レッスン49【最終話】
最終話です。
ガシっと熊野さんの大きな手が、身を乗り出している梶原君の頭を掴んだ。
「イデデデデ……っ!」
「いい加減にしろ。姫野さんの人の良さに付け込むな」
『人の良さに付け込む』……?
「姫野さんも、あっさり騙されないで下さいね」
こちらを振り向いた熊野さんは、ニッコリと笑っている。
その笑顔には―――何故かちょっと迫力を感じる。
いつものように爽やかに笑っているのに、梶原君の頭に指先を食い込ませたままなのだ。その上頭を掴まれている梶原君は、痛みに悶絶しているのだから。
熊野さんは梶原君の耳に顔を近づけて、低い声で言った。
「分かったか?」
「……」
更に力を込められたのか「ぐぁっ!」と梶原君が呻いた。再び熊野さんが梶原君に囁いた。
「分かったのか?」
「―――ぐっ―――分かった、よ」
梶原君の頭から、やっと熊野さんの大きな手が離れた。
この双子の力関係の変化は―――大人になったとかそういう事じゃ無くて、ただ単に腕力の問題だったの?!
いつも優しくて紳士的な熊野さんの、意外な一面を見て吃驚してしまった。
私が固まっているのに気が付いた熊野さんが、ハッとして気まずげに頭を掻いた。
「すいません―――怖がらせてしまいましたか?ついコイツの我儘を腕力で止める癖がついてしまって―――こういう乱暴な付き合い、見慣れてないですよね」
「い、いいえ……お気になさらず……」
私は顔の前でブンブンと両手を振って、否定した。
確かに少し怖かったけど―――困っている私を助けようとしての熊野さんの行動に異論なんか唱えられない。
梶原君を見ると相当痛かったらしく、頭を抱えて蹲ってしまっていた。
『イケメン御曹司』とネット上に掲載されていた堂々とした写真を一瞬思い出す。でもこの状態と彼の中身を知ってしまうと―――あれは、幻想か蜃気楼みたいなモノなんだな、と納得してしまう。
『モテそうだ』と思っていたけど、梶原君今『フリー』だって言ってたな。もしかして中身とのギャップを受け入れられずに、振られたりするのかも……。
私が同情を籠めた目で道端に蹲る梶原君を見ていると、その空気を察したように、頭を抱えたままの彼が顔を上げた。
あ、涙目。
「……なんだ、その残念な物を見るような目は」
「……本当に『優良物件』なの?」
ブっと噴き出す音が聞こえて、傍らを振り向くと熊野さんが口を覆って笑いを堪えていた。
出た。笑い上戸。
私達の視線が辛くなったのか、顔を真っ赤にした梶原君が涙目のままスクッと立ち上がった。
やっとの事で込み上げる笑いの渦から立ち直った熊野さんが、はぁっと息を吐いて梶原君の肩を叩いた。
「姫野さんが優しいからって、泣き落としでどうにかしようとするな」
「……」
応えない梶原君。
「『泣き落とし』?―――え?―――あ……『俺が嫌いなのか』とか言ってたのって―――」
やっと熊野さんに言われた事を理解して狼狽える私に、熊野さんは微笑んだ。
『顔を合わせられないほど俺が嫌いなのか?』と殊勝な様子でした梶原君の発言は、私の同情を引くための演技だったと言うこと?
なんと!
梶原君の不器用さに同情していたのに―――人の『同情』につけこむだなんて……!
変わり身が早いと言うか、調子が良いと言うか―――呆れてしまう。
「姫野さんも、あんまり素直にコイツの戯言を信じないで下さい。―――心配ですよ。あんまり優し過ぎるのも」
「―――『本気』だったら、文句ないんだろ?」
梶原君が熊野さんの手を肩から外して、高い背を屈めて私の顔を覗き込んだ。
そして花が咲いたように笑った。
「ここで再会したのも何かの縁だ。姫野、俺と付き合おう」
「え……」
私はボンヤリとその精悍な双眸を見返した。
「返事は?」
「……」
えっと……。
追い詰められてしまった。
な、なんて言ったら良いんだろう……?
今日梶原君と再会するなんて考えてもいなかった。だから梶原君の事をどう思うかなんて、考えようが無いわけで。そして熊野さんとも今日会えるなんて思っていなかったから……その~……誰の事が好きかなんて口に出す覚悟、まるで無かったワケで……
チラリと横に立つ熊野さんを見上げる。
すると同じタイミングで私を見た熊野さんと目が合った。
思わず恥ずかしくなって、目を逸らす。……顔が真っ赤になってしまう。
「……満更でも無い?じゃあ、オッケーって事で……」
「駄目だ」
熊野さんが、低いバリトンで梶原君の前に立ちはだかった。
屈めていた背を伸ばして、梶原君は不遜な態度で腕を組んだ。
ほぼ同じ高さの熊野さんの目を、まっすぐ受けて立つように見る。
「姫野に聞いてるのに、なんでお前が答えるんだ?」
「お前に姫野さんは勿体無い」
「何だよそれ―――関係無いだろ?まさか、お前―――姫野と付き合ってるのか?」
ジロリと熊野さんを梶原君が睨みつけた。
な、なんちゅー事を聞くんだ!
