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レッスン5

旋律を右手一本で弾くのは簡単だったが、やはり左手も一緒に動かすのは初心者にはハードルが高いようだ。手持ちのピアノ用スコアでは本来右手でコードを押さえる事になっているのだけど、とりあえずそちらは諦めて左手の旋律を憶えてもらう事にした。


つっかえながらも何とか左手旋律を弾けるようになったものの、右手と合わせると途端にとっちらかってしまう。大人になってから両手指を別々に動かす回路を脳に作るっていうのは、やはりかなり難しい作業なのだな……と器用そうな熊野さんの長い指が絡まってしまう様子を見て改めて実感してしまった。


「うーん……俺結構、自分は器用なほうだと思ってたんですが、難しいもんですね」


熊野さんの眉間の皺も深くなる。


相変わらず怖い顔だ。


しかし、以前のような身の縮む恐怖は感じない。私はだんだんと……この凶器のような鋭い表情に慣れてきている。


そうだよね。何度チャレンジしても上手く行かないと、頭で気に病む必要は無いと判っていても凹んでしまうのが人間のさがだろう。そんな状態スランプに慣れている私でさえ、たまに欝々としてしまう事がある。


じゃあ、あれかな?

気分転換――――と行きますか!


「右手はもう、見なくても弾けますよね」

「はい」

「じゃあ、ちょっと成功イメージを体験してみましょう」

「?」

「左手を私が弾きますので、熊野さんは右手をお願いします」


スランプの熊野さんをこれ以上落ち込ませないよう、できるだけ優し気に見えるようニッコリと笑ってみせた。すると、熊野さんがピキッと固まった。


あれ?

もしかして私の顔こそ、コワかったりする……?


ドキっとした。

無遠慮に相手を怖がってたくせに、いざ自分が怖がられたと思うとグッサリと胸を抉られるような気がしてしまう。


「……」


しかし、三十分は有限。

悩んでいる暇は無いのです。

すぐに、とりかかろう。


「はい、行きますよ。右手構えてください。……そう、じゃ、どうぞ!」


熊野さんの旋律に合わせて、左手指だけ動かす。ちょっと体が近くなってしまうけど―――初めから覚悟を決めて近づくなら、もうそんなに慌てたりしないもんね。


フハハハ……!


何故か内心勝ち誇って高笑いする私って、かなりゲンキンな性格かもしれない。


私も熊野さんのお蔭で、ひょっとして少し『男性』に慣れて来たかも……?!

もう仕事場でなら苦手なタイプの男の人にもちゃんと対応出来る……!(かもしれない)


お、テンポがぶれない。良いですね~。


こういう所に彼の運動神経の良さを感じるなあ。やはり右手だけなら、熊野さんは完璧だった。優しいメロディーが滔々と、長いゴツゴツした指から紡ぎだされる。


「うーん、完璧ですよ。熊野さん」

「いや、姫野先生がお上手だから、そう聞こえるんです」


ご謙遜ですね。でも、本当のことですよ。左手もそのうち、完璧になるでしょう。

熊野さんのポテンシャルなら、曲をマスターするのも時間の問題です。


『星に願いを』をマスターしたら。


それが切っ掛けになって熊野さんの世界は、また新しく変わるのだろうか。

そしたらもうピアノのレッスンは必要無くなるのかな?


勿体無いな。

せっかく電子ピアノを買ったのだから、できたらもっと続けて欲しい……!


―――なんてね。

最初のレッスンを担当した『私』が―――今の私の心境を覗いたらさぞ吃驚するだろうな。


「先生、一回、弾いてみてくれませんか」

「え?」

「先生が弾くとこ、見てみたいです。……参考に」

「あ、はい……」


余計な事を考えていたせいで、ちょっとボンヤリしていた私。そのせいで返事もボンヤリと響いた。


いけない。しっかりしよう。


鍵盤を押さえようと右手を伸ばして、すぐ隣にある大きな体が支障になる事に気が付いた。


「え……と」


何と言って良いか戸惑い、思わずジーっと熊野さんを見てしまう。

すると彼はハッとして立ち上がってくれた。


「あ、すいません。けますね」


狭い防音室の中で体格の良い彼は、やはりかなりの圧迫感を与える存在だ。慣れたと言っても、本能的な恐怖心ってなかなか克服できない。強くなった圧迫感に少しビビりながらも、心を落ち着けて―――鍵盤に両手を置く。


