと切れる音がした。
俺は立ち上がり、その長い髪の女に向き直った。
「……梶原さん、遊んでばかりいないでちゃんと私の相手もしてください。貴方はこれから色んなものを背負って行くのだから、羽目を外したい気持ちも分かりますけど……」
そして困った子供を見るような視線で俺を見上げて、俺の胸に手を伸ばそうとした。俺はスッとその手を躱す。
躱されて初めて相手は俺が自分を歓迎していない事を理解したのか、訝し気に首を傾げた。
「さっきから何ですか?俺は貴女が知っている男じゃない。俺の大事な女性に失礼な事を言わないでいただきたい」
俺の殺気を漸く感じ取ったのか、髪の長い女は顔色を変えた。
「か、梶原さん……?」
「俺は『梶原浩太』じゃない―――だけど浩太だって彼女の事は大事に思ってるんだ。よーく彼には伝えておきますよ、貴女が彼の大事な人間にどんな風に接するかって事をね。そう言えばお名前を伺って無かったですね―――教えていただけますか?」
「あ、貴方は……?梶原さんじゃない……の?」
「熊野、と申します。貴女の……お名前は?」
「あ、あの……」
長い髪の女は戸惑いを見せた。
おそらく俺が口を開いたので、話し方や態度が余所行き仕様の浩太と随分違う事に気が付いたのだろう。
「うちの娘が何か失礼をいたしましたでしょうか」
「お母さま……」
初老の女性が穏やかな表情で場に足を踏み入れて来た。どうやら母娘で食事をしていたらしい。
「そちらのお嬢様が、誰かと俺を間違えたようで……初対面の相手に何故其処まで言われなければならないのか分からないのですが、連れに失礼な事をおっしゃるのでお名前を伺っていたんです。どうやら共通の知り合いがいるのは確かなようですので」
「まぁ……」
咄嗟にその女性は抜け目ない視線を俺達と娘に這わせ、それから居住まいを正した。
「それはそれは……誠に失礼いたしました。知合いと言うのは―――梶原様でしょうか?お見受けしたところ本当に似ていらっしゃいますね」
「本人と面識があるのですね。彼とは血縁に当たる熊野と申します。―――貴女のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「はい、娘が名乗りもせず……失礼いたしました。私どもは麻生と申します、梶原様とはお仕事でお付き合いさせていただく事もあります。娘の態度については本当に申し訳ありません、後でよく言ってきかせますので―――梶原様によろしくお伝え願えますでしょうか?」
「お、お母さま……」
「祥子、この方に謝罪なさい」
「俺に謝罪は不要です、謝罪は連れに行ってください」
すると母娘の空気が少し変化した。
―――浩太の親類に謝罪するのと、姫野さんに謝罪する事はまるで意味合いが違うと言いたげに。浩太がこの女を適当にあしらって、連絡を絶っている理由がますます理解できてしまった。内心は利益のある相手とそうでない相手を差別する人間なのだろう―――母親の方も年の功で上手く取り繕ってはいるが、チラリと見せる一瞬の本音で底の浅さが伺えた。
「熊野さん、謝罪とかいりませんよ。勘違いだったんですから」
「しかし―――」
「もともとは梶原君が悪いんでしょ?今度顔を見せたら本人から謝罪して貰うから大丈夫です。それで美味しいもの沢山奢らせますから!」
姫野さんは母娘を庇って言ったのだろうが―――逆効果だったようだ。
母親は驚きの表情を作り、娘は悔しそうに嫉妬を滲ませた。
こうなったら一刻も早く立ち去るのが肝要だ。俺は話を終らせる事にした。
「そうですね。高い寿司でも奢らせましょう。彼女もこう言っている事ですし、謝罪はもう結構です。俺達はこの後予定があるので失礼します」
「あの……」
何か言いたげな彼女達に、俺はニッコリと慇懃に笑い掛けた。
「急ぎますので、失礼します」
有無を言わせない声音で、ハッキリと言う。これ以上俺達の時間を邪魔させて溜まるか。
すると彼女達はピタリと動きを止め、口を噤んだ。
俺は姫野さんに向き直り、今度こそ心から笑顔を作った。
「―――じゃ、行きますか」
「はい!」
彼女が嬉しそうに頷いてくれたので、ホッと胸を撫で下ろす。
しかしもうこれ以上豪太にデートを邪魔されるのは御免だ。
ここにいない筈なのに下手に存在感ばかり示す兄を思い浮かべ、後でたっぷり絞ってやる―――と笑顔の下で俺は密かに決意を固めたのだった。




