旅行日和(1)
熊野視点の後日談です。
一話ごと短め。そして甘めです。
仕事が一段落したので、彼女を誘って小樽に行く事にした。
付き合ってから初めての一泊旅行だ。
だから俺の気持ちも自然と沸き立って来る。
俺が彼女と付き合う事になってから、仕事量が各段に増え海外出張の機会が多くなった。その間何故か俺の雇い主である双子の兄が、彼女の仕事場に通い一緒にご飯を食べたりしていると言うから面白く無い。
兄は惚けて知らんぷりを貫いているが、逐一彼女から報告が入るから彼の動向は全て把握している。全く油断も隙も無い。
兄の梶原浩太は、小学生の頃彼女を虐めていた。
そのトラウマで彼女は髪を伸ばせなくなったと言う。再会した彼女の髪は顎の所で切りそろえられていた。
けれども付き合うようになってから、会うたびに少しずつその柔らかいサラサラした黒髪の長さが伸びていく様子を見ていると―――彼女のトラウマも少しは解消されたのかな、と胸の閊えが僅かに下りる気がする。俺は彼女の三つ編み姿が大好きだったから、再会した時過去の虐めの為に彼女が思うように髪を伸ばせないのだと聞いて……胸が塞がるような気持ちを覚えたのだ。
浩太が彼女を虐める原因を作ったのは、俺だった。
俺は浩太の命令で小学生の一時期、彼と入れ替わっていた事があった。
事情があって幼い頃両親が離婚する事となり、母親に次男である俺が、父親に長男である浩太が引き取られた。その為一卵性双生児の俺と浩太は、苗字が違う。生活圏も違う。性格も正反対。
けれど当時は見分けられる人間がいないくらい顔も体格もソックリだった。
浩太は高級住宅街にある小学校、俺は隣接する一般的な住宅街にある小学校に進学した。そして資産家の家の跡継ぎとして育てられた浩太は、厳格な祖母に虐待紛いの教育を受け歪んだ性格に育ってしまった。母親と優しい祖父母の元で伸び伸びと暮らしていた俺は、そんな浩太に同情していた。だから浩太が強く主張すれば大抵の事に関しては、折れて言う事を聞いていたのだ。生まれる順番が偶々後だったと言うだけで―――一歩間違えば俺が浩太のように不自由な暮らしを強いられていたかもしれない。そんな負い目があって俺は浩太の我儘を強く跳ねつけられずにいた。
入れ替わりで浩太の通う小学校に通っていた俺は、音楽室で一心不乱にピアノを弾く彼女、姫野麗華さんと出会った。
今思うと一目惚れだったと思う。たちまち彼女の真剣な瞳とその指から紡ぎ出される旋律の虜になってしまった。
それ以来俺は―――浩太に命令されて嫌々応じていた筈の入れ替わりを、楽しみに待ち侘びるようになったのだ。
俺の機嫌の良さを訝しく思った浩太が、姫野さんと俺の関わりに気付くのにそれ程時間は掛からなかった。
その時の浩太が何を感じて、何を考えてそんな事をしたのか結局本当の所は俺には理解できなかったのだけれど―――浩太が姫野さんを虐げ、それに耐えきれなくなった姫野さんは引っ越しをして違う小学校へと逃げ出してしまった。
姫野さんがいなくなった後の浩太の落ち込みようは、酷かった。
それから浩太は徐々に真面な人間に変わって行ったと思う。
まあ一般人と比べると……かなり豪胆で我儘で俺様な人間のように見えるけれども―――否、実際『俺様』そのものなのだけれど―――これでも彼なりに十分他人に配慮する事を覚えたと思うし、相手を潰すまでやり過ぎる事は絶対にしなくなった。
姫野さんには本当に申し訳無いし、謝っても謝り切れないのだけれど―――姫野さんを失ったショックで浩太は少しだけ真面になれたと思う。今の浩太があるのは、姫野さんのお陰と言っても過言では無いのだ。
浩太が何を思って今、姫野さんにちょっかいを掛けるのか正直言って分からない。
姫野さんを揶揄っているのか。
それとも俺を揶揄いたいのか。
姫野さんに罪悪感があってそれを償いたいと思っているが、性格上素直に言えないからつい付き纏ってしまうのか。それとも―――姫野さんを浩太が気に入っているからなのか。そう言えば浩太は当時有り得ないほどの執着を、彼女に示していた。
後から虐めの事実を知ったのだが、浩太の彼女に対する固執はやはり異常だと思う。
当時本人は気付いていなかったかもしれないが―――浩太は姫野さんを好きだったのではないだろうか?
顔はそっくりだが性格は正反対の俺達。
しかし女性の好みは―――似ていたのではないか?
俺が彼女に憧れたように―――浩太も彼女に憧れていた?その気持ちを持て余し、苛立ちを彼女にぶつけたのではないか?
今の浩太がどう思っているか、正直言って本当に俺には分からない。
そして浩太本人も―――判っていないのかもしれない。
だけど俺達三人が再会し、食事を取ったあの懐石料理屋の前で―――浩太が、姫野さんとこれからも会いたいと言い、そしてその理由を作る為に『付き合え』と言ったのは―――本当は逆だったのでは?
浩太は彼女が好きで付き合いたかった。本当はその気持ちが先に立っていたのではないだろうか……?
ふとモヤモヤとした不安が胸に湧き上がる。
その不安の内訳は―――自分でもよく分からないのだけれど。
しかし彼女はもう俺の物なのだ。
チラリと助手席に座る彼女を確認し、口元が自然に綻んでしまうのを止められ無い。
高速を西へ走らせると暫くして右側の崖の向こうに海が現れる。
「熊野さん!海ですよ!」
姫野さんがはしゃいだ声を上げた。
ハンドルを握る俺には余所見は難しいが、彼女の声が興奮に上擦るのを聞くだけでワクワクしてくるから不思議だ。
「とっても綺麗ですよ!まさに旅行日和ですね~」
彼女の如何にも楽しみでしょうがないと言った声に、思わずこちらもつられて楽しくなってしまう。
いつも俺は彼女といると嬉しくなってしまって笑いが込み上げて来てしょうがない。
今回も堪えきれずに笑い出すと「本当に熊野さんって笑い上戸ですね!」と何だか嬉しそうに彼女が微笑む気配が発する声に滲んでいたので。
胸底に重苦しく渦巻いていた過去の後悔や未来への不安など色々な物も、車窓を流れていく景色と一緒に―――後ろに飛び去って目の前から消えて行くような気がしたのだ。
しばらく続きます。お付き合い願えれば嬉しく思います。