せっかくだから、スコア通りに弾いてみよう。


右手の和音も追加してみる。厚みが出て、丁寧に弾けばとっても気持ちが良い。旋律に後押しされるように―――気持ちが凪いで行くのを感じる。

簡単な初心者用のスコアだけど、なかなか綺麗にアレンジしてあるな。


高い技巧を見せる速弾きも良いけれど、私はゆっくりと情感を込めて弾くほうが、どちらかというと得意。弾き終わりに糸が引けるくらいゆったりと鍵盤から指を離すと、残響音を壁が吸い込んで防音室がしぃんとした。


無音の時間が数秒あって、私は熊野さんを見上げる。

熊野さんは、呆けたように固まっていた。


「熊野さん?どうでした?」

「あ……はい……」


声を掛けると彼はまるで夢から醒めたように、目をしばたたかせた。それから、パチパチと手を叩いてくれる。


「いや、さすがですね―――俺が弾いたのと同じ曲だと思えない」

「右手の和音を足してますから、実際熊野さんが練習しているスコアとちょっと違うんですよ。それに私も小さい頃からこの曲が大好きで、よく弾いてたんです」

「……うん、とても素敵でした」


熊野さんが憂いを帯びた目で私を見下ろしていた。その時の熊野さんの表情は―――いつもの厳しいしかめっ面とも不意に見せる爽やかな笑顔とも違っていた。何だか胸の奥が締め付けられるような気がして……目が離せない。


その空白に、マナーモードの音が横入りしてきた。


熊野さんはポケットからスマホを取り出して画面を確認すると、眉間に皺を寄せた。




あ、いつものしかめっ面。




その表情を合図に、私に掛かっていた魔法も解ける。時計を見るとちょうど既定の時間が過ぎたところだった。


「そろそろ、お時間ですね」

「あ、はい」

「左手は難しいですけど、ゆっくりやって行きましょう。熊野さんなら、すぐマスター出来ますよ、きっと」

「ありがとうございます……あの」


防音室の重い扉をガコっと、開く。熱気の籠った部屋に、少し涼しい風が舞い込んできた。私が先に出ると、熊野さんが後から頭を屈めて出てきた。


「はい?」


振り向くと腕まくりしていたシャツの袖を戻しながら、熊野さんが目を細めて私を見ていた。


「姫野先生、火曜日はレッスンお休みですよね」

「はい」


熊野さんは少し逡巡し、一呼吸おいてから再び口を開いた。


「あの。また明日付き合って頂けないでしょうか……?」

「え?」


一瞬何を言われているのかピンと来ず、思わず聞き返してしまう。


「あの……また、接待の下見に行かなくちゃいけなくて。もし良かったらまた明日付き合って頂けると―――嬉しいんですが。あ、もちろんこちらからお誘いするので、当然奢りです」


すると熊野さんが少し顔を朱くして、頭を掻きながら言った。

私も釣られて頬が熱くなってしまう。


うーん、でも……。


「接待なら、会社の方と一緒に行かれた方が参考になるんじゃないですか?それにこの間みたいにお高い所だと、奢っていただくのも心苦しいですし……」

「ああ、いえ。申し訳ないんですけど、次予定しているのはビア・ガーデンなんです。道外から来るお客さんを連れて行くんですが、姫野さんくらいの女性が混じっていて。だから、どのブースに案内したら良いか意見を聞かせて頂けたらな、と思いまして……」




