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レッスン45


梶原君はグラスに入ったワインを飲み干し、テーブルに置いた。それから手酌でもう一度グラスを満たすと、白ワインの入ったグラスを見つめながら、口を開いた。




「お前さ……」




一瞬言い淀んで言葉を切り、それから意を決したように私を見た。




「―――お前が転校したのって―――俺の所為せい?」




ドキン。




真剣な眼差しに晒されて、心臓がぎゅっと縮まった。


その通り。図星なんだけども―――何というか。


熊野さんから、梶原君の生立ちや、性格が捻じ曲がっても仕方が無いと思われるほどの彼の辛い経験を聞いてしまった後では……素直に肯定するのも憚られる。


それにこうやって彼が私に尋ねるって言う事は……熊野さんは私の話した事を彼に漏らしていないと言う事で。

―――私の存在すら梶原君に伝えなかったのだから、そうだろうと何となく思っていたけれども。


熊野さんは私が他の学校に逃げ出した後、梶原君が落ち込んでいたと言っていた。

だからきっと熊野さんも、今更梶原君に伝える事では無いって判断していたんだろうと思う。




それを私が言っていいものなのだろうか……。




しかし黙り込んだ私を見て、察しの良さそうな梶原君は理解してしまったようだ。

すっと瞼を一度閉じて、苦笑する。


「やっぱ、そうなんだ。そうだよな」

「……えっと……」

「俺、謝らねえから」




ん?




「浩太」




梶原君が放った言葉を理解するのに―――数秒掛かった。

理解してから―――あまりの台詞にポカンとしていると、熊野さんが射殺すような視線で梶原君を非難しているのが目に入る。




な、なんつった……?




私がずっとトラウマになっていた事。

最近やっと熊野さんのお陰で克服しつつある男性への恐怖心。


みんな、みーんな梶原君の所為なのに。


当事者じゃない熊野さんだって、周囲の視線が気になって恥ずかしくなるくらいの勢いで謝ってくれたのに。




それを―――『謝らない』って?

なんじゃ、そりゃ!




思わず怒りで肩が震える。


「浩太、お前何言っているのか分かっているのか?」


震える拳を握りしめて、爆発しそうな怒りに堪えた。

熊野さんが抗議の言葉を発してくれていなかったら、何と口走っていたか分からない。

せっかく和やかな雰囲気に収まりつつあるのに、過去の事を混ぜっかえした上で踏みつけるような事を言う、梶原君に呆れた。




後悔して、落ち込んでいたって言うのは何だったの……?

やっぱり俺は悪く無いって?

虐められて逃げる方が悪いって言うの?

弱い人間をゾンザイに扱うのは、強者だから当り前って言うこと?




変わったと感じたのは間違い?

大人になって、子供の頃の後悔は間違いだったって思い直したの?




私は息を吐いて、吸い込んだ。


言える。


平常心を保ったまま、嫌なコトは嫌と―――自分が『違う』と思った事を、権力もある、強気な大きい男の人に、私はちゃんと言える。

だって、隣には熊野さんがいるから。




「梶原く―――」

「俺が謝ったところで、事実は消えない。ただの自己満足だ。お前はずっと、俺を恨んでいればいい」

「―――は?」




はい?




「ずっと馬鹿な事をした俺を憎んで、蔑んでいればいい。俺が言葉で―――態度で謝ったぐらいで、お前にした事が消えてなくなるなんて事は無いんだ」




真剣な表情。

精悍なイケメンがそんな思いつめた表情をしていると、物凄く迫力がある。

思わず威圧されているような錯覚を覚える。


だって、怖いんだもん。


今ではすっかり心を許してしまってる熊野さんのしかめっ面でさえ、一瞬体が固まって緊張してしまうくらいだ。心を許していない梶原君の厳しい表情は、私にとって恐怖心を煽るものでしかない。


でも言っている事は、まるで反対だった。


この人は―――もしかして。

もしかしてと言うかやはりと言うか―――とんでもなく、不器用―――なの?


本能的な恐怖心にヒヤリと背を凍らせながらも、戸惑いつつ、そう感じずにはいられない。


「浩太、お前……」

「それだけの事をしたんだ。子供だったからと言って、謝って済むような話じゃない。姫野―――」

「ひっ」


テーブルに手を付いて立ち上がり、ずいっと私の方に身を乗り出す梶原君。

大きな体ごとぶつかって来るみたいに。

私は思わずピッタリと椅子の背に張り付いてしまう。




「俺をずっと恨んでいろ」




こ、こわいっ

真剣なのかもしれないけど、その凄みのある表情に思わず喉が詰まってしまう。


でも。


でも、そんなの―――梶原君の言う通りにするのなんて―――無理!




