レッスン43
「リゾート開発?」
揉めている間にすっかり規定の三十分間を過ぎてしまったので、レッスンは次回に持ち越す事にし、何故か三人で近場の懐石料理屋に移動する事になった。
梶原君の雰囲気は怖いけれども、意外と辛辣な熊野さんの指摘に狼狽える様子を見ていたら、私の中の恐怖心も少し落ち着いて来た。
けど、歩くときは熊野さんを挟んで距離を取る事を忘れない。
もう掴まれる三つ編みは無いけれども、本能的に体が竦みそうになるので熊野さんに盾になって貰う事にした。
同じ顔、体格は多少違うけれども背丈も声も似通っている二人に対して、こうも体の受け入れ態勢が違うというのは、本当に不思議だ。
それだけ幼い頃のショックが強烈だったのか。それとも、思い込みの強い私の性質が鮮明に我が身に恐怖心を刻みつけてしまったという事なのだろうか。あるいは両方なのか。
どちらにしても梶原君が一番悪いと言う事に、変わりは無いけれど。
熊野さんに連れられて入った日本料理を提供する懐石料理屋さんは、素朴でこじんまりとしているのに、何故か高級感も感じるという素敵な処だった。なんでも国際会議の開催会場になった某有名ホテルで働いていたという店長が個人で開業したお店で、フランスのガイドブック『ムシュラン』にも掲載されているらしい。
こんな歩いてすぐのところにムシュランに登録されるようなグレードの高い食事処があるなんて、知らなかった。流石、熊野さん。と、改めて関心してしまう。
熊野さんはメニューも見ないで『おすすめコース』を注文した。
梶原君は白ワインのフルボトルを頼んだけど、熊野さんの前でお酒の飲み過ぎで醜態ばかり晒している私はアルコール度数の低そうな『みかん酒』を頼んだ。ただ単に可愛らしいネーミングに惹かれた……と言うのもある。
ちびりと飲むと―――う……うまーい!100%ジュースみたいに飲みやすい。本当にアルコールが入っているのかと疑うほどだ。
梶原君が豪快にワイングラスのワインを煽ってから、頷いた。
「インドネシアのバリか、タイのサムイ島……あとマレーシアとかでのリゾート開発を目論んでいてさ。アメリカの大学で観光を学んで―――それからずっと親父に付いて回って旅行についての目利きには自信があるんだ。けどそもそもその土地に建物が建てられるのかとか、どんな設備が必要で手続きや費用や―――ほかに工事で注意する事はあるのかとか、全然ピンと来ないワケ。だから、そういうの詳しそうな豪太をずっと引き込もうと説得していたんだ」
「……いや、俺も大学で勉強したくらいで、そんなの全然経験に換算されないし。趣味で建物は見て来たけど―――ハウスメーカーで住宅の営業を数年経験したくらいじゃ使い物にならないって、何度も断ったんだけど」
「それでも、一通り経験あるかどうかで全然違うだろ。今回本当に助かったからな。特に現地の規制とか、地盤の事やライフラインなんか―――工事車両の出入りの事指摘された時は、目から鱗だったぞ。何せ腹を探る必要のない相手の率直な意見って言うのが大事なんだ。コンサル雇ったり新しい専門の社員を採用するにしても、相手の打算や利益をこっそり潜り込まされていないか考えるのって、かなり神経使うしな。経験や実績がある奴に限って虚勢や見栄で分からない事を分からないって言えない人間も多いし」
目の前でほぼ同じ顔の大柄な男たちが遣り取りしている単語には、今いちピンと来るものは無かったけど―――とにかく梶原君が海外にリゾートを作ろうと思っていて、建物に詳しい熊野さんに手伝って欲しいとずっと口説いていた。そして今回とうとう熊野さんが会社を辞める決心を付けて、候補地を見に行く梶原君の補佐をすることになったらしい―――という事は、理解できた。
「いやー、豪太が俺のトコ来てくれて、本当助かった」
「……まさか泣き落としされるとは、思わなかったからな……」
熊野さんもワインを飲みながら、苦笑している。
梶原君が『泣き落とし』……?
