レッスン4
「今日は、ありがとうございました」
「いいえ!では、また次のレッスンでお会いしましょう!練習頑張ってくださいね!」
私はシュタッと敬礼をし、直ぐに踵を返した。
キラキラスマイルに度肝を抜かれた私は、ドキドキする心臓の所為でパニックだった。妙な汗を掻いてしまう自分に動揺しきりで頭も働かない。これ以上熊野さんの近くに居れば体が沸騰してしまうような気がして―――一刻も早く逃げ出したかった。
しかしそんな私の内心の動揺を知らない熊野さんは、私を呼び止めて軽く眉間に皺を寄せつつも、スマートに言ったのだ。
「今日のお礼に、夕飯を奢らせて下さい」
「え?……いえいえいえ!そんな、滅相も無いっ」
ぶんぶんぶんっと、思いっきり両腕と首を振って拒否する。
「今更ですが―――スイマセン、かなり無理を言って貴重な休日を潰させてしまいました。今日付き合っていただいた買い物の時間はレッスン代に入っていませんし」
「気にしないで下さい。レッスン頑張っていただく為ですから!それに、結構私も楽しんじゃいましたし」
これは本当。久しぶりに懐かしい馴染みのお店に来ることができて、嬉しかった。……例え苦手な『男性』と一緒だとしても、それを忘れるくらい楽しかったと思う。
それに熊野さんの人柄に触れて――――ちょっと、苦手意識が減った。男っぽい見た目の男性が全て、小学校の頃のいじめっ子のように乱暴な訳では無い。と、頭では理解していた。だけど体はそれを認められ無くて、私は心が要求するままに苦手な事を避け続けた結果、今の今まで変われずにいたのだ。本当にいい大人が情けないが―――それは私の真実で。
熊野さんは、それを私がきちんと意識して認める切っ掛けを与えてくれたように思う。このまま喰わず嫌いのままで、構わないと諦めていたのに。
まるで初めて食べた苺が腐っていてお腹を壊したから『もう二度と苺は食べない!』と宣言する子供のように『他の苺は腐っていないかもしれない、ちゃんと美味しいかもしれない』という可能性も考えようとせず、大人に成った今でも苺全体を避けているような私。
苺食べなくても生きていけるよ~と突っ込まないでください。賢明な方は既にご理解いただいているかと思いますが『苺』は単なる例えです。実際の私自身は苺、大好物ですから。
しかし苦手意識が減っても、未だに私が男性に免疫が無いと言う事実は変わらない。
好きな音楽のエリア外で、立派な体格の男性と一緒に過ごすのは――――流石にツライよ。
首を振る私に、熊野さんの眉間の皺も深くなる。彼に対する認識は変わったけどやはり、その威圧感に無意識に震えてしまうのだ。
こわごわと彼の返事を待っていると不意に彼が肩を落とした。その様子に何となく罪悪感を感じてしまう。
熊野さんは悄然とし、ポツリと呟いた。
「……実は、既に予約してるんです。二人分頼んでいて……一緒に行って貰えませんか?一人で食べ切るのは辛いです。いかにも『振られた』って感じで」
「えぇっ!」
それは確かに、ツライかもしれない。
もう既に『予約済み』っていうのも、驚いたけど。
「そのお店、今度接待で使う予定なんです。だから下見を兼ねて、付き合っていただけないかと思いまして。」
そうか……仕事の序でなんだ。
少し心が動いた。
しかし、私はある事を思いつく。
「熊野さん、お付き合いされている方とか……同僚の女性にお願いされたら、どうですか?」
私にとっては苦手意識ばかり刺激される体育会系男子だけれども、冷静に客観的に判断すると――――これだけの美丈夫だ。彼女の一人や二人(?)もしくは女友達の一人や二人、いるに違いない。社内で彼に心を寄せている女性や仲の良い同僚など、一緒に連れて行く対象に事欠かないのでは無いだろうか?
奥さんが居ても不思議じゃないけどそれは無いな、と思った。さすがに既婚者だったら、私を誘ってお店巡りなどしないだろう……たぶん。いや、そう願いたい。
熊野さんはそういうチャラチャラした事はしない人に見えた。二回しか会っていない男性なのに、何故かそう言う確信のような物が私の中に芽生え始めていた。
『星に願いを』が好きな人に悪い人はいない気がする――――ってやっぱ、単純すぎる??
