レッスン37
「え……?」
「聞いてなかった?」
ドキドキした。
会社にもいない……?
じゃあ、連絡先が全く無くなっちゃったって事なの?
「うん……実は、メールが繋がらなくなっちゃて」
私は動揺してつい本音を漏らしてしまった。
熊野さんがレッスンに来ないと、教える相手は子供や女の人ばかり。昔はその状態で満足していた。むしろ男の人がいる環境なんて耐えられなかったのに。
今では彼があの狭い防音室に週に一度現れないというだけで、胸にもぽっかりと穴の開いたような気がしてしまう。
「遥人君、熊野さんは退職して今どうしているの?」
「……知りたいの?」
「知りたい!」
前のめりで言う私に、遥人君はニヤリと笑った。
「教えてもいいけど―――後悔しない?」
「え?」
後悔って何?私が聞いたら、嫌な気持ちになるような事?
な、なんだろ……
―――って!
まずは知らなきゃ分からないし。どっちにしろ分からなかったら、ずっと悩んでいるんじゃないっ!遥人君も意味ありげな言い方するけど、もともとこの人信用できないんだから、動揺する必要、まったく無し!!
もう、ウダウダ臆病になって殻に閉じこもるのは止める。
どんな結果になったとしても、まずは知ること―――それが無ければ何も始まらないんだから。
「後悔なんかしないよ!遥人君、何が言いたいの?早く教えてよ!」
強気に出た私に、遥人君は目を丸くした。
「なんか―――変わったね……麗華ちゃん」
「変わりますとも」
遥人君にも、かなーりビックリさせられたからね。
そりゃ、変わりますよ。素敵な王子様が後宮にいっぱい美女侍らせているって知ってビックリしましたからね。それこそ天地が引っ繰り返るほどに。
遥人君はクスリと笑って「じゃあ」と言った。
綺麗な顔を乗り出して、私の瞳を覗き込む。
「―――俺に一晩付き合ってくれたら、教えてあげる」
ピッキーン!
私の堪忍袋の緒が切れた。
寝言は寝て言え。
「今までの悪行、全部まとめて奥さんにバラすよ。私高橋さんと連絡先交換したの。情報残らず調べて、言いつけてやる」
「……」
遥人君は至近距離で私の瞳を見つめたまま、数秒固まった。
そしてフイっと視線を外すと、肩を揺らして笑い始めた。
「なっ何がおかしいのよ……」
「ククク……アッハハ……あー、おっかしい……」
そうしてドン引きする私の視線を物ともせず、彼は暫くヒィヒィ笑っていたけど、やがて目尻の涙を拭って復活した。
「冗談、冗談だって―――こわいな~もう……」
「じょ、じょうだん~??」
な、なんだとー!
人の純情をいちいち弄んで、何が楽しいんだっ!
「あー面白かった。笑わせてくれたお礼に、教えてあげる。熊野ね、海外に行ったんだ」
「え……海外?」
「どこだったかな?アジア―――シンガポールだかインドネシアだか、その辺りだった筈」
「熊野さん、何で急に……」
「兄貴の仕事を手伝うために行ったらしいよ」
「お兄さんのお仕事を……?」
そんな……。
幾らなんでも海外に行ってしまったなんて、思わないよ……。
携帯繋がらなかったのって、その辺の手続きの所為なのかな……?
でもそしたら何で、一度送ったメールを見てくれなかったんだろう……。
やっぱり―――私ともう連絡取りたく無かったからなの……?
「そんな、悲しい顔しないで」
遥人君が私の頬に手を伸ばして、覗き込むように顔を近づけた。
「熊野はもともと今まで君を騙していたんだ。アイツの兄貴に虐められて学校を変わったんだろう?熊野はそれを黙って君に近づいたんだ」
「騙して……?」
「そんな奴がいなくなったからって、悲しむ必要があるか?むしろいなくなって清々するだろう?」
柔らかい優しい声で囁かれると、すんなりとその言葉が胸に入ってくるような気がする。
そういえば、同じことを遥人君に言われた気がする。
あれは―――ホテルのロビーで別れた時?
