旅行日和(5)
「誤解ですから……っ」
「はい、そのようですね」
真顔で彼女は頷いた。
あまりにすんなり肯定してくれたので、思わずその後の言葉を呑み込んでしまった。
姫野さんは髪の長い女性に向き直って、またしても真顔でこう述べた。
「えっと、たぶん誤解ですよ。この人はきっと貴女の知っている人とは違います」
「はぁ?」
その女性は腕を組んで胸を反らした。
「何言ってるの?その人は私の知合いよ」
そして上から下まで姫野さんを不躾に眺めた。まるで値踏みしている事を伝えるようにゆっくりと。
「……そっちこそ、騙されてるんでしょ?」
そしてフンッと馬鹿にしたように目を細めた。隙の無い装いをした派手な女性で、美容やファッションに常に気を配っているように見える。
俺にとっては断然姫野さんの見た目(と言うか全部)の方が好みである事は間違いないが―――優し気な落ち着いた装いの姫野さんに対して、まるで優位に立っていると勘違いしているかのような態度だった。不快さのあまり思わず声が低くなる。
「おい、いい加減……」
「熊野さん、大丈夫です。ちょっと待っててくださいね~」
姫野さんはニッコリと笑い、鞄からスマホを出して画面をスルスルと撫でた。そして「あ、あったぁ」と言って操作を止め、髪の長い女の方へ画面を差し出した。
「貴女の知り合いって、この人じゃありません?」
女は液晶画面を覗き込み「あっ……」と声を上げた。
「よく間違えられるんですよ。私の連れの親戚なんです、ソックリでしょ?で、ちょっと連れの方が体格が良いと思いません?貴女の知り合いってこちらじゃないですか?」
冷静な声に俺の頭も冷えていく。
そうか、浩太かっ……!
でも何で『熊野』って名前をこの女が知っていたんだ……?まさか浩太……。
「あっ……そ、そう!こっちの人」
女は目を見開いて、画面を凝視している。そしてもう一度俺を見上げて、それから画面をもう一度見た。
「あの……間違えました、スイマセン……」
急に顔を真っ赤にして、しおらしくなった女を俺は睨みつけた。彼女に誤解されるような真似をされた上、この女がとった姫野さんに対する挑発的な態度は俺にとって不快以外の何物でも無い。
画面を覗き込むと、俺と浩太が並んでいる写真。
浩太がピースをしてニヤニヤ笑っている。本当にムカつくニヤケ顔だ、今度会ったらまた金箍児の刑だ……!
ちなみに『金箍児』とは西遊記の主人公、孫悟空が頭に嵌めた輪っかの事で、悪い事をするとお釈迦さまのお経でギュッと締まって痛みを与える罰則の道具である。
姫野さんはあくまで冷静に「分かって頂ければいいんです。では」と頭を下げて俺の方に向き直った。
「さっ!ペンギンの後を追いましょう!」
と言って笑顔になる。
その笑顔に俺の心の蟠りも瞬時に氷解した。
「はい」
俺は女を視界から外して背を向けた。
もうペンギン達は遠足のゴールである海岸に辿り着いたようで、新たな人垣ができていた。
「あ、あの……!」
背中に声が掛かって、仕方なく振り向いた。
連れが戻って来たのか、小綺麗な男が傍らに立っている。
何だ、男連れなのに俺に声を掛けて来たのか……?
「『熊野さん』の連絡先教えてくれませんか?」
俺達は首を傾げた。
知人なら連絡先くらい知っている筈だろうに。
「えっと、何でですか?貴女親しい『知合い』なんですよね」
姫野さんは素直な疑問符を返した。しかしソワソワしているのが見て取れる。足はペンギンのいる海岸の方向に向かっているからだ。
「その、連絡が取れなくなって……」
気まずげに視線を逸らして言う様子から、俺は察した。
「すいません、俺達も最近連絡取ってないんです。それに知らない人に親類の連絡先をお教えする訳には行きません。―――失礼します」
やり過ぎる程きっちりと……頭をしっかり下げて「さあ、行きましょう」と姫野さんの背を押して促した。するとそれ以上相手も追い縋って来なかったので、ホッと胸を撫で下ろす。
丁寧に対応したのは拒絶を示すためだ。『あなたは他人です。これ以上関わり合いにはなりません』というメッセージを、相手は受け取ってくれただろう。
浩太と『連絡をとっていない』と言う事は勿論無い。双子の兄で現在は俺の上司なのだから。でもこれ以上彼女に情報を与えたり、関わり合いにならない方が良さそうだと判断した。だから俺は敢えてそういう姿勢を貫いたのだった。
「親しい『知合い』なのに連絡取れないって、どういう訳ですかね?」
海岸で自由に泳ぎ回るペンギンをたっぷり堪能した後で、姫野さんが思い出したように疑問を口にした。身内の不始末を口にするのも何だが、姫野さんの浩太に対する評価は底を打っているのでこれ以上下がりようが無い。推測ではあるが、俺は浩太の所業をバラす事にした。
「自分の本名じゃなく俺の苗字を使ってますからね……浩太は少し遊びのつもりで付き合って、何か揉めたかしつこくされたかして逃げたんじゃないでしょうか」
「ええ!ひ、ひど……。だから『熊野さん』って呼んだんですね、あーそこ気にしてなかった。熊野さんが知らない相手なら、絶対梶原君だって思って写真を見せたんですけど」
何気ない台詞に胸を突かれる。
姫野さんは俺を全く疑わず、信じてくれてくれていたのだ。
誤解されるのではと言う俺の心配は、全くの杞憂だった。
「信用してくれて嬉しいです」
心から笑顔になって笑いかけると、俺を見上げる姫野さんの頬に朱が上った。
「はい。熊野さんを信用してます。あと―――悪戯とかフザケタ事をするのって、絶対梶原君ですから!優しい熊野さんの訳無いです!だからすぐ分かりますよ」
そう言って彼女は破顔した。
俺もおかしくなって声を上げて笑った。
小さなハプニングはあったけど、水族館デートは粗方成功だ。
だってこうして彼女が楽しそうに笑顔で笑いかけてくれたのだから。
だから俺はすっかり油断してしまった。
小樽で浩太に間違われた意味を、それ以上深く考えずに頭から追い出してしまったのだから。