あのいじめっ子が、そんなプライドを捨てて必死になるなんて、不思議だ。
それにどれだけ、立場が逆転したっていうんだろう。
ちょっと聞いただけでも、梶原君のお家はお金持ちで大きな事業を動かす会社を持っているって言う事がうかがえるし、優良企業に就職したとは言え熊野さんは所詮一介のサラリーマンだ。
血が繋がっている兄弟とは言え社会的立場から言ったら、ずっと梶原君が上だろう。
それに子供の頃、父親の実家に半ば置き去りにされた梶原君に熊野さんは罪悪感を持っていたと言っていた。
大人になった今、二人の関係は正常な兄弟に戻ったのだろうか。
少なくとも私には―――そんな風に見える。
だって乱暴な口を聞きながらも、二人の間にある空気はどこか楽し気で、気の置けない感じが自然に伝わってくるんだもの。
それに熊野さんの声は晴れやかで、遣りたいコトを遣り切ったという爽快感に溢れている。
そういえば、営業じゃなくて設計や現場に関わりたいから、ずっと転属を希望していたって言っていたもんね。建物を作る計画に関わるのが楽しくてしょうがないってイキイキした感情が、熊野さんの体の周りに漂っている。
元気だったんだ。
そう思うと、ほっとした。
「とにかく、熊野さんが無事で良かったです。連絡が付かなくなった時は、本当に心配しました」
「お前、それであんなトコにいたのか」
私の言葉に返事をしたのは、梶原君だった。
『あんなトコ』って、熊野さんの実家のマンションのエントランスの事言っているんだよね。私は恥ずかしさに真っ赤になってしまう。
梶原君の正面に熊野さんが、その隣に私が座っている。
梶原君と斜め前で相対しても、隣に熊野さんがいると思うと安心感があって落ち着いていられるみたい。
梶原君の指摘に、熊野さんが眉を顰め、責めるように問いかけた。
「『あんなトコ』?浩太、お前何処で姫野さんと会ったんだ」
熊野さんと顔がそっくりな、しかし其処はかとなく悪者臭が漂うこの男は、意外にも姿勢正しく綺麗に座席に納まっている。私は梶原君に持っている昔のイメージから、椅子に座る時は常に偉そうに踏ん反り返るんじゃないかって想定していたから、ちょっと驚いた。
こういうのって梶原家でお祖母さんから厳しく育てられたから身についたのかなって想像して……感心すると同時に、ちょっと哀しい気持ちになる。
胸に湧き上がるモヤモヤとしたこの気持ちは―――『同情』なのだろうか?
でも、やっぱり少し怖い。
話し方も熊野さんと違って、横柄だし。
「中央区のマンション。お前より一足先に帰国して、ばーさまとじーさまの様子見に行った時にな。エントランスでウロウロしてた姫野と、鉢合わせた」
「……覚えて……ました?」
恐る恐る聞く。
だって、あの時私が誰だか分からない様子だったのに。覚えていたんだ。
「……あんな挙動不審なヤツ忘れるかよ。ところで何で同級生に敬語使ってんの?タメ口使えよ」
楽しそうにニヤリと笑いながら梶原君は言うけど、冗談じゃない。
タメ口なんて、梶原君と距離が縮まったように錯覚しそうで嫌だ。断固として使いたくない。
「部屋に戻ったら、ばーさまから『ピアノ教室のいめの』さんが俺に用事だって聞いて、しばらく考えていたら思い出した。ばーさま耳が悪いからな。細かい発音聞き間違ったんだ。『姫野』が『豪太』を訪ねて来たんだってわかったよ。お前、全然子供の頃から顔変わんねーしな」
余計なお世話……!