(熊野も君を騙しているよ)
遥人君はそう言った。
熊野さんがいじめっ子の『梶原浩太』の兄だって、知っていたから……?
でも熊野さんは、人を騙すような人じゃ―――
「大学の時偶然知ったんだよ。俺のスマホで別の写真を探していて、それを偶然目にした熊野が麗華ちゃんの写真を見て動揺していたんだ。『この子は?どんな関係?』ってね。話す代わりに聞き出したんだよ、熊野の兄貴が君に嫌がらせをしたんだってね」
「でも熊野さん、私の名前知らないって言ってた……」
「ああ、教えなかったんだ。俺、君の事、好きだったって言ったよね?熊野が麗華ちゃんの事気にしていたからアイツの事情だけ聞くだけ聞いて、俺はダンマリを決め込んだ」
「……遥人君って……」
私はいつの間にか、遥人君に両頬を包まれている事に気が付いた。
おかしい。
私の動揺に付け込んで、すんなりと寄り添っている。
「……下種!……」
「え?そう?」
私はパッと体を引いた。
危ない、危ない……っ!!
「そっか……こうやって、慰められている内にいつの間にか深みに嵌っていくんだね……こっわ!」
私は自分を抱きしめるようにして鳥肌の立つ体を擦った。その様子を見て、遥人くんは苦笑している。それからクックックッ……と、声を出して笑い始めた。
「ほんと、普通の女の子と反応が掛け離れているよね。麗華ちゃんって」
「遥人君に言われたくないんですけど……」
『マイハーレム』持っている人に『常識外』みたいに言われたくない。
この人さっきから私の事『好きだった』とか『初恋』とか言うけど、全く信用できない。いや、というか言葉の重みが違うのかな……?遥人君の『初恋』の対象って、もしかして百人くらいいたりして。
そんな私の悶々とする想いをサラリと躱して、遥人君は真面目な顔に戻った。
「熊野の兄貴が麗華ちゃんに嫌がらせしていたっていうのを覚えていたからさ、それからここで麗華ちゃんに再会した時、麗華ちゃん言っていたでしょう?『クラスのリーダーの男子が乱暴で、三つ編み引っ張ったりからかったりされて男子が苦手だった。俺だけは普通に話せた』って。だからてっきり君にとっては熊野は苦手なタイプだと思っていたんだけど……」
確かに。
最初は苦手だった。
でも今は―――
「好みが逆転しちゃったかな?」
「好みが変わったんじゃなくて―――『熊野さん』が好きなだけなんですっ!!」
「……」
「―――あっ」
い、言っちゃった!
熊野さん本人にもハッキリ告白していないのに!
「へぇー……」
遥人君はテーブルに肘をついて首を支え、私を目を細めて見ている。
こうして見ると、本当に素敵な『成長した王子』なんだけどなぁ……。そして見た目だけなら私の好み、ドストライクなのに。
「つまんないの」
「へ?」
「何でもない。熊野の実家の住所なら知ってるよ。それでもいいなら後でメールしてあげる」
遥人君がソッポを向いて、拗ねるような口調で言った。
それは、優し気でも柔らかい雰囲気でも、彼が見せていた王子様風な仕草からは離れたものだったけれども。
何だか誠意が籠っているような、初めて親切にしてくれたような感じが滲んでいて……
「あ、ありがと……」
思わず少し照れてしまった。
「いーえ。麗華ちゃんは俺の……初めての『女友達』だからね。これくらいお安い御用ですよ」
そう言ってニッコリと笑った遥人君は、元のスマートなイケメン営業マンに戻っていた。
色々焦らされた文句とか謎かけのような彼の台詞に対する疑問とか……言いたい事は渦巻いていたけれども、その笑顔に取り付く島が無いような気がして、私はペコリと頭を下げたのだった。