ビア・ガーデン。




ごくり、と私は唾を飲み込んだ。




じりじり太陽が照りつける中で、冷たいビールをゴクゴクと……。そういえば、ここ一~二年、ビア・ガーデンに行っていないことを思い出した。


大通りのビア・ガーデンは一丁区画ごとのブロックに分かれていて、そのブロックごとに開催者が違う。

キリヌ、アサイ、サッポポといった大手ビールメーカーに加え、ドイツビールのブースや最近は道内の地ビールなんかも出店しているって友達が言っていた事を思い出す。

確かほかにも二条市場とか札幌駅前とか……色んな場所で企画されていて面白いって言っていたなぁ……。


一口にビア・ガーデンと言っても、どこを拠点とするかでメニューも全然違う。だから確かに、接待するなら相手の好みを考えて下見するのは大事なのだろうけど……。




「ビール、お嫌いですか?たぶん、それ以外の飲み物もあると思うんですけど」

「好きです」




あ、咄嗟に本音がっ。




しかも被せ気味に返事してしまった。

思わず唾液をジュルっと飲み込んでしまう。

何とか断りの言い訳を捻り出そうと頭を巡らせるが、キンキンに冷えたビールジョッキが頭の大半を支配してしまい、なかなか適当な言葉だ出てこない。


「あ、あの……」

「じゃあ大通で待ち合わせしましょう。十二時に――――『ヒロシ』前で」




にっこり。

コクリ。




あっ……!




微笑まれて、反射的に頷いてしまった……!

いっつも厳しい強面なのに、何故一転して笑顔はこんなにキラキラしているのだろうか!

破壊力抜群で―――男性に免疫の無い私のような一般人は一瞬で呑まれてしまう。


もしかして、もしかしなくても―――彼は凄腕の営業マンに間違いない。

人を頷かせる天才だ。普段の強面も……もしかして計算なのかしらって、疑ってしまうくらいに。


ギャップに、ドッキーンと心臓が跳ねてしまうのも―――もしかして彼の手の内なのかなぁ?見た目は確かに怖いけど、そんなに悪い人じゃないって思い始めたばかりなのに。







** ** **







何だか流され過ぎな気がして不安になって来た。

思わず急かされるように短大の友人にメッセージを送ってしまう。そしたら珍しく、メッセージをすっ飛ばして、スゴイ速さでスマホが震えた。




『……それは、最終的に百万円の壺を売りつける気だね』




地の底から這うような物凄く低い―――深刻な声音で結論付けられた。

彼女は恋愛経験豊富なのだ。まるで百戦錬磨の軍師みたいにキッパリと言い切った。真剣な固い声に、つい私も怖気づいて額に汗が滲んでしまう。


「ええ……!やっぱり行かない方がいいかな……」

『いや、百万払っても行くべき。このままじゃ、あんた一生男性経験無いまま介護生活突入だよ。授業料払って痛い思いしても、デートした方が良いって』


え。百万払うのは嫌だなあ……。


それに―――熊野さん、詐欺師確定?……ちょっと押しは強いような気はするけれど、人を騙すような人には見えないんだけど……。


「壺を売りつけるような人には見えないけど……」

『百万の壺を勧めた後に、一旦引いて五十万の英会話教材、契約させるかもよ』


神妙な声で脅す様に彼女は言った。


「えー!まさか」

『”ドア・イン・ザ・フェイス”と言って―――初めに高い要求を突き付けて次の要求を断りにくくするテクニックよ。営業の基本だから』


実際教材を買わされた経験でもあるのだろうか。やけに具体的に描写するからドキドキしてきた。でも……。


「……熊野さん、良い人だよ?」


すると『ハーッ』大袈裟な溜息が聞こえて来た。

”ビア・ガーデンに行くべき”と主張するわりに、吃驚なくらい熊野さんに批判的だ。


『もうすっかり、信用しちゃってるね。まあ騙される前提で行けば何があっても傷つかないでしょ。それでも良いからデートの一つや二つ、して来なさいよ。人類の半分は男性!―――だからいつまでも小学校のいじめっ子、引きずってちゃ人生損だよ』


分かりにくいけど、どうやら背中を押してくれているらしい。

まあ、もう約束しちゃったしね……ビア・ガーデンも行きたいし。


五十万……は、流石にキツイから。

もし何かを勧められて買うとしても十万を上限にするって、決めて行こう……。


私は覚悟を決めて、明日の服を選び始めた。

何だか少しウキウキしてしまうのは―――この際しょうがない。




……楽しみなのは、ビールだよ!……それに接待の下見であって、デートじゃないから!




と自分に言い訳しながら、気が付くと何故か鼻歌を歌っていた……。



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