「それで、姫野さんの事を知ったのか」
「エントランスで会った時、絶対見た事あるって気がした。思い出した時はビックリしたよ。『何で姫野が豪太を訪ねてくるんだ?』って。……俺ならまだしも」
「……」
梶原君なんて、居場所が分かっても絶対訪ねないけど。
絶対零度の氷の視線を感じ取ったのか「お前、なんか反抗的な事、考えてないか?」
と私の顔を覗き込んで『悪魔』が真顔になった。
怖くて体を引いてしまう。
「……いえ」
「浩太、近い」
そう言って、熊野さんが梶原君の肩を押して引き離してくれる。
ホっ。
熊野さん!ありがとうございます!
私の緊張が緩むのが見て取れたのか、熊野さんがフっと笑ってくれた。思わず見返す私も自然に笑顔になってしまう。
「……で、お前の壊れたスマホ復活させて、メールの相手の名前確認したら、やっぱあの『姫野麗華』じゃん。お前がピアノ教室通っていたってばーさまに聞いて、琴似の教室だって分かった。らしくないコトしてるよな―――って思ったよ」
梶原君はテーブルに肩肘を付いて、ワザと姿勢を崩して熊野さんを睨みつけた。
熊野さんは挑発的な双子の兄の態度を、静かに見下ろしている。
「俺のスマホ、何で勝手に見るんだ。そもそもお前が俺のスマホ壊したから、姫野さんに返信も出来なかったんだ」
「新しい高級なのと取り換えてやっただろー」
「アドレスデータとか、全部不意になってどんだけ苦労したかわかるか?退職の引継ぎでバタバタしてやっと終わったと思ったら、いきなり飛行機で連れ去りやがって」
え!
「それで連絡が付かなくなったんですね……」
「突然連絡途切れて戸惑いましたよね。本当にご迷惑お掛けしました」
「いえっ!全く!!それに、熊野さんは全然悪くないですし!」
熊野さんが私に申し訳なさそうに謝ったので、私は焦って全力で否定した。だって悪いのはどう考えても梶原君であって、熊野さんでは無い……!
「どーせ、姫野は俺が悪いって言うんだろ」
「当然です」
拗ねた口調で言うから、ムカッとして言い返した。
すると、そっくりな精悍な二つの顔が、ポカンとした表情になった。
な、何……?
「ビックリした。お前―――ちゃんと言い返せるようになったんだな」
梶原君が気が抜けたように、息を吐いて言う。
熊野さんは、優しく目元を綻ばせて私を見ている。
「そりゃ……社会人ですし、もう十歳やそこらの子供じゃ無いから言われっぱなしのまま黙ってません。言いたいコトは言いますよ」
「へー。姫野、成長したんだな」
感心したように、言う梶原君に私は呆れた。
何それ。
同い年のくせに上から目線じゃない?
さっきだってピアノ教室で、言い返せたし。まあ、パニックで必死だったから「ちゃんと」言い返したわけじゃないけど。
けれども優しい熊野さんの眼差しを見て、思った。
確かに私は成長したかもしれない。十二歳の、反論も出来ず目を逸らしたまま他の小学校に逃げ出したあの頃から、学校や職場で人と関わって友達と胸の内を晒して付き合って―――今日この時までゆっくりと少しずつ、大人になった。
だけど、一番私を成長させたのは熊野さんとの出会いだ。
熊野さんと出会って、その人柄に触れて。子供の頃からずっと抱えて来て逃れられなかった苦手意識が劇的に改善された。
そして熊野さんと梶原君の生立ちを知って―――自分から見えない……見ようとしなかった、事情があるんだって―――いじめっ子にも、辛い事があって悩んでいて……『悪魔』とも思っていた相手も一人の『人間』なんだって改めて認識できたから。
今こうして。本能的に身が竦んでしまう梶原君相手にも、言い返せる強さを持てたのだと思う。