私を見下ろす熊野さんが、一瞬彫像のように固まった。
わ、私変なコト言ったかな?
な、なんか迫力が増した気が……。
その迫力に更に冷や汗を掻いていると、間をおいて熊野さんがゆっくりと返答した。
「あいにく、そういう相手がいないんです……姫野先生、付き合っていただけませんか?」
ドキリとする。
「……助けると思って。夕食に付き合って下さい」
あ、食事よね……『付き合う』って。
ハハハ……。これだから、免疫の無い女は……。
と、自虐的に心の中で呟く。
私、意識し過ぎなのかも。
良いじゃない。こんな機会、二度と無いんだから。
熊野さんも困っているというし。
私の中に強気でチャレンジャーな人格がヒョッコリと現れた。
苦手だと思い込んでいた体育会系『男性』の全てが、皆かつてのいじめっ子のように私に危害を加える訳ではない。
――――と、熊野さんとの出会いによって私の凝り固まった頭と認識に少し変化が訪れた、今。
――――リハビリと思って食事くらいしてみたら……?
例え恥ずかし過ぎて挙動不審になろうと、失敗して後で盛大に落ち込もうと、この先こんな経験をする機会は訪れないのだから、良いじゃない。
ピアノ教室に通う男性なんて、稀だ。これから増えるハズも無い。出会いを積極的に探しているわけでも無いから、プライベートで男性と知り合う機会もきっと今後無いだろう。
それにこれは、人助けだ。
やってやろうじゃない……!
ただの食事の誘いに、エラい気合を入れて重々しく頷く私。
「わかりました……っ」
「……やったっ!ありがとう!姫野さん」
咄嗟に熊野さんが私の両手を掴んで、ぶんぶんと振った。
わ、わわわ……。
そのフレンドリーな仕草に激しく動揺する私。目を白黒させてしまう。
歓びを露わにした熊野さんの笑顔は、またしても眩しい。
動揺し過ぎた私は、忙しなく瞼をパチパチと瞬かせたのだった。
そんなわけで、私はそのビルの最上階にいる。
なんと彼が予約していたのは『BIKUNI SAPPORO』という、超有名な高級フレンチレストランだった。
無駄に眺めが良い席で薄暮の迫る札幌の街を見下ろしながら、私が今堪能しているのは―――『至上の歓び“セゾン”』と題されたディナーコースだった。
これ、私が最初に熊野さんに案内した安価なキーボードが二本余裕で買えますな……。
何故買い物のお手伝いをしたくらいで、このような高級ディナーを奢られているのか。男性と二人で食事をした経験の無い私には、これが常識なのか非常識なのか――――さっぱりわからない。
し、しかし……
ウマい。
美味過ぎるっ。
彩り良く盛り付けられたお皿が、次々と運ばれてくる。
滑らかなジュレに浮かべられた雲丹とホタテは、あっまあま。
何コレっ、可愛い!!真っ赤なソースに乗ったカリふわの、白身魚の揚げ物。
アスパラの緑が目にまぶしい。
そのうえ、うわっ味が濃いぃーっ。朝採りだから?へぇー。
白老牛のフィレ?外側だけ慎重に火が入れられている。柔らかっ
北海道出身のフレンチ料理人がプロデュースしたレストランは、地場食材をふんだんに盛り込んだメニューで、客を持てなす事をコンセプトにしているとのこと。
私はときどき唸りながら、その素敵な一皿一皿をのめり込むように楽しんだ。
なので熊野さんがしかめっ面を解き私を微笑んで見ているというのに、それほどキラキラ光線にダメージを受けずに済んだ。私は心のままに―――シェフの手際に関心したり、その溜息の出るような味の見事さに集中することができたのだった。
ちゃんと我に返ったのは、苺のクレープ仕立てを口に運びつつコーヒーで一息ついた時だった。
正面でニコニコしている熊野さんに、気が付いて頬に朱が上る。
子供みたいに夢中になって『おぉっ』『これはっ……っ』っと、某美食マンガのキャラクターように感動に打ち震えてしまった自分を一気に思い出す。
今更ながら醜態を晒してしまった事に、気付いて内心アワアワしてしまった。
キラキラした熊野さんの笑顔を、全く直視できません。
「気に入っていただけましたか?」
「ええ……、とっても、美味しかったです……」
弱冠、目を泳がせてしまう。
熊野さんの凶悪なしかめっ面に慣れてしまったのだろうか……?
