レッスン38
待っているばかりでは駄目だ。
私は自分から熊野さんを追いかけてみようと思った。
海外にいるとしても、連絡先を探してみよう。それで分からなかったら、初めて諦めれば良いんだ。
もう私は小学校の頃の私とは違う。
目を塞いで逃げる前に、足掻けるだけ足掻いてみよう。
先ずは『梶原浩太』だ。
御曹司だって言うなら、ネットで情報を検索できるかもしれない。熊野さんはフェイスブックとかにはあまり手を出していないって言っていたから、遥人君に連絡先を教えて貰うまで、そちらから調べてみよう。
そう思って調べると『梶原浩太』の情報がズラリと画面に並んだ。熊野さんが言っていたとおり、確かに老舗旅館から始まったリゾート会社の御曹司に間違いないようだ。次期後継者として日本中、世界中を飛び回っているらしい。
きっと熊野さんもこの会社に転職したんだろう。『梶原浩太』と一緒に今頃何処か外国の空の下にいるのだろうか……。
検索サイトで画像も出て来た。若干引いてしまうが、なんでも『イケメン御曹司』として有名だそうだ……。
写真を見ると、熊野さんとソックリだった。
一卵性双生児なんだろうな。入れ替わってもバレなかったと言うのも頷ける。今でもひょっとしたら入れ替われるくらい似ているんじゃないだろうか。
……いや、じっくり見ると少し違うかな?写真で見た限りではハッキリしないけど熊野さんの方が筋肉質で体が大きい気がする。それに笑い顔が……違うような気がする。
でも、道で見掛ければ本人と取り違えてしまうだろうし、やはり生き写しと言っても良いくらい似ている事には変わりは無い。
そうだ。
この顔だ。
私を虐めていた『梶原浩太』の面影が確かにある……。
熊野さんに出会って、熊野さんの告白を聞いたからか……記憶がクリアに戻り始めるのを感じている。
私の体は、嫌な記憶を拒否して封じ込めてしまっていた。
熊野さんが私の頑なな気持ちを解してくれたから―――嫌なアイツの顔も思い出せるようになったんだ。
うーん、この顔……
良く言えば、やんちゃ。
悪く言えば、悪魔。
やっぱり笑い顔を見ると、熊野さんとの違いが分かる。熊野さんの方が普段は少しコワモテで迫力がある……だけど笑い顔は爽やかで優しいんだ。
『梶原浩太』の画像を見ても、変な動悸は起こらない。
熊野さんが私の恐怖心を拭い去ってくれたのかもしれない。
もう、怖くない……でも目の前に現れたら、やっぱり怖いかも。実物を見る機会なんて無いだろうけど……できれば会いたくないなぁ……。
そんな事とツラツラ考えていると、スマホに遥人君からメールが届いた。
熊野さんの実家の住所を調べてくれたようだ。
独り暮らしをしていた熊野さんのアパートは既に解約されていて、それから実家の電話番号までは分からなかったようで、丁寧に謝罪の言葉を添えてくれた。
社会人らしい感じの良いメールを見て思った。
人って本当に……見かけに寄らないなぁ。
** ** **
そんなワケで次の週の土曜日。
私は今、熊野さんの実家と思われるマンションの前に立っている。
札幌市の中心部に程近い、創成川イーストと呼ばれる最近マンション開発が進んでいる地区だ。昔は工場や倉庫が立ち並んでいた地域で、古くから栄えているのだがここ十年ほど高層マンションが競うように新築されているらしい。
それは大通のテレビ塔を見下ろすくらいの濃紺の外装が美しい高層マンション。
ガラス張りで真新しい。
『実家』って言うと、イメージとしては郊外の古い『一軒家』って頭があったんだけど……間違いじゃないだろうか?それか遥人君に謀られた……??
あり得ないとは言えないのが悲しいなぁ~……。
と溜息を吐きつつ、勇気を出して共用エントランスにある操作盤で部屋番号を押す。
少し間が空いて『はい』と返事があった。
声だけだと、少しお年を召されているようなシワガレ声。
もしかして熊野さんのお祖母ちゃんだろうか。遥人君に騙されているのでなければ……。
「あの、私……豪太さんのピアノ教室の講師の、姫野と申します。豪太さんはご在宅じゃないでしょうか……?」
熊野さんが海外にいるという情報は、遥人君から貰っている。
だけど一時帰国しているかもしれないし、まだ準備中で日本にいる可能性だってある。それに、不在であれば連絡先を教えて貰えるかもしれない。
あくまで遥人君の情報がガセでは無く、私の身分をご家族が信用してくれて、更に連絡先を知らないという怪しい女に疑いも持たず、熊野さんのご家族が個人情報を漏らしてくれるのであれば―――という前提に基づいての事だけど。
『えーとぉ、”いめの”さん?コータはねぇ?今ちょっと買い物に出てるのよー』
え?!
熊野さん、いるの?
まさか、まだ日本にいるとは。それは殆ど想定していなかった。
『もうちょっとでぇ、帰ってくると思うんだけど……』
「おい」
背後から低い声が聞こえて、思わず飛び上がった。
バっと振り向くと、熊野さんが―――いや、熊野さんじゃない。
背の高い、威圧感のある厳しい表情の男が、口の端を歪めて私を見ていた。
「俺になんか、用か?」
その声と話し方に、私は震えあがってしまった。
「あ、あのー……」
歯の根が合わない。
本能的な恐怖心が湧き上がって来て、声が出なくなった。
「おまえ、一体―――」
『梶原浩太』の手が凍り付く私に伸びて来て、私はパニックになってしまった。
「す……すいません!ま、間違えましたぁっ……!!」
声が裏返ってしまった。
彼の手が触れる手前で忍者のようにバッと後ろに飛びずさり、私はビシッと九十度腰を折って頭を下げた。
それから彼の返事も聞かず、私は一目散でエントランスを逃げ出したのだった。




