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レッスン36



熊野さんがレッスンを休止して一カ月。

休止というからには再開する意志があるのだろう……と、自分を励ましている。


だけど最後に見た熊野さんの寂しそうな表情が忘れられない。




オータムフェストの後、最初のレッスンが来る前日に熊野さんから事務の担当に休止の連絡が入った。私は迷った末、週末に熊野さんにメールを送った。


『休止の事聞きました。またレッスンに来ていただけるのを、待っています。”星に願いを”完成させましょう』


メールを送った後、一日待ったが熊野さんからの返信は無かった。

迷った末の月曜日、もう一度メールを送ってみる。いつもならその日に返信が無くても、翌日の朝には謝罪の言葉と共に返信が来ていたから、胸騒ぎがした。


『熊野さん?メール届いてますか?体調不良とかだったら心配です』


すると送った直後にメールが帰って来た。


『User Unkown…』


これって……嫌な予感がして、もう一度同じメールを送ってみる。

すぐに返信が届いた。




ち……着信拒否?!




ショックでガラガラと体が崩れていきそうだった。

だけど仕事があるから、何とか体制を整える。お母さんに「どうしたの?顔真っ青だよ」って言われて自分がどんな酷い顔をしているかって気が付いた。鏡を見ると―――本当に酷い。


うつろな気持ちでレッスン室へ向かい、次々現れる子供の拙いピアノ演奏に耳を傾けアドバイスをする。子供を連れてくるお母さん達と世間話を交わして、ぴょんぴょん飛び跳ねる子供とハイタッチをしてお別れする。




そんな暮らしを続けて一カ月。

熊野さんから連絡が入らないまま、レッスン再開の連絡も無いまま―――日常が通り過ぎて行った。


麻利亜に何度か相談しようと思ったけど……

熊野さんが私を拒否している事実を口に出すのが辛過ぎて、結局連絡できず終い。







その日も一日のノルマが終わって、肩で息を吐きながら地下鉄駅を目指していた。

駅ビルに入り地下に降りようとして―――そういえばお母さんに食パン買って来てって頼まれていたんだと思い出す。


危ない危ない。最近私ぼんやりし過ぎだなぁ。


エスカレーターに足を乗せる前に思い出し、方向転換してパン屋さんに入る。トレーとトングを手に、食パンのほか序でに大好きなシナモンロールをゲットする。だけど私の心は深く沈んだままだ。


シナモンロールの渦巻きを眺める。

まるで私みたいだ。

グルグルグルグル、悩み事を中心にして回っている。

悩み事は熊野さんの事。

熊野さんがどうしているのか心配だ。元気だろうか?そして熊野さんと連絡が取れない事も。

もしかして熊野さん―――これからずっと私と連絡を取らないつもりなの?