笑顔の方が妙に落ち着かなく感じてしまうなんて……。
「それは、良かった。接客も良いし、次の接待に安心して使えそうです」
「!……そうですね!きっと、大成功ですよ」
接待の『せ』の字も知らないが、適当に相槌を打つ。
とにかく美味しかったことは間違いないし、素敵な雰囲気にすっかり満足したというのは、事実だから。
しかし、不思議だ。
しかめっ面が怖い(あくまで私基準ですが)とはいえ、こんなイケメンでスタイルが良くて素敵なレストランも把握しているスマートな人に、彼女がいないなんて。
苦手フィルターが薄くなるにつれ、余計疑問に思う。
初対面のピアノ教師を誘わなくてもねえ。
彼女じゃなくても―――幾らでも食事相手が見つかりそうだ。
……でも、もしかして。
こんなに美味しい所連れて来られて素敵な笑顔を見てしまったら。大抵の女性はドキドキして熊野さんの事、直ぐ好きになっちゃうのではないだろうか。……もしかして、それが面倒なのかな?モテる人はモテる人なりの苦労とか、あるかもしれないし……。
って、モテて困る事ってなんだろう……?例えばストーカーとか?熊野さんの争奪戦で職場が荒れた……とか?彼女に嫌がらせされて別れる原因になったとか?……小説の読み過ぎかしら。そんなこと実際アルノカナ~~??男女交際の話題とかどうせ自分に無縁だと思って避けまくっていたから、現実のリアルな男女のハナシになったら、ぜんっぜんわからん。
一生懸命普通に接しようと努力はしていたけど。
きっと私の態度に隠し切れない苦手意識が滲み出ていたと思う……だから『これなら、安全そう』と思われた可能性はあるかも。
だから私を試食の供に誘ってくれたのだろうか?
そんな下らない事や下世話な憶測に頭を悩ませていると、熊野さんがフッと目元を緩めて私に話題を振った。
「姫野先生はピアノ、小さい頃からずっと続けているんですか?」
「そうですね。四歳から。何故かピアノだけはどんな時でも続けられて……結局『好き』って事ですかね。仕事にできたのは、本当に幸運でした」
「羨ましいな。俺は子供の頃からずっとアイスホッケーをやって来たんだけど―――足を怪我してしまったので今は趣味程度にしかやってないんです」
そう言って。
熊野さんは日が堕ちて浮かび上がってきた夜景を、ぼんやりと眺めた。
アイスホッケーって確か『氷上の格闘技』と言われて、かなりハードな競技だと聞いた事がある。もしかして……プロとか目指してたのかな?
やっぱり、と思った。彼の体はやはり長年鍛錬されて出来上がったものなのだ。シルエットからして周囲の人々と、言い方は変だが、人種が違うような印象を受けたから。
「熊野さんは―――どうして、ピアノを習おうと思ったのですか?」
ふと、気になっていた事を問いかけた。
アイスホッケーに夢中だったらしい熊野さんが、一転してピアノを、それも初歩からやってみたいと思った動機はなんなのだろう?
熊野さんは夜景を見ていたが、チラリと私を一瞥し、再び窓の外に目を移した。
「ええと……大した理由じゃ無いんですが……笑いませんか?」
「え?はい、もちろん」
私は首を傾げて、彼の顔を覗き込んだ。
少し照れているような仕草に何だか親しみを感じたからだ。
「……子供の頃……知合いの子が弾いてた曲なんです」
「そうなんですか」
「普段大人しい目立たない子なんですが、その子がピアノを弾いているのを見て――――驚いたんです。すごくイキイキしていて別人でした。本当に楽しそうで。あんな風に好きな事に夢中になれる子なんだって、感動しました。」
「……」
「その光景が羨ましくて――――触発されたからか、僕にも夢中になれる事ができたんですけど―――ケガをして以来何をやってものめり込む事が出来なくって……たまたま仕事で琴似に足を運んだ時に、ピアノ教室が目に入って思い出したんです。僕がホッケーに夢中になれた切っ掛けをくれたその子と、その子の弾いていた曲のこと」
熊野さんが語る光景が、不思議と目の前に拡がったように錯覚して心が震えてしまう。
目立たない大人しい子が、イキイキと夢中になっている様子にカルチャーショックを受けた、幼い熊野さんが思い浮かんだ。
「ネットで調べたんですよ。昔聞いた曲って結局なんて曲だったんだろうって。久しぶりに夢中になっちゃいました。それでその曲が『星に願いを』だって知ったんです。そしたら居ても立っても居られなくなってしまって。もし弾けるようになったら、燻っている今の自分がまた変われるような気が――――したんです」
目を逸らしたまま、熊野さんが言う。
なんだか、ほんのりと熊野さんの頬が赤い気がする。
予想外の正直さに、私の体もカッと熱くなった。
その子はもしかして、女の子?
