レッスン35
「どうせ会えないのなら、姫野さんに影響を受けて頑張り始めた事をトコトン突き詰めてみようと思いまして。そんな訳で学校在学中にNHLのトライアウトを受けて合格しました。けれども卒業後念願のプロになるって決まった直後、試合中に靭帯を断裂してしまって結局夢は実現しないまま終わりました」
「……大変でしたね……」
努力を重ねて日本を飛び出してまで掴んだプロの夢。それが突然潰えてしまうなんて、どんなに辛かった事だろう。
私は思い出していた。熊野さんと初めて食事をしたレストランでの会話を。
『羨ましいな。俺は子供の頃からずっとアイスホッケーをやって来たんだけど、足を怪我してしまったので今は趣味程度にしかやってないんです』
私が『好きな事』を仕事にしたって言った時、サラリとそう言ってのけたのだ。
とんでも無い人だ。そんなふうに軽いノリで言えるような経験じゃなかっただろうに。
彼の精悍な目元を見て、しっかりとした眉を見て思う。
強い人だ。
すごく強い、男の人なんだ。この人は。
つい熱心に見つめてしまい、熊野さんの視線がこちらに戻った瞬間バチリと火花が散った。
「「……」」
数秒間。沈黙が流れた。
強い磁石でくっ付いてしまったように、目が離せない。
ど、どうしよう……ドキドキして来た。
「あ、あの!」
私はグルグル考えて、話題を探しながら声を発した。
「えっと……そのぉ……あ!あの、日本にはいつ戻って来たんですか?」
なんとか思いついた質問を口にする。
気まずさから目を逸らそうと、かなり挙動不審な様子だったと思う。だけど熊野さんは優しく微笑んで、私の突然の質問に答えてくれた。
「NHLに行けない事が決まってすぐ、北海道に戻ろうと決めました。大検を受けてH大を受験したんですがAO入試という半分推薦みたいな採用枠があったんで結構簡単に合格通知を貰えました」
簡単にって……スゴイなぁ。一応北海道で一番難しいと言われている大学なんだけど。
「何となく興味を持っていた建築の学部を選択しました。H大ではない私立大学の所属なんですが、母もそっちの分野で准教授として教鞭をとっていたので。それに海外で暮らしていた時、趣味で建物を見て回っていたんです。もともとそれ程社交的では無かったんですが―――言葉を操るのに中々苦労して慣れるまで結構孤独だったんです。休みの日は独り寂しくあちこち見て回るくらいしか、遣る事無かったんですよね」
「それで今、ハウスメーカーに勤めているんですね」
「と、言っても営業ですけどね。俺は設計とか現場を希望していたんですが、なかなか異動の希望も受け入れて貰えなくて、ちょっと燻っていたんですよ。性格的にも合わないんですよね……望月みたいな性格だったら、苦にならないんでしょうけど」
熊野さんは少し眉を下げて、困ったように笑った。
そうなんだ。熊野さん、仕事の事で悩んでいたんだな。
そんな素振り、私の前では全然見せなかったのに。いつも明るくて前向きで……。
しかし。しかしですよ?
最後の一言はいくら熊野さんの台詞でも、聞き捨てならないと思った。
「熊野さんが遥人君みたいになっちゃったら、困ります……!私なら絶対、遥人君からじゃなく、熊野さんからお家を買いたいですっ」
思わず拳を握って力説してしまう。
だって、遥人君なんか信用できないもん。
熊野さんの方がずっと誠実で素敵なのに、遥人君を羨んだり目標にしてなんか欲しくない!
「アハハ、大丈夫です。俺も望月みたいにはなりたくないです。ただ営業なんかやっていると、ああいうアタリが柔らかい奴の方が向いているなって痛感する時があるんです。ほら、俺ちょっとコワモテでしょう?体も長年鍛えて来た所為でムキムキだから、奥さん方に最初怖がられるんですよ。一軒家を買おうって人達は、結局みんな奥さんの意見を尊重しますからね―――俺、男性にはすぐ気に入られるんですが……」
う、確かに。
熊野さんって人外レベルでカッコいいけど、近くにいると少し萎縮してしまう雰囲気がある。
でもきっと美形だから、遠巻きに見てドキドキしている女の人が多いんだと思う。気軽に話をできる感じじゃないんだよな。慣れて仲良くなれば、優しい人だって理解できるんだけど。
きっと夢が叶ってプロになっていたら……人気選手になっただろうなぁ。日本でも逆輸入みたいに取り上げられて、あっという間にスターになったことだろう。こんなに近しく話ができるようになるなんて、きっとあり得なかっただろうなぁ。
「姫野さんにも、最初怖がられましたしね」
「あ!それは……スイマセン。あの時は男の人が苦手だっただけで、熊野さんだから怖かったという訳では……」
シドロモドロになって、弱々しく否定してしまう。
スイマセン。こう言っておいてなんですが、熊野さんみたいな厳つい体育会系男子がドストライクで苦手でした。本当に怖がってました。図星です。
その原因を作ったのがまさに、熊野さんと同じ顔の双子のお兄さんだったのだから―――うん、恐怖の原因そのものの外見を備えていたって事になる。
でも、中身が全然違うんだもの。
見た目だけで人を判断したら、いけない。
今回は強くそう学んだ気がする。
「長年追いかけて来た目標を失って日本に戻って来ましたが、それでも学生のうちは興味のある建物の設計や研究に携わる事ができて、楽しかったんですよ。研究室にいる間は休みも無くて多忙でしたが、学部生の時はカナダにいた時に嵌った建物巡りばかりしていました。長い休みになると国内や海外の建物を見にいったりして、あちこちウロウロして」
「わぁ。それは、楽しそうですね!」
熊野さんは懐かしそうに目を細めた。
視線の先にはきっと、これまで巡って来た沢山の旅先の思い出が映し出されているんだろう。
「ハウスメーカーに就職が決まって営業に配属されました。けれども三年経って―――このままで良いのかって悩む事が多くなりました。望月ほどでは無いですが、営業成績も上がって上手く立ち回れるようにはなってきたと思います。最初は営業の経験が設計や現場に移った時に役立つと考えて前向きに働いていたんですけど―――転属希望も通らなくて内心燻ってしまう気持ちを抑えられなくなってきていて―――そんな時、街で貴方を見掛けたんです」
何処か遠くを見ていたような熊野さんの瞳が、私を捕らえた。
「私……ですか?」
「はい。琴似にある中古物件のオープンハウスを担当していた時です。内覧会の時間が終わって地下鉄で事務所に帰ろうとしていた帰りに、姫野さんを見掛けました。最初は見た事がある人だって引っ掛かっただけなんです。だけど何だか目が離せなくて……思わず通り過ぎた背中を立ち止まって見守ってしまいました。すると姫野さんはピアノ教室に入って行ったんです。それで思い出しました『あの子に似ているんだ』って」
「……小学校の頃の―――私ですか?そんな昔の事、よく覚えていましたね」
「確信が合ったわけじゃないんですが、『ピアノ』と結びついて記憶が蘇ったんだと思います」
そうだ、それに私の顔って全然変わってないんだった。
私はその事に思い至り、気まずげに視線を落とした。
「……よく言われるんです……『小さい頃から顔変わってないね』って……」
何だか二十五歳のいい年の女としては、それってどうなんだって思ってしまう。友達は面白がってくれるけれど、男性には「見違えるほどきれいになったね」って言われたいのが、乙女心だ。
「うん、変わってないですね」
熊野さんは大きく頷いた。
くうぅっ……私はなけなしのプライドをポッキリと折られて俯いてしまう。
「昔と変わらず―――可愛らしいです」
ぼんっ
一瞬で私の頬は真っ赤に染まった。
この人は何度私を爆発させれば気が済むんだ。
割とコワモテでそんな事一言も言いそうもない人が、サラッと放つ言葉の破壊力ったら無い。
そうか、この部分が海外暮らしで培われた部分なんだな。だから時々私が身悶えしそうなくらいの台詞を、眉一つ動かさず放てるんだ。
私は真っ赤になったまま、話題を逸らした。
「そ、それで入会してくれたんですか?じゃあ……ど―――どうして入会した時に知り合いだって言ってくれなかったんですか?」
「確証が無かったんです。小学校の頃は姫野さんに二度と会えないって言う事がショック過ぎて、以来浩太とその話題について話す事は無くなりました。浩太も話したく無かったようです。実は名前も確認できないままでした。ただ似ている人なのかもしれない―――そう思ってその日は帰ってから、眠れずに昔姫野さんが弾いてくれた曲をネットで検索していました。それで―――ピアノ教室に入会してみようと決心したんです。もし見掛けた女性が本人じゃ無くても、あの曲が弾けるようになったら今の閉塞感から抜け出す切っ掛けになるような気がしました。だけどもし本人だったら―――その時はどうしたら良いか、名乗るべきか―――どうするべきか決められないまま、ピアノ教室に申し込みをしてしまいました」
「いつ―――私が梶原君の同級生の私だって、気が付いたんですか?」
「完全に確証を持ったのは、ビア・ガーデンの日です。でも、初日に『いじめっ子に髪を引っ張られた』って聞いて、もしかしたらって思いました。浩太は貴女にどんな仕打ちをしたのか詳細には語らなかったので」
「ビア・ガーデンの時……そうですね、うろ覚えなんですが私かなり愚痴ってましたもんね……その節はご迷惑をお掛けして……」
今思い出しても恥ずかしくて自分が情けなくなる……子供の頃の事を―――私的な話を生徒さんに愚痴りまくるって、講師失格と言われても仕方が無い。
それに熊野さんに絡みまくって、歩くときには杖に、電車では枕にして……思い出すだけで血の気が引いてしまう。
「いえ、本当に全然大丈夫ですよ。うちの同期の飲み会の方が酷かったでしょ?小松とかああいう迷惑行為を平気で行う奴もいますからね」
「でも、酔っぱらってくっついちゃったり、電車で枕にしちゃったり……」
俯く私に熊野さんはクスリと笑いかけた。
「本当ですよ。むしろ役得でした。いつも俺から一歩距離を取って怖がっているような姫野さんが、自分から近づいてくれて嬉しかったんです。だけどその時姫野さんが、あの頃一緒にいた女の子だって分かって浩太の虐めでかなり傷ついたって事を実感しました。未だにその傷が癒えていないんだって事も分かって―――自分が『梶原浩太』の弟で、貴方が虐められる切っ掛けを作った人間だなんて―――言い出せなくなってしまったんです」
「でも、それは熊野さんの所為じゃ―――」
「姫野さんはそう言ってくれるかもしれないと……お会いしている内に何度か考えて言おうかどうか迷いました。でも貴女との距離が段々縮まって行くのを感じて―――女々しいと思われるかもしれませんが、嫌われてまた姫野さんと会えなくなるのが怖かったんです。実際俺と浩太は実の兄弟ですが、戸籍上は違います。このまま、事実を知らせないままでも姫野さんと付き合って行けるんじゃないだろうかって、馬鹿な考えから抜け出せませんでした」
熊野さんは自嘲的に笑った。
そんな笑い方は彼には似合わない。
「やっぱりズルい事はできませんね……姫野さんに俺のお陰で『男が苦手な気持ちが無くなって感謝してる、小学校の頃虐められて辛かった事で閉じ籠ってしまっていた自分じゃダメだって教えて貰った』って言われて、純粋な感謝の瞳を向けられて―――自分が如何に臆病でズルい人間だったのかって―――思い知りました」
「熊野さん……」
何と言って良いか分からない。
ただ熊野さんが自分を責めていて―――そんなのは間違っているって事だけはわかる。
でも何と言えば、熊野さんの気持を掬い上げる事ができるだろう?
私が言い淀んでいると、熊野さんは再び頭を下げた。
「謝って済むなんて、簡単な事だなんて思っていません。だけど、髪も伸ばせない程傷つけてしまって、それが自分の所為だって分かっているのに言い出せないまま傍に居続けた事―――本当に申し訳ありませんでした。浩太の分も合わせて―――お詫びします」
熊野さんの謝罪に、何とか気を取り直して貰おうと言葉を尽くしたけれども、彼の表情は晴れないままだった。楽しかったハズの私から初めて誘ったデートは―――モヤモヤした後味だけを残して終わってしまった。
何と言えば良かったのだろう―――?
どうすれば、彼の気持ちを浮上させる事ができたのだろうか。
その日家まで送ってくれて、私の家の門の前でもう一度ガバっと頭を下げた熊野さん。
寂しそうな、切なげな表情が目に焼き付いて離れない。
その後熊野さんから事務の担当者にレッスンを休止する連絡が入って、熊野さんはレッスン室に現れなくなった。