「い……嫌だよ!何で私がずっと梶原君を恨み続けなきゃならないの?そんな不毛なコト、やってられない」


気が付くと私も席を立ちあがり、テーブルにダンっと両手を付いて身を乗り出していた。怒りに似た熱い何かが込み上げて来て、自分をコントロールできない。

至近距離で梶原君を睨みつける。私の中の『恐怖心』は―――その時真っ白な燃えカスになっていたに違いない。


「もう、いいの……!確かに梶原君の所為で私の小学校時代、散々だった!三つ編み引っ張られて痛かったし!『キモイ』って言われて、死にたくなった!学校に行こうとするとお腹は痛くなるわ、頭痛はするわ、眩暈はするわで―――本当に辛かったけど―――トラウマで髪の毛伸ばせないくらいだったし、ほぼ男性恐怖症みたいになっちゃったけど―――」




あっ!




本当の事を言い過ぎた。

黙っていようと思った傍から、ペラペラ恨み言をぶつけてしまった!


梶原君は『俺をずっと恨め』なんて強気なんだか弱気なんだか分からない台詞を、凶悪な顔で言い放ったくせに、私の言葉を聞くにつれ蒼ざめて行く。そして―――ええい!なんでそんな傷ついたような表情かおをするのよ!


その雨に長く打たれたような萎れた表情に胸がざわついた。

何だって言うの?

先に仕掛けて来た本人が、そんな腰砕けになっちゃって!!


私は思わず怯んで動揺した。

人と争う事にも、面と向かってヒドイ事を言う事にも慣れていないのだ。

思い切って本心をぶちまけただけでガクブルなのに、挑発した相手に萎れられてこっちだって梶原君以上に蒼くなちゃうよ……!つーか『蒼』を通り越してもう頭ごと真っ白だよ!


体から力が抜けてストンと腰が椅子に落ちる。

助けを求めるように、隣に座る大きな熊野さんを見上げた。




熊野さんは―――苦笑していた。

だけどその瞳には優しい光が灯っていて、まるで『大丈夫だよ』と言ってくれているみたい。その光を見て、少し心が落ち着いた。




そうして落ち着いてから、もう一度、梶原君を見る。




彼の傷ついたような、自信無げな表情。

梶原君は後悔しているんだ。幼い頃、辛い境遇に傷ついて八つ当たりしていた自分を恥ずかしく思っていて、大人になって何でもないような顔をして暮らしていても―――まだその後悔から本当には逃れられていないんだ。




彼にとっても、私との事はトラウマだったんだ。




平気な顔して、自信満々な素振りで強気に話していたって。

普通に自分の仕事をこなしていても―――鬱憤をぶつけていたと、自分が馬鹿な事をやっていたと気付いた時に謝る相手はもういなかったのだから。そのジリジリする気持ちは解消されないまま、彼の心の奥底で燻っていたんだ。




頭がスッと冴える。




「いいよ」




一言目は、意識せずに唇から零れた。




「謝らなくていい。梶原君が後悔するのを、止めない。だけど私はもうトラウマを引きずるのは止めたの。それを引きずって、自分を小さな箱の中に閉じ込めるのは止めると、決めたの。だから―――私はもう梶原君を恨んだりしない」




ギュっと、スカートを握る。


本当は怖い。


傲慢で悪魔のようだった恐怖の対象。小さい声で抗議しても、泣きそうになっても容赦なく酷い言葉を浴びせかけて来たいじめっ子。理性で『梶原君も後悔している』と判断できても、本能の根っこでブルブルと震えている小学生を、すっかり消してしまう事なんて無理だ。


歯を食いしばって、強く心を持って続く言葉を、一言一言、噛みしめるように発する。

私の中の小学生から必死で目を逸らすけれども、握りしめた手が微かに震えた。




ふわり。




キツク握りしめるあまりに冷たくなった手を、大きなゴツゴツとした手が包み込んだ。

私はハッとして俯き気味になった顔を上げ、熊野さんを見た。


熊野さんの、励ますような瞳と一瞬視線が絡み合う。

温かいものが、すぐに私の皮膚に流れ込んできた。




大丈夫。




すっと、震えが止まった。




「だって、その方がずっと楽しい。それを私は熊野さんに教えて貰ったの。―――梶原君も私の事は忘れて欲しい。強制はしないけど―――きっとその方がもっと自由に動けると思う」




熊野さんの硬い掌の温度に励まされて、私はキッパリと言い切った。


梶原君を見る。

彼はじっと私の顔を見つめていた。




その表情は。




再会した時からずっと彼に対して感じていた、押しの強いやんちゃで自信家に見えるものでは無く。その強気な着ぐるみからそっと顔を出したような、心細げな表情だった。



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