嫌だ。嫌だよ……。


そんな事を考えながらレジを済ませた。心ここにあらずの状態ながらも、ビニール袋を手に再び地下鉄駅に向かいパン屋を出ようとしたところで、肩を叩かれた。




振り向くとそこには、柔らかい笑顔で微笑むイケメンが。




「遥人君」

「なに?その嫌そうな顔」




私が心底引いているのが、全身に滲み出ていたらしい。

遥人君もパンの袋を手に持っている。

私は一歩下がって頭を下げた。


「では、さようなら」

「待て待て……」


がしっと手首を掴まれて、思わず身震いしてしまう。


「顔見て逃げるの止めて。傷ついちゃうからさー。ちょっとお茶ぐらいいいでしょ?奢るから」

「ええー……」


私ももう、遠慮はすまい。


「私、遥人君の『ハーレム』に加わる気、全く無いから―――じゃ、ごきげんよう」


グイっと腕を引くが、線の細く見える遥人君はビクともしない。

細マッチョか。くそー。


「……麗華ちゃん、熊野と付き合ってるの?」

「は?」

「熊野の方がよっぽど、酷いって分かってる?」

「何を……」


何を言いたいんだろう?熊野さんが教えてくれた事、遥人君は知っているって言いたいんだろうか。


「もしかして熊野さんのお兄さんの事?なら、全部聞いたから変な言い方しないで」


私が殺意を込めて睨みつけると、遥人君が「おっ」と言う顔をして手を離した。

意外そうに私の顔をジロジロ見る。

なんだか不愉快だ。


「何よ―――遥人君みたいな女っタラシに何言われたって、痛くないんだからね。嘘ばっかり言ってさ」

「嘘?」

「私が初恋だとか言って、騙そうとしたでしょ」


遥人君はそれを聞いて、ニッコリと微笑んだ。

なんだ、その罪悪感の欠片も無い綺麗な笑顔は。もう、騙されたりしないんだからね。


「嘘なんか言ってないよ、俺の初恋は麗華ちゃんだ。何で嘘なんか吐く必要あるの?」

「それは―――私を騙して、一緒に泊まろうって……」

「俺、女に困って無いから。騙してまで連れてかないって」


ぷっと噴き出した遥人君の笑顔に屈託は無い。


じゃあ、スマホの電源切ったり熊野さんと連絡させなかったり、ホテルの施設と知らせず喫茶店に連れ込んだのは、一体何だったんだっ……!


私が呆れて口を聞けないでいるとココアとコーヒーを頼んだ遥人君が、イートインの席に私を引っ張って行った。


「別に取って食いやしないよ。ちょっとお茶するくらいなら、いいでしょ?」

「……」


ココアの良い香りに絆された訳では決してない。

だけど私はムッツリとしながらも、それを受け取った。ひっきりなしに人が出入りするパン屋のイートイン。ここでこの間のような無体な真似は出来ない筈だ。

それに遥人君に確かめたい事がある。

せめて熊野さんが会社で元気にしているのかどうかを知りたい。同じ部署の遥人君なら顔くらい合わせるだろうから。


遥人君が熱いコーヒーに息を吹き掛けながら、啜るのを眺める。

こうして見ると、普通の優し気なイケメンだ。

まさか奥さんと子供がいるのに、沢山の女の人と関係を持っている鬼畜には決して見えない。


つくづく人って見掛けに寄らないなぁ……。


私はもう一人の見掛けに寄らない人を思い浮かべた。


「ここのパン、好きなんだね」


何から切り出して良いか分からず遥人君の買ったパンの袋を指さすと、彼はふっと楽し気に笑った。


「奥さんが好きなんだよね。だからよく買って帰る」

「奥さんが……そ、そう」


何故かこっちが焦ってしまう。


「遥人君は―――伊吹さんとも付き合っているんでしょう?」

「ん?ああ……まあ、付き合っているって言うか、彼女が落ち込んだ時に慰めているだけだよ」

「慰め……って、ただ話を聞くだけじゃあ……無いよね?」


オズオズと確認する私を、遥人君は上目遣いで見てクスリと笑った。


「俺がどんな風に慰めているかって、具体的に聞きたい?」


ぶんぶんぶんっと私は首を振った。


いらんいらん。御免被る。


すると遥人君が堪えきれないように、笑いだした。

何だその楽しそうな顔。私は憮然として、腕を組んだ。


「笑って無いでさ……奥さん大事にした方がいいよ……」


気分を害した私は、苦しい反論をした。遥人君にはチクリとも刺さらないかもしれないと思いつつ。遥人君はニヤリと笑って「相変わらず真面目だね」と言った。




もう、何も言うまい。




私は聞きたかった事を確認して、さっさと帰ろうと思った。


「あのさ。熊野さん……会社でどうしてる?元気かな?」


勇気を出してやっと口に出せた。

これ以上遥人君と分かりあえない話を延々と続けたく無かった。

すると遥人君が、すっと真面目な顔になった。


「……知らないの?」


遥人君が探るような目で、私の顔を覗き込んだ。

だから、近いんですってば。




「熊野なら、退職したよ。一週間前に」




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