私は梶原君のデリカシーの欠片も無い台詞に、更に真っ赤になった。
「え、いや、それは……」
途端に歯切れ悪くなってしまった熊野さんが、口籠る。
熊野さんの態度に、私はドキドキハラハラしてしまう。
―――付き合ってなんかいないけど!でも……熊野さん、私の事どう思っているんだろう?―――たくさん優しくしてもらって、嬉しかった。でもそれはもしかしたら、熊野さんの罪悪感に依るものかもしれなくて―――
告白しようと思ったら、熊野さんは実は『いじめっ子=梶原君』の弟なのだと逆告白されて。
私の告白はお預けになったまま―――またしても梶原君の所為で、日本と海外に離れ離れになってしまって。
梶原君が熊野さんの携帯を壊した所為で連絡も取れず、私はつまり振られたのだろうかと戦々恐々として、悩みに悩んで―――
「付き合ってないんだろ?海外行きも知らなかったくらいだからな―――じゃあ、いいよな。姫野、俺と付き合えよ」
どの口が言う!
「無理!」
胸の中でドロドロと渦巻く梶原君への文句の嵐が、否定の言葉となって飛び出した。
思った以上にキッパリと大きな声が出た。
梶原君は、私の態度の急変に目を瞠る。
熊野さんも私の大声に驚いたように目をパチクリと瞬かせた。
だけどそんな事に気を払う余裕も無い。
私は続けて言い切った。
「私は熊野さんが好きなの!梶原君と付き合うなんて無理!」
「な……」
「えっ……」
思いもよらない勢いに押されるように、呆けた顔の梶原君と、私の突然の告白に呆気にとられる熊野さん。
はっ。
しまった。
わ、私ったら何を大きな声で口走ったのぉ……!!
自分の言った台詞を改めて回想する。
『私は熊野さんが好きなの!』
―――ああ!梶原君と付き合わないって事だけ言えばいいのに、何故熊野さんの事まで……!
ソロリと……隣に立つ男性を見上げた。
すると彼も私を見つめていた。それから、ゆっくりと顔だけでなく体もこちらに向けてくる。
「姫野さん、今の……」
体が熱い。
そして私の目の前の男の人の顔も、みるみる内に真っ赤に染まっていく。
「あ、あのえっと、そのぉ……」
お互い目を離せないまま、私は手をモジモジと握り合わせるしかない。
ど、ど、ど、どうしよう……!
え、え、え、えっとぉ!
「おい」
真っ赤になって見つめ合い、うっかり二人きりの世界になっていた場所に、苦々し気な声が割って入って来た。
「おもいっきし振りやがったな……後悔するぞ、俺は経営者で、こいつはただの雇われモンだぞ」
な、なんちゅーアホな事を言うんだ。コイツは!
呆れて思わず、また大声で宣言してしまう。
「こ、後悔なんて―――絶対しません!」
あっ!
また私、咄嗟に……。
思わず口を両手で覆ったが、既に遅い。
「姫野さん……」
熊野さんの視線が熱い。
恥ずかしい。とんでも無く恥ずかしい。
だけど……彼の熱の籠った視線から目が離せない。
「……俺と付き合った方が絶対、面白いのになー」
ボソッと梶原君が呟いたけど。
私と熊野さん……二人ともそれに返事もせずに、暫く見つめ合っていた。
―――冷たい筈の空気が甘い。ポカポカと体が熱い。
私が小さくクシャミをして、我に返った熊野さんが慌てて私を送ろうと動き出した。
** ** **
その日はタクシーで送ってもらった。
憮然とした表情の梶原君も、熊野さんと一緒に私を送ってくれた。二人きりだと緊張し過ぎてしまうから、梶原君でもいてくれて良かったかも……と失礼な事を考えていたけど、口には出さなかった。
返事を聞きそびれたと気付いたのは、眠る前。
次のレッスンに、改めて熊野さんから「好きです。付き合ってください」と告白してくれて、めでたく私達は付き合う事になった。
『星に願いを』を完璧に弾きこなせるようになった頃、熊野さんは梶原君の仕事を本格的に手伝うようになった。本当にこの曲が彼の新たな転機を連れて来たのかもしれない。熊野さんは望んでいた建築設計の仕事に関われるようになってから、本当に楽しそうだ。どんどんイキイキとして輝きを増すその笑顔は、キラキラと眩し過ぎて。
―――目にするたびに見とれてしまって、内心困ってしまう。
それから―――多忙になった仕事の合間を縫って私達はデートを重ね、順調に一歩ずつ距離を縮めて行った。
時々梶原君がデートの邪魔をしに現れたり、熊野さんを出張させて熊野さんを騙ってレッスンの予約をして、愚痴とか世間話とか適当なおしゃべりをして帰って行く。
揶揄われたりして、ちょっと対応が面倒になる事もあるけれども……もう、意地悪な事を言ったり、私を傷つけるような台詞をワザと言うような事はしないから、まあ何とか適当に付き合っている。
もし熊野さんと結婚したら―――『元いじめっ子』が『義理の兄』になるのかなぁ?
そう考えると―――人生って何が起こるか分からないもんだな―――と、熊野さんとのデート中に思いついたら、何故か口元が綻んだ。
そんな私の顔を覗き込んだ熊野さんが優しく微笑んで、公園の木の陰で私の唇にキスを落とした。
【ピアノ・レッスン 完】
『ピアノ・レッスン』これにて完結致しました。
今回全編を主人公麗華の一人称で通しましたので、ポツポツ別視点の後日談などを追加する予定です。また立ち寄っていただけると嬉しいのですが。
お読みいただき、有難うございました。
※感想いただいた方、有難うございました。ネタバレ防止の為完結後としておりました返信をこれから作成します。遅くなってしまい大変申し訳ありませんでした。




