レッスン39
何故、熊野さんの家に梶原浩太がいたんだろう?
熊野さんに連絡を取ろうと、勇気を出して実家まで行ったのに私は梶原君が恐ろしくて逃げ出してしまった。
ただでさえ個人情報を聞き出して乗り込むなんて強引な行為に怖気づいていたのに、あの家に梶原君が出入りしていると知って、二度目を実行する事ができないでいる。
あ~~せっかく自分に似合わない行動力を発揮してみたのに、不発。
無念……。
熊野さん、今頃どうしているのかな?
外国って、どのあたりにいるんだろう?
そしてどのくらいそこにいるの?
日本には帰ってくるの?
元気かなぁ?
『星に願いを』―――練習してくれているかな?
結局最後の仕上げまで到達せずに、お別れになってしまった。
一緒に彫刻公園に行こうって言ってくれたのに。
あの時は舞い上がったなぁ。本当に夢みたいに嬉しかった。
……でもその後、小学校のいじめっ子の梶原君が彼のお兄さんだって聞いて、しかも彼は私が虐められる原因を作ったと私に罪悪感を持っているんだって告白されて。
約束は無効になったのかな?
だって、メールも電話も繋がらない。
彼の家も知らなくて、教えて貰って突撃したのに怖気づいて逃げ出してしまったから、彼がどうするつもりなのか確認もできない。
** ** **
今日は月曜日。
二ヵ月前までは熊野さんのレッスンが入っていた。
そしていつの間にか。
私は熊野さんが現れるこの日を、楽しみにするようになっていた。
だけどもう、熊野さんはこの狭い防音室に現れる事は無いのだろうか。
今日の最後のレッスンは小学生の孝也君だった。いつもなら事務員さんがまだ受付に居る時間だけど、今日彼女はインフルエンザでお休みだ。
だから片づけて戸締りをして帰宅しなければならない。
「えーと……スイッチを切って……コピー機の電源を落として……」
後始末を確実にしようと、つぶやきながら作業をしているとスマホが鳴った。
あ、事務員の増田さんだ。
何だろ。
スマホをタップして、耳に当てた。
「はい?」
『ひ、姫野さん?』
「増田さん?大丈夫ですか……?」
『あ……の、ごほっごほっ』
大丈夫じゃなさそうだ。
話そうとして、増田さんは盛大に噎せはじめた。
うえっほ、うえっほ!
と普段清楚な彼女に似合わないオヤジのような咳が聞こえて来て、こりゃ本格的に病んでいるなぁ……と同情してしまう。
「増田さん、無理しないで……」
『えっほ……わ、忘れていたげど!今日六時に予約があったので……げほげほっ個人レッスンの人がっえほっ』
「あ、大ジョブですよ、寝ててください。こっちで対応しますから!」
『あ、ありが……げほっげっほ』
「じゃあ、それ以上しゃべらないで……お大事に……」
電話を切って、スマホの画面を見るともう六時になる処だった。
慌てて落とした事務室の灯を付けて、帰ろうと羽織ったコートを脱いでハンガーに掛ける。
すると背中にキィッと入口のドアが開く音がして、コツコツとこちらに歩いて来る足音が聞こえた。
慌てて振り向き、笑顔で「こんにちはー!」と言って固まった。
そこに現れたのは。
熊野さん―――ではなく、彼にそっくりな梶原浩太だった。