直接そう告白している訳では無いのに、熊野さんがその子に恋をしていたのじゃないかと自然に察してしまう。
『コイバナ』なんて超久し振りだ。
しかもこんなどちらかというと猛々しい容貌の厳つい男性が、そんな繊細な気持ちを抱えているなんて想像したことも無かった。
こういう外見の人は、みんな乱暴で、デリカシーに掛けていて、人の気持ちに疎いのだと意識せずに私の中の本能は決めつけていたのだと―――熊野さんの話を意外に感じる自分に気が付き、初めて自覚した。
それに驚くと共に、思ってもみなかった返事が返って来て、予想もしなかったシチュエーションに陥ってしまい、頭が煮えた様になってドキドキと心臓が脈打つのを感じた。
何と返事をして良いか―――全く想像も付かない。経験不足なんだってば!
「は、はぁ……そうなんですか」
「……女々しいですかね?こんな風采していて」
ぎくり。
ちょっと似たような事を考えていたので、ヒヤっとする。
違う、馬鹿になんかしていないんだけど―――意外で驚いたから―――と、自分の中で必死に熊野さんに弁明する。でも口から出たのはひどく小さな声で。
「いえ、そんな事は……」
『女々しい』とまでは、思ってナイヨ~。ホントだよ……!
と心の中で訴えつつ、臆病な私はキョドキョドと不審な様子になってしまう。
―――が。急にストン、と体の中で何かが落ち、何処かに嵌る音がした。
意を決して拳を作る。
良いじゃないの……。似合わなかろうが、どうだろうが。
自分がやってみたい、そう思った事を条件が許すならチャレンジすれば良い。それが子供だろうが、大人だろうが……どんなタイミングだって、始めたくなった時が『始めドキ』なんだ。
私も小学校の時。いじめっ子から逃げ出す事を決意して―――ドキドキビクビクしたけれども、父母の協力の元、違う環境へ飛び出した。
そして両親に支えられ勇気を出した結果―――見事平穏な暮らしを手に入れたのだ。
仲の良い友達もできたし、今では好きなピアノを仕事にすることもでき、充実した暮らしをしている。未だにいじめっ子に似たタイプの男性は苦手だけど―――それが生きていく上で大きな支障になる訳では無い。
それにみっともない所を晒すかもと思いつつ、今日は男性と二人の食事にチャレンジできた。苦手なタイプの男性とも、買い物する事ができて少し自信のような物が湧いて来て……自分がやってみたい、やってみようかって、思えたから。
結果―――とっても、美味しかった!!
「良いと思いますっ!『女々しく』なんか無いです!チャレンジ上等!失敗したっていいじゃないですか。似合わなくったって!……熊野さんっ」
バンっとテーブルを両掌で叩くように、私は立ち上がった。
「全力でお手伝いしますので、素敵に弾けるように頑張りましょう!きっとその時、あなたの世界がまた変わります!」
興奮してガッツポーズで拳を固める私。
熊野さんは呆けたように、そんな私を見ていた。
口をポカンと開けて、何かを言おうと口をぱくぱくと動かした後……笑いだした。
その時漸く、気が付いた。
雰囲気の良い、フレンチレストランで仁王立ちしてガッツポーズをする女。
周囲から痛いほど好奇の目を向けられている……。
わぁー!
わ、わたし夢中になって、何てことを……っ!
ものすごい速さで、ボスンっと椅子に収まった。
ひぃっ、は、は、恥ずかしーーー!!
私の無様な様子を見ながら熊野さんは肩を震わせ笑い続け、あまりの羞恥プレイに、私はすっかり身を縮めて無言になってしまった。
彼の目元に涙が滲んだ頃、ようやく息を落ち着けてそれを拭いながら、熊野さんは改めて私と正面から目を合わせた。
そして花が開いたように破顔したのだ。
「……頑張りますので、よろしくお願いします」
……その笑顔に感じた震えは、きっと『武者震い』に違